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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

地域の誇り/足立の仏像(足立区立郷土博物館)

2012-12-12 23:57:48 | 行ったもの(美術館・見仏)
足立区立郷土博物館 区制80周年記念特別展『足立の仏像-ほとけがつなぐ足立の歴史-』(2012年10月20日~12月9日)

 最終日に駆け込み。私は東京下町(足立区のすぐ南の江戸川区)の生まれだが、この展覧会の噂を聞いても、足立区に仏像?あるの?と、にわかに信じられなかった。そうしたら、一週間ほど前、同展のポスターを目にして、これはなかなかいいかもしれない、と思い、最終日に行ってみた。足立区立郷土博物館までは、綾瀬駅からバス。へえ~東京東部の区立博物館って、こんなに立派なのか、とびっくりした。(ひとむかし前の貧乏地区のイメージが抜けていない…すいません)

 1階の「第1部 足立の仏像」では、仏像・仏画等、およそ35点(入れ替えあり)を紹介し、2階の「第2部 仏教文化と足立のくらし」では、古文書・浮世絵・地誌・板碑など、仏教文化を通じて地域の歴史や民俗を解説する。メインホールで目立っていたのは、常善院の大日如来像(これはいい!)と吉祥院の弁財天坐像。どちらも元禄時代の仏像だ。こんな新しい時代の仏像には、あまり心を動かされることがないのだが、虚心に見てみると悪くないものもあるなあ、と思った。

 ほかに「鎌倉時代」とか「鎌倉後期~南北朝時代」というキャプションを添えた仏像もある。ええ、マジ?と近寄って、よく説明を読んでみると、頭部と手先は後補、などの説明がある。なるほど、印象を決定づける頭部をあえて見ないようにして、体部の衣文の表現だけに視線を合わせてみると、古い、優れた仏師の作かもしれない、と納得がいくものもある。

 会場には、所蔵先のお寺の名前と住所、そして写真も掲げてあって、親切だと思ったが、残念ながら知っているお寺は全くなかった。でも、入谷とか千住とか西新井とか…言われてみれば由緒のある土地柄なんだな、と初めて気づいた。そして、江東区や台東区、荒川区などが、太平洋戦争下の空襲で、甚大な被害を受けたのに比べると、これだけの文化財が残っているということは、足立区って、意外と焼けなかったのかな、と思った。

 展示・第2室に「近・現代の仏像」というコーナーがあり、高村東雲(光雲の師匠で養父)、高村光雲、森鳳声らが制作した仏像を興味深く眺めた。さらに美しい白木の大日如来坐像があって、その前で会話しているおじさん二人がいた。主に質問をしている初老のおじさんの声が大きいので(本人は至って真面目なんだけど…)気が散って閉口したが、会話の内容から、質問に答えている方が、大日如来坐像の作者らしいと気づいた。足立区内に彫刻工房を構える、渡邉宗雲さんである(※ホームページ)。

 2階を見終わって戻ってきたら、メインホールでギャラリートークらしきものが始まっていたので、もう一周しながら聞かせてもらった。「真田」の名札をつけていたのが、同展の企画をされた専門員の真田尊光さん。もうおひとり、時々掛け合いをしていた職員の方(たぶん)がギャラリーに混じっていた。この展示に先立つ、現地寺院での調査の様子なども聞けて、興味深かった。

※参考:YouTube版『足立の仏像-ほとけがつなぐ足立の歴史-』紹介
これはいいなあ! 登場するお坊さんたちが素直に誇らしげなのがステキ。
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描かれ、演じられた行列/行列にみる近世(国立歴史民俗博物館)

2012-12-11 22:59:26 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立歴史民俗博物館 企画展示『行列にみる近世-武士と異国と祭礼と-』(2012年10月16日~12月9日)

 「全国的な広がりをもって行列が往来した」という日本近世の特色に着目し、参勤交代の武士の行列、朝鮮通信使や琉球王国の使節、オランダ商館長など外国使節の行列、祭礼の行列など、さまざまな行列を紹介する。

 冒頭、私たちが行列といえば最初に思い浮かべるのは「大名行列」だが、屏風や絵巻物に書かれた画像の多くは、近代以降の制作です、という指摘に驚く。そうなのか? 冷静に考えてみれば、上杉本『洛中洛外図』も、『東福門院入内図屏風』も、行列は描かれているけど、参勤交代の図ではない。近代的な諸制度が整った後、平和で繁栄した徳川の世の象徴として、武士たちの行列が懐かしまれるようになったという。関連して、西条八十作詞の「鞠と殿様」、作者不詳の童謡「ずいずいずっころばし」(御茶壺道中)が取り上げられていたのは、私の世代にはなつかしかった。

 続く「異国の使節の行列」では、かなりスペースを割いて、めずらしい資料を公開。朝鮮通信使の歓迎は、とにかく盛大なプロジェクトだったんだな。琉球使節を描いた瓦版が、ハワイ大学図書館にあるのか~など、興味深く眺めた。

