見もの・読みもの日記

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集めては手放し/狩野亨吉(東大駒場博物館)

2015-12-03 23:03:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京大学大学院総合文化研究科・教養学部 駒場博物館 『教育者・蒐書家・鑑定人 狩野亨吉 生誕150周年記念展』(2015年10月17日~12月6日)

 狩野亨吉(かのうこうきち、1865-1942)を何者と定義すればいいだろうか。一高の校長、京都帝国大学文科大学の初代学長をつとめているから、まあ学者ないし教育者の範疇には入るだろう。先例にとらわれず、民間から内藤湖南先生を京大に招いてくださった恩人として私は記憶している。10万点以上の貴重な蔵書を東北帝国大学に売却し(そうか、寄贈ではないのだ)「狩野文庫」として現在に伝わっているのは有名な話。しかし、狩野の書簡やメモ、授業ノートや日記などの資料は、東大駒場図書館が所蔵しているのだそうだ。初めて知った。

 「狩野亨吉資料」が、どういう経緯で東大駒場図書館の所蔵に帰したのか。もともと八田三喜(狩野の弟子)が保管していた当時の行李が展示されていたから、八田から東大に寄贈されたと考えていいのかな。ちゃんとメモを取ってこなかったので、よく分からない。そもそも資料群の呼び名も「狩野亨吉資料」だったり「狩野亨吉文書」だったり、一定していない。

 それはさておき、狩野亨吉は慶応元年、秋田藩大館に生まれ、東京に移住し、番町小学校(おお、あの有名な)、府立一中、東京大学予備門を経て、東京大学に入学する。理科大学数学科を卒業後、文科大学哲学科に入り直してこれも卒業する。展示の狩野の「大学院入学許可証」には、理学士・文学士の二つの学位が記載されていた。私は狩野というと文学士のイメージが強くて、夏目漱石や芳賀矢一との交友は腑に落ちるのだが、平山信の名前は、はじめ誰だか分からなかった。一緒に皆既日食を観に行ったという資料を見て、天文学者の平山信か!とやっと気づいた。

 平山とは関孝和について話し合ったり、ハレー彗星の古記録を調べて送ったりもしている。志筑忠雄の星気説を「発見」したのも狩野。旧制四高での「天文学」の講義ノートも残っていて、びっくりした。ほんとに文理の両刀使いだったんだな。ほかにも岩波茂雄、和田万吉(東大附属図書館長である)などの書状が多数展示されており、封筒も一緒に残っているのが(住所なども分かって)面白かった。一高の校長時代のエピソードでは、鳩山一郎が入寮を嫌って自宅通学を願い出たときの対応(鳩山春子筆の書状あり)、清国京師大学堂からの留学生受入れに関する資料が興味深かった。

 しかし、何と言っても狩野の面目躍如なのは蒐書自慢だろう(今なら「鬼畜」という言葉でホメるところ)。藤岡由蔵日記(藤岡屋日記)も狩野の所有だったのか!! 安藤昌益『自然真営道』ととも東京帝国大学図書館に売却されたが、関東大震災で灰燼に帰した。東京市史編纂室に写本が残ったのはせめてもの幸い。狩野はまとまった蔵書を、各地の図書館に売却していたようだ(寄贈したものもある)。そのお金で借金を支払って、また新たな本を買う。貯め込むだけでないのが清々しい。晩年は書の揮毫や鑑定(書画および筆跡)で暮らしていたらしいが、それで生計が成り立ったんだろうか。岩波の漱石全集の背文字が狩野の書であるというのは、初めて認識した。

 あと展覧会ではあまり掘り下げていなかったが、春画の蒐集家としても有名であったらしい。Wikiには、どこまで本当か分からないが、あぶない逸話も語られている。いずれにしても、こういう変な人物が悠々と生きていられた社会は成熟していていいなあと思う。

※参考:狩野亨吉生誕150周年記念「狩野亨吉の書物」研究会(2015/11/3)(東大EACS:東アジア古典学の次世代拠点形成―国際連携による研究と教育の加速)→中村士先生の「狩野亨吉の天文暦学書蒐集と国立天文台史料」が聞きたかった。
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