○三の丸尚蔵館 第60回展覧会『鎌倉期の宸筆と名筆-皇室の文庫(ふみくら)から』(2012年11月23日~12月22日)
繰り返しになるが、大河ドラマ『平清盛』も大詰め。ということで、この展覧会である。いや、企画者(宮内庁書陵部?)が、今年の大河ドラマを意識したかどうかは分からないが、結果としては、かなり関連の深い資料が展示されている。
なんといっても、14世紀に制作された似絵(肖像画)集『天子摂関御影』の天皇巻・摂関巻・大臣巻をまとめて見られる機会は、そう滅多にあるものではない。天皇巻は冒頭の鳥羽院から後醍醐院まで全公開(近年の修理で別巻とした後光厳院は写真パネルのみ)。摂関巻は冒頭の忠通から師家までの五人。全図像を収録した展示図録を参照したら、師家の次が九条兼実だったのね。残念。でも松殿関白(基房)の、ちょっと底意地の悪そうな顔を見ていると、どうしてもドラマの細川茂樹さんが浮かんで、可笑しい。
ちなみに、隣りの展示ケースには『玉葉』(九条家旧蔵本)あり。兼実の自筆本は失われており、本写本が最古最善本とされる。ふーん、冊子本なんだ。開いている箇所は、治承4年11月5日条で、同年10月の富士川の戦いの様子を伝え聞いたところ。なんか、ドラマと同期している…。なかなか原文は読みにくいが、会場に「主要作品釈文」のプリントが用意してあるので、それと対照させつつ「忠清見之大怒、使者二人切頸了」云々という箇所を解読する。平家の家人である伊藤忠清の存在も、ちゃんと把握していたんだな。同日条の冒頭には「伝聞、前将軍宗盛可有還都之由示禅門(清盛)、禅門不承引之間及口論、人以驚耳云々」とある。これもまもなく映像化が楽しみな場面だ。
『天子摂関御影』大臣巻は、平清盛から藤原実定までの七人を公開。重盛、宗