 企画展示・第2室に移ると、「祭礼の行列」。江戸の天下祭り(神田祭と山王祭)、京都の祇園祭など、神輿を供奉する神主と武士+町人たちが町単位で出す出し物を組み込んだ行列が、各地の城下町でおこなわれた。大阪府立中之島図書館蔵『崎陽諏訪明神祭祀図』だったかな、神輿渡御の間は、路傍の家の中にいる人たちは、礼儀正しく眺めて(時には拝んだりして)いるが、出し物行列になると、どんちゃん騒ぎの酒宴となり、最後に長崎奉行がやってくると、簾を下して、簾の中で酒宴を続けている。

 さらに面白いのは、町人たちの祭礼行列の中に、領主の行列(大名行列)や外国使節の行列が「仮装」として組み込まれるようになったこと。しかし、外国人に関する情報が不十分だと、あり得ない空想が演じられるようになる。朝鮮通信使の一行に、馬上で鶏をむしって食べている人物が描かれているなどが、その一例。あと、実際の大名行列では、酒に酔って赤い顔をした武士も描かれているのに、「仮装」では実際以上に毅然とふるまっている、というのも面白かった。この「現実」と「仮装」の判別は、同時代の人たちにはできたのかもしれないが、今日、絵画資料を使う場合は、要注意だと思う。

 「エピローグ」では、近世から近代に移り変わる時期の行列に注目。天保10年(1839)3月中旬から4月にかけて、京都市中で爆発的に流行した「京都豊年踊り」またの名を「蝶々踊り」と言って、赤いものを身につけたり、野菜や動物に仮装して、踊り狂う人々の絵画資料に目を見張ったが、これはもう「行列」の範疇じゃないような気がする…。

 後半は、ギャラリートークのおかげで、見どころがよく分かって、非常に楽しめた。12/8(土)にギャラリートークは予定されていなかったはずだが、行ってみたら、声が聞こえてきたので、途中から参加してしまった。終わってから講師が時計を見て「やっぱり二時間かかっちゃったか~」と苦笑まじりにつぶやいていらした。熱いなあ。たぶん久留島浩先生だと思う。

 れきはくの展示は、資料を読む楽しみがビジュアル化したような趣きがあって、ほかの博物館や美術館では味わえない、独特の興奮がある。久留島先生は、電子化した絵画資料を、大型のタッチスクリーン上で、自在に拡大したりスクロールしたりしながら「ほら、ここ、この人物!」とテキパキ解説していらした。こういう取組みも、もっと広まればいいと思う。
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さよなら、有難う/文学のレッスン(丸谷才一)

2012-12-10 23:14:01 | 読んだもの(書籍)
○丸谷才一、湯川豊(聞き手)『文学のレッスン』 新潮社 2010.5

 著者の丸谷才一さんは、2012年10月13日に亡くなられた。87歳。私はこのニュースをしばらく見逃していた。1週間くらい経って、ネットのどこかで「追悼・丸谷才一」という文字を見たとき、ああ、とうとう(来るべきものが)という諦めの気持ちと同時に、にわかには受け入れがたくて、その記事の載ったサイトを読まずに閉じてしまった。

 最後に読んだ丸谷さんの本は、いまブログ内検索をかけると、2009年刊行のエッセイ集だったが、私は丸谷さんの仕事が大好きで、特に1980~90年代の著作は、小説も評論も随筆も発句も歌仙も対談も、片っ端から読んできた。豊かで、朗らかで(祝祭的!)みずみずしい知性と過ごすひとときは読書の醍醐味そのもので、こういう著述家と同時代を生きていることを本当に幸せに思ってきた。

 個人的に丸谷さんを追悼するために、何を読もうか、しばらく考えていた。まだ読んでいない近刊の小説? むかし読んだ歌仙の再読? そのとき見つけたのが本書である。初出は新潮社の季刊誌「考える人」2007~2009年。編集部が差し向けたインタビューアーの湯川豊氏を相手に、丸谷さんが8つのテーマ(ジャンル)の文学論を語っている。短編小説、長編小説、伝記・自伝、歴史、批評、エッセイ、戯曲、そして、詩。

 文学の王道、「短編小説」「長編小説」の章は、お勉強としては納得できるのだが、いまひとつ面白くなかった。やっぱり私は小説が苦手らしい…。「伝記・自伝」あたりから面白くなり、「歴史」で、俄然テンションが上がってきた。この章のサブタイトルに「物語を読むように歴史を読む」とあるが、そうそう、私の幸せは、歴史家には叱られるかもしれないが、まさにこれなのだ。特に歴史家の文体を論じて、石田幹之助の『長安の春』の絢爛たる美文を引用し、ギボン『ローマ帝国史』の巧みなレトリックを論じて「論法が悪質だよ。法廷におけるペリー・メイスンみたい」と評するところを、わくわくしながら読んだ。

 「批評」について、川村二郎の「学問という円とエッセイという円、二つの円の重なった部分が批評である」という定義を紹介しつつ、小林秀雄という人はエッセイという円は大きかったけど、学問という円は小さかったんじゃないか、と評しているのも面白かった。これを敷衍して、小林秀雄だけでなく、近代日本文学の根底には「学問への軽蔑」があったのではないか、という大問題に持っていくところが、丸谷さんらしい。さらに、視野の広い文明論的批評がないとか、論争を批評だと思っているとか、耳の痛い言葉が続く。このへんは、日本の批評メディアが、活字からネット主体に移って、さらにひどい状況に陥っているような気がする。

 「芝居」の章で、阿国歌舞伎で、観客の中から山三の亡霊が出てくるのは、イエズス会演劇の影響ではないか、という下りは、以前、エッセイにも書かれていて、読んだときに、すごく興奮したことを思い出した。丸谷さんの発想には、何か知性と直観の両方を、深く揺り動かすものがあると思う。ジョージ・スタイナーの『悲劇の死』という本を引いて、悲劇においては、苦悩と歓喜が合体して見るものを高揚させる、これは他のどんな形式(小説とか詩)にはない効果である、と説明しているのも、とても納得がいった。

 最後に、聞き手の湯川豊さんと丸谷さんが、それぞれ短いあとがきを書いており、湯川さんは、丸谷さんとの対談を「奔放自在に文学の大山脈を案内してくださるのに、ぜいぜい息を切らしながらついていくばかり」と、ユーモアあふれる比喩で語っている。いや、湯川さんは、黒子(本文中には名前なし)の聞き役に徹しつつも、丸谷さんの該博な知識に、おっと目を見張るような的確な感想や質問を返していて、このひと何者?(知らなかったので)と思わせる箇所がしばしばあったことは記しておく。

 しかし、文学の大山脈の道なき道を平気で進んでいき、私たちにあっと驚く景観を何度も見せてくれた丸谷さん、読者を楽しませることを、心から楽しんでいらしたであろう著者が、もういらっしゃらない、と考えることは悲しい。インタビューアーや編集者をねぎらい、「そして最後に、いつもと同じやうに(装丁の)和田誠さん、有難う」という著者のことばを読み終えて、涙があふれてくるのを止められなかった。丸谷さん、本当にありがとう。
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武家の時代を偲ぶ/古都鎌倉と武家文化(鎌倉国宝館)

2012-12-09 09:32:58 | 行ったもの(美術館・見仏)
○世界遺産登録推進 3館連携特別展『武家の古都・鎌倉』

鎌倉国宝館 特別展『古都鎌倉と武家文化』(2012年10月20日~12月2日)

 この秋、神奈川県立歴史博物館、神奈川県立金沢文庫、鎌倉国宝館で開催されていた三館連携特別展。最後に残った鎌倉国宝館に、先週、駆け込みで行ってきた。鎌倉以外からも武家文化にかかわる文化財を将来し、国宝7件、重要文化財43件を含む計79件の名宝を展示する、いつもよりちょっとゴージャスな特別展。

 第1章「武家の信仰と造像」では、まず鎌倉武士の発願像を紹介。見たことのない仏像が目立つ。慶派らしい力強い地蔵菩薩坐像(康慶作)は、静岡・瑞林寺から。六波羅蜜寺の地蔵菩薩坐像(運慶作)に似ているように思う。藤沢・養命寺の薬師如来坐像は、豊かな肉付き、頸の短い、丸顔。私は好きな仏像だが、あまり慶派らしくない。宗慶という、慶派の中でも古参の仏師の作だという。静岡・北條寺の阿弥陀如来坐像は、上品上生(?)の来迎印を結ぶ。肉体も衣文の表現も、生々しいほどリアル。

 次に宋風彫刻の諸相は、鎌倉市内の寺院からお出ましの像が多かったが、お堂では、あまり近づいて拝観できないところもあるので、こういう機会は嬉しい。浄光明寺の勢至菩薩像の指先のエレガントさに見とれる。また、高僧の肖像彫刻として、栄西(寿福寺)・夢窓礎石(瑞泉寺)・忍性(極楽寺)か出ていたが、忍性像ってあったっけなー? あまり記憶にない。

 第2章「鎌倉文化の展開」から、後半の展示ケースに移る。鶴岡八幡宮の古神宝『籬菊螺鈿蒔絵硯箱』は、これまで何度も見てきたもので、北条政子が愛用したという所伝のみ記憶に残っていたが、頼朝が後白河法皇から下賜されたものと再認識して、興味が増した。

 書画は展示替で見逃してしまったものが多かったが、唐招提寺から来てくれた『東征伝絵巻』を見ることができて、うれしい。展示の巻四見返しの施入銘によれば、極楽寺の忍性によって制作され、唐招提寺に施入されたものと分かるのだそうだ。へえ~。それから、京都・大徳寺の五百羅漢図(南宋)、円覚寺の五百羅漢図(元、伝・張思恭筆)、建長寺の十六羅漢図(室町)は、いずれも指先からビームを放って、雲中の龍を驚かせるという、同一主題の画幅を並べ、比較鑑賞できるようにしてあるのが面白かった。大徳寺の五百羅漢図(奈良博の『聖地寧波』展で全部見た)は、はじめ鎌倉の寿福寺(一説に建長寺)に伝来し、早雲寺(箱根?)、方広寺(京都?)を経て、大徳寺の什宝になったという。これにも、へえ~。

 第3章「頼朝と鎌倉武士」で楽しみにしていたのは『男衾三郎絵詞』。東博所蔵だが、あまり見たことのない絵巻だと思う。いま自分のブログ内検索をかけても出てこないし。にぎやかな色彩、生き生きした描写、とりわけ頻出する大きな弓の弧が、画面にリズム感を与えている。跳ね踊るような馬の姿もいい。でも、よく見ると血の流れる生首とか、凄惨な描写が、絵本のような無邪気な画面に同居している。

 それから、板橋区立美術館から出品の『源平合戦図屏風』は狩野一信(増上寺の五百羅漢図の)筆。おお~ここでこの作品が見られるとは。東博の伝頼朝坐像(彫刻)は、目に入った瞬間、あ、北条氏の…と思った。建長寺の北条時頼坐像に似すぎている。山梨・善光寺の大きな頼朝坐像は、どこかで見たと思ったが、たぶん奈良博の『頼朝と重源』だな。称名寺光明院の大威徳明王坐像(運慶作)は、金沢文庫で何度か見ているが、背面を見ることができたのは初めてではないかと思う。ちょっとドキドキした。

※3館連携特別展『武家の古都・鎌倉』:金沢文庫と神奈川県立歴史博物館の記事
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大河ドラマ異聞/鎌倉期の宸筆と名筆(三の丸尚蔵館)

2012-12-08 22:48:01 | 行ったもの(美術館・見仏)
三の丸尚蔵館 第60回展覧会『鎌倉期の宸筆と名筆-皇室の文庫(ふみくら)から』(2012年11月23日~12月22日) 

 繰り返しになるが、大河ドラマ『平清盛』も大詰め。ということで、この展覧会である。いや、企画者(宮内庁書陵部?)が、今年の大河ドラマを意識したかどうかは分からないが、結果としては、かなり関連の深い資料が展示されている。

 なんといっても、14世紀に制作された似絵(肖像画)集『天子摂関御影』の天皇巻・摂関巻・大臣巻をまとめて見られる機会は、そう滅多にあるものではない。天皇巻は冒頭の鳥羽院から後醍醐院まで全公開(近年の修理で別巻とした後光厳院は写真パネルのみ)。摂関巻は冒頭の忠通から師家までの五人。全図像を収録した展示図録を参照したら、師家の次が九条兼実だったのね。残念。でも松殿関白(基房)の、ちょっと底意地の悪そうな顔を見ていると、どうしてもドラマの細川茂樹さんが浮かんで、可笑しい。

 ちなみに、隣りの展示ケースには『玉葉』(九条家旧蔵本)あり。兼実の自筆本は失われており、本写本が最古最善本とされる。ふーん、冊子本なんだ。開いている箇所は、治承4年11月5日条で、同年10月の富士川の戦いの様子を伝え聞いたところ。なんか、ドラマと同期している…。なかなか原文は読みにくいが、会場に「主要作品釈文」のプリントが用意してあるので、それと対照させつつ「忠清見之大怒、使者二人切頸了」云々という箇所を解読する。平家の家人である伊藤忠清の存在も、ちゃんと把握していたんだな。同日条の冒頭には「伝聞、前将軍宗盛可有還都之由示禅門(清盛)、禅門不承引之間及口論、人以驚耳云々」とある。これもまもなく映像化が楽しみな場面だ。

 『天子摂関御影』大臣巻は、平清盛から藤原実定までの七人を公開。重盛、宗盛も混じっている。重盛がキリッとした眉なのに、宗盛が人の好さそうな下がり眉で笑ってしまった。どうせなら、清盛の直前の藤原経宗(有薗芳記さん)も見たかったなー。頼長も大臣巻に描かれているが、かなり早い登場順なので、展示では見られず。でも『台記』の鎌倉時代の写本(こちらは巻子本)が出ていた。解説に、能筆の貴族が手分けして筆写したものとあるとおり、流麗な筆跡で、頼長本人の筆跡(少なくとも能筆だとは思わない)を思い出すと、なんとなく可笑しい。ちょうど大饗の指図(絵図面)のある箇所が開いていたが、自筆原本にも絵図があったのかな(絵は上手かったのかなあ)などと想像を誘われた。

 嬉しかったのは、藤原忠通さまの書状。このひとも、私は今年の大河ドラマで印象の輪郭が固まった人物なので、堀部圭亮さんの姿が浮かんでしまう。堂々とした書は「法性寺流」として、鎌倉時代半ば以降に高く評価されたという。この1点に限ってだが、あまり和様の書ではなくて、鎌倉時代の禅僧の墨蹟みたいな新しさが感じられる。

 この展示会の図録は、資料の歴史的価値だけでなく、書風の解説にも意を砕いているのがありがたい。『中右記』の鎌倉写本には「縦長の整った字体は、鎌倉時代に流行した後京極流に通じるものがある」とか、『水左記』自筆本には「三跡の一人である藤原行成の書風に通じるものがある」など。よく分からない点も多いのだが、分かるようになりたいと思って読んでいる。

 私の好みは、九条道家のおおらかな仮名交じり消息。それから、藤原師長(頼長男)の漢文消息も好きだ。平重盛書状の筆跡は、滑らかだが、どこか謹直で神経質な感じがする(先入観かな)。「重盛」の署名が少し切れているのが惜しいが、彼の自筆文書は数点しか残っていないそうだ。

 宸筆といえばおなじみ、伏見院、花園院の書も出ている。めずらしいのは、後伏見院の宸筆で、一時期中国に渡っていたらしく、清末の外交官の黎庶昌らの跋文が書き入れられていて、びっくりした。

 さらに珍品として、法住寺の後白河天皇の御木像の頸部内に納められていた御画像を発見したときの報告書(公文書)というのがあった。御画像(白描画、裏書に応長元年/1311年)は模写を作成した後、再び御木像内に納められたという。像主はもちろん後白河院だが、両手で経巻(?)を持つ姿であるのが興味深い。『天子摂関御影』を見直すと、ポーズに多少のバリエーションはあるのだが、絶対、手を袖の外に出していない。この時代、貴人は人前で手先を見せるものではなく、それを描いてもいけなかったのだろうか。
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物語精神の誕生/平家物語(石母田正)

2012-12-06 23:50:57 | 読んだもの(書籍)
○石母田正『平家物語』(岩波新書) 岩波書店 1957.11

 大河ドラマ『平清盛』も大詰め。ということで、何かと気になる「平家物語」についての古典的名著。あまりにも名著すぎて、読んだことがあったかどうかを忘れてしまった。実は、今回が初読かもしれない。

 というのは、目次をパラパラと見て、あれっ?と思ったことがある。歴史家の石母田さんの本だから、なんとなく歴史としての平家一門についての著書だと思っていた。ところが、そうではなくて、文学作品としての「平家物語」が主題であると知って驚き、歴史家に文学が論じられるのか?という、やや下司な構えで本書を読み始めた。

 そして、結論から言えば、非常に読み応えがあった。歴史家が書いたとか、文学者が書いたとかいうより、「平家物語」が好きで好きでたまらない、愛読者目線で描かれた評論という気がする。

 平家物語といえば、必ず言及されるのが、冒頭の「祇園精舎の鐘の声」に表された無常観。しかし、無常観や宿命観は、この時代のもっともありふれた思想であった。平家の作者の特異な点、すぐれた点は、もっと別のところにある。著者は、同時代の二人の文学者、西行と長明と対照させつつ、平家の作者は、人間が面白くて面白くてたまらない性質であったと考える。彼は「現世の人間が汚濁と醜悪にみちておれば、なおさらそれを面白いと思う人間である」。彼は「人間の営みを無意味なものとかんがえる思想とたたかっているといってもよい」。それは、ひとことで表すなら、物語精神と呼ぶべきものである。著者は「平家の作者が名文でもって書きたてている厭世思想などにだまされてはならない」と痛烈に言い切って、いかにも教科書的な、皮相な読み方を葬り去る。

 この箇所(第一章 運命について)に繰り返される「面白い」という表現を見ていると、今年の大河ドラマで主人公・清盛に「面白う生きたい」と言わせ続けた脚本の淵源は、もしかしてこれか?と疑いたくなってしまった。

 「平家物語」の第一部は清盛、第二部は義仲、第三部は義経が物語の中心に据えられているが、作中における最も重要な人物は清盛である。ここで歴史家である著者は、「史実」の清盛がどうであったかというような議論は一切せず、平家の作者が創造した清盛像の新しさに、真正面から取り組んでいる。文学評論として、すがすがしいほど王道である。

 著者は決して「平家物語」を賛嘆するばかりではない。その限界や弱点も冷静に認めている。たとえば、物語における清盛の行動の必然性が十分でないのは、「敵対者たる後白河法皇を物語として描くことができなかった」ことによるという。これについて、天皇以上に権威のある院を物語上の人物とすることを憚ったのかもしれない、という指摘は興味深かった。やっぱり近代以前にも、そういう政治的制約ってあったのかな。

 ただ、より根本的な理由として著者が挙げているのは、義仲・義経のように直接戦場で行動する人物は描けても、後白河や頼朝のように、背後にあって政治をあやつるような人間は、当時の物語文学では描くことができなかった、という点である。それを描き得るのは近代の散文文学だけであろう、と言われると、ごもっとも、と言うしかない。

 しかし、行動する人間のありさまが活写されていることは「平家物語」の大きな魅力である。著者は、さまざまな人物、さまざまな表現の具体例を、鋭い観察眼でいくつも拾い出し(義経の「すすどき」、多田行綱の「目うちしばたたいて」等)語っている。ここで取り上げられている「昔は昔、今は今」という表現が、先週のドラマで、全く別の場面に換骨奪胎して使われていたのも印象深かった。

 後半は、文学作品としての形式や誕生と伝承の問題を論ずる。もとは三巻本であったとか、年代記風の語り物『治承物語』であったとか、文学史に興味のない読者には、やや退屈な章段になるかもしれない。しかし、源平の内乱という未曾有の体験が、さまざまな階層から、新しい物語を増補したいという強い要求を呼び起こし、ついには従来の窮屈な形式を壊し、その質を変えてしまったというのは、それ自体、ロマンチックな物語であると思う。

 「からと」「ちやうと」「さらさらと」のような擬音の多用、過剰な色彩(武者の背丈も顔かたちも筋肉もなく色彩だけがある!)、王朝的なもののリバイバル、なども重要な指摘である。語り物として、耳に心地よい声調が重視されたことが、近代に至るまで、知的な散文の未発達という、日本の深刻な問題を招いたというのは、ちょっと自虐的文学史観ではないかと思ったが…。

 重盛、西光など、ドラマではすでに退場してしまった人物の描かれ方について、あらためて考えさせられる点も多く、これから映像化される清盛の最期、壇ノ浦の知盛には、ひときわ期待が高まった。
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自己肯定から始める/社会人の生き方(暉峻淑子)

2012-12-04 22:11:36 | 読んだもの(書籍)
○暉峻淑子『社会人の生き方』(岩波新書) 岩波書店 2012.10

 思い返せば「社会人」になるのは気が重かった。大学院(修士)まで行ったのも、学び続けたい気持ちと同時に、社会人デビューを先送りしたい気持ちがあったからだ。それから、結局、就職したが、また学生に戻りたいと思ったり、それも面倒くさいかな、と思っているうち、ずるずると「社会人」に落ち着いてしまった。1980~90年代はじめの話である。

 いまの若者を見ていると、社会人になる第一歩「就職」が、私の時代とは比較にならないほど難しくなっている、と強く感じる。「ずるずる社会人になる」なんて考えられない、と彼らなら言うに違いない。ものすごい努力、気合、投資、執念、それでも安定した職を得ることは難しいらしい。

 ところで、「就職して自立した人」というのは、社会人の定型的なイメージである。しかし、就職できなかった人は社会人ではないのか。失業者や定年退職した人や、主婦や高齢者、障害を持った人は社会人ではないのか。そんなことはない。まず著者は、「就職(就労)」の意味を重視しすぎる日本社会の風潮を批判し、「この社会に生きている人は、ともに社会をつくっていく仲間として、社会の構成員の一人として、みな社会人なのである」と強く断言する。

 その上で、社会人にとっての「労働」の意味を考え、現在の労働環境の抜本にある「格差社会」について考える。就職できないことを「自分が悪い」に帰結させてしまう自己責任論。生きがいや喜びからは程遠い長時間労働。反目や無関心から分裂する社会。

 なぜこうなってしまったか、その原因を求めて、著者は教育の問題に行き着き、日本は「社会人になりにくい教育をしているのではないか」と指摘する。欧米では学校教育の中に、良き社会人になるための教育=シティズンシップ教育が取り入れられているという。杉本厚夫氏によれば、イギリスのシティズンシップ教育とは、まず個人の自尊意識と教養をしっかり高めることであり、そのことによって社会に出ても社会状況を的確に判断し、良き社会人としての人間関係を築き、生涯を通して、社会参加を有意義に送ることができるようにすることだという。

 昨今、日本のいくつかの大学は「リベラル・アーツ(教養)教育」の復権をうたっているが、何のための教養か?という点に、明確に踏み込んでいる大学は少ないように思う。本当は「シティズンシップのための教養」という目的意識が必要であり、より正しくは「グローバル社会におけるシティズンシップのための教養」であるべきだろう。

 著者が指摘する日本の学校教育の弱点(問題点)には、同意するところが多い。日本の教師の多くが学校という閉鎖社会に閉じ込められ、会議や書類書きに忙殺されていること。教師も生徒も学校に留め置かれる時間が長すぎること。外の社会と交流し、新鮮な刺激を受け、豊かな経験を広げる機会を奪われていること、など。

 国連子どもの権利委員会は、競争的・管理的社会のストレスに曝されている日本の子どもの現況を案じて「繰り返し日本の子どもの人権について警告している」という。本当ならとてもショックなことだ。PISA(学習到達度調査)の点数や順位が上がったとか下がったとかに一喜一憂するより、こっちのほうが、ずっと重要なのではないか。

 本書には、著者自身が、地域のため、高齢者のため、あるいは紛争地域の難民のためにかかわってきたNPOやNGOの実践や、著者のまわりで、社会人として歩み始めてのち、働き方や生き方を変えた人たちの実例がいくつも語られている。絵に描いたような成功例ばかりなので、現実はそんなにうまくいくことばかりじゃないだろ~と鼻白む一面があったことは、記しておきたい。しかし、全体としては、難しい理屈や専門用語を用いず、平明に、当たり前の主張を当たり前に語っている良書であると思う。

 結びの一節をそのまま引いておこう。「社会人であることは難しいことでも特別の努力を要することでもない。それは人間の本性に従って生きる、生き心地のよい生き方なのだ」。社会人になる手前で怖じ気づき勝ちな若者に、ぜひともこの言葉を送りたい。
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ソーシャルメディアはソサエティを作れるか/デジタルネイティブの時代(木村忠正)

2012-12-02 22:42:49 | 読んだもの(書籍)
○木村忠正『デジタルネイティブの時代:なぜメールをせずに「つぶやく」のか』(平凡社新書) 平凡社 2012.11

 私はブログを7年くらい続けていて、これは自分の性格によく合致した情報発信(というほどでもないけど…)スタイルだと思っている。一方、世間では、ソーシャルメディアと呼ばれる新しい情報サービスの隆盛がすさまじい。実は私もFacebook、Twitterのアカウントは取ってみたのだが、どう使えばいいのか、なかなか方針が定まらない。そこで、ソーシャルメディアについて、何か読んでみたいと思っていた。

 ただし、ソーシャルメディアが使えない(使わない)人間は要らないとか、ソーシャルメディアが万事を解決するみたいな、安っぽい煽り本は読みたくなかったので、慎重を期していた。なぜ本書を選んだのかは自分でも分からない。本選びのカンとしか言いようがないが、結果は「当たり」だったと思う。

 本書には「アラブの春はソーシャルメディア革命だったのか」という短い序章が設けられている。2011年1~2月、チュニジア、エジプトで起きた独裁政権の崩壊に際しては、Facebook、Twitter、YouTubeなどのメディアが大きな力を発揮したと言われている。しかし、メディア研究者の調査によれば、実際に人々を抗議デモに動員した最大要因は、毎週金曜にモスクで行われる集団礼拝であり、クチコミ、携帯電話、衛星テレビ、ショートメールなど多様なコミュニケーションメディアが使われていたことが分かっている。にもかかわらずFacebookやTwitterが注目されたのは、新規性と、研究者が量的データを捕らえやすかったことによる。ここに情報ネットワーク論の陥穽がある、という指摘を読んで、あ、この著者は信頼できる、と私は安堵した。

 一般に、情報ネットワークに関する議論は、新規性が高い事象に関心が向けられがちで、メディアを複合的・多元的に見る観点、あるいは新しいサービスが人々の日常生活に根づき、社会文化の一部に組み込まれていくまでの中長期的観点が弱い。そのことを自覚したうえで、いよいよ日本のデジタルネイティブへのアプローチに移る。

 デジタルネイティブとは、デジタルメディアに青少年期から本格的に接した世代のことで、およそ1980年前後生まれ以降を指す。著者と「ヴァーチャル人類学プロジェクト(VAP:Virtual Anthropology Project)」の分析によれば、第1世代(~1982年生まれ)、第2世代(1983~1987年生まれ)、第3世代(1988~90年生まれ)、第4世代(1991年生まれ~)に細分化でき、第2世代と第3世代の間に大きな変化があるという。第2世代までは、オフライン(リアル)がコミュニケーションの基盤・規範として機能しているが、それ以降は、オンラインの人間関係が、それ自体の自律性を獲得している。

 また、オンラインコミュニケーションが日本のデジタルネイティブに受容されていく過程において、強い方向づけを与えた要因として、著者は4つの特性を指摘する(それぞれ相互に深く関係している)。

(1)空気を読む圧力
(2)「親密さ」と「テンションの共有」の乖離独立→「親密さ」を持たない「テンションの共有」への志向
(3)「コミュニティ」でも「ソーシャル」でもない「コネクション」志向
(4)サイバースペースへの強い不信感、低い社会的信頼感と強い「不確実性回避」傾向

 詳しくは本書に譲るが、私は苦笑してしまった。デジタルネイティブといえども、日本社会の子なんだなあ、という当たり前のことに気づいて。著者は2004年に日本・韓国・フィンランドの大学生を対象とした比較調査を行っているが、日本では、音声通話を代表とする同期的コミュニケーションの発展は限定的で、テキストメッセージの利用頻度が高い。それは同期的メッセージの「空気の読みにくさ」が嫌われたためであろう。

 一方で、日本社会でウェブ日記が好まれるのは、それが「非侵襲的で迂遠的なコミュニケーション」であり、「空気を読めない」と思われるリスクが少ないためだという。はい、全くその通りです、と肯くしかない。

 しかし、面白いことに(困ったことに?)「空気を読む圧力」は、新しいコミュニケーションメディアを、どんどん不自由な方向に押しやっていく。音声通話に比べて非侵襲的だった筈のケータイメールも、5分以内に返信しなければならない義務感とか、テンションの共有を強いられることの困惑が肥大化していく。そこで若者世代は、「空気を読む圧力」を回避しながら、テンションを共有し、「絡む」ことのできるツイッターに利点を見出している。

 日本は、世界平均と比べて、フェイスブックの利用率が低く、ツイッターの利用率が高い。このことも、ソサエティ(主体を確立した個のつながり)よりもコネクション(多元的/流動的な個のつながり)志向が強い日本社会を照らし出しているようだ。著者はこのように現状を分析しつつ、「ソサエティ原理」の強化を、日本社会の重要な課題として提言している。メディア論のように見えて、現代社会論、日本文化論であるところが興味深かった。
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2012秋@関西見仏の旅:阿弥陀さま(大津市歴史博物館)

2012-12-02 12:58:19 | 行ったもの(美術館・見仏)
大津市歴史博物館 第59回企画展 法然上人没後800年記念・親鸞聖人没後750年記念『阿弥陀さま-極楽浄土への誓い-』(2012年10月13日~11月25日)

 最終日に駆け込み参観。大津における浄土信仰の流れ、様々な阿弥陀如来像の姿、さらには大津市内に所在する浄土宗寺院の寺宝の数々を紹介する企画展。正直にいうと、今回は見逃してもいいかなーと思っていた。理由のひとつは、担当者が率直に語っているとおり、「重要文化財や県・市指定といった指定文化財はあまり展示せず、ほとんど未指定作品」だったこと。指定のランクにこだわるわけではないが、絶対見逃せない!と駆けつけたくなるような目玉が見当たらなかった。

 それと、より大きな理由は、密教仏とか変化観音の分かりやすい面白さに比べると、阿弥陀さまって、だいたい似たり寄ったりの姿で、どこに注目したらいいのか分からない…と思っていたのだ。まあでも、せっかく関西に来たので寄っていくことにした。

 入口で「展示一覧」をもらってびっくりした。100件を超す(展示替あり)出品の所蔵寺院の所在地は、大津市、大津市…のオンパレード。すごいんだな、大津って。ただし、あとでパネルの地図を見て、関東人がイメージする大津(大津駅周辺)より、実際の大津市は、ずいぶん広域であることを確認した。

 導入部では、阿弥陀信仰(浄土教)の日本伝来、その根拠地となった比叡山、大津と浄土真宗の密接なかかわりを概観する。法然・親鸞の写実的な木像は、それぞれ小さな姿に気迫がこもっていて、魅力的だった。

 金色に輝く浄土を描いた観経変相図(当麻曼荼羅)の優品。季節がら、ちょっとクリスマスっぽいな、などと思う。そして、いよいよ大津市内の阿弥陀さまがズラリとお出まし。全て、螺髪、簡素な衣、右手を胸の前に上げ、左手を垂らした直立像、大きさも同じくらいなので、いつもなら飽きてげんなりするところだ。しかし、解説を読みながら、1体1体見比べていくと、きちんと個性を備えていることが分かってきた。ほかの作品との対照によって、仏師○○系統の作、というような推測が、それぞれに下されている。

 個人的には、行快の作風を受け継いでいるという西福寺の阿弥陀さまが好きだ。アクの強さがいいんだよなーと思ったのだが、あとで図録を読んだら「行快の持つ独特のあくの強さは感じさせません」とあった。でも他の阿弥陀さまに比べると、個性は強いと思う。上品寺の阿弥陀さまも好き。張りのある丸顔、ぽってりした唇が特徴的。「仏師善円の作風に近い」のだそうだ。しかし、仏師(工房)によって、これだけ個性があると、施主の側も、どの仏師に造仏を依頼するかは大問題だったろうな、と思った。

 別のコーナーに移動して、あれ?と思う。さきほどの一連の像とは逆に、左手を上げ(曲げ)、右手を垂らした、いわゆる「逆手の来迎印」の阿弥陀さまが特集されていた。解説に、この姿は小野市(兵庫県)・浄土寺の阿弥陀如来が著名で、入宋僧・重源のアイディアと考えられている、とあった。おお~、前々日に小野の浄土寺を初拝観したばかりの私は、この会場で、浄土寺の阿弥陀如来に対する言及にふれようとは思ってもいなかったので、奇縁を感じた。「逆手の来迎印」とは、正確には、左手を曲げて仰掌し、第一指・三指を捻じるもの。浄土寺の本尊の手のかたちを思い出そうとするが、記憶がはっきりしない…。中国・宋、朝鮮・高麗の阿弥陀図には多いというから、今度から気をつけてみよう。

 鎌倉・南北朝・室町時代の仏画もたくさん出ており、「初公開」が多いことに驚かされた。山越阿弥陀の巨大な頭部だけを描いた図(横川伝来)には笑ってしまった。こんな山越阿弥陀図もあるんだな。

 第1室で見落としそうになったのは、西教寺の阿弥陀如来に関するパネル展示。丈六(約2.5メートル)の本尊は、平安時代の飛天光背を備えている。この本尊と飛天および化仏(作風が少しずつ異なる)を臨場感豊かに、パーツごとの拡大写真を配置して見せてくれたもので、とっても面白かった。

 第2室は、大津市内の浄土宗寺院が所蔵するさまざまな宝物を紹介。ここも「初公開」多し。乗念寺の古様の聖観音立像、いいなあ。めずらしい木造達磨大師像(南北朝時代。目が大きく、肉付きがよくて若々しい。無髯)もあったが、寺院名非公開とのこと。六道絵や十六羅漢図(どちらも新知恩院)も素晴らしかった。

 最後に、ものすごいキラキラの阿弥陀三尊像があって、なんだろう、新造の仏像かしら、と思って近づいたら「浄国寺・鎌倉時代」とあって、びっくりした。つるつるの金箔を施し、頭髪も青く塗られているが、像そのものは鎌倉後期の院派の可能性があり、さらに繊細な金銅光背(金のレースみたい!)も当時のものだそうだ。

 やっぱり大津はすごい地域である。貴重な文化財をまとめて拝見することができて、大満足だが、次は、自分の足で大津市内の各寺院を、実際に訪ね歩いてみたいと思った。
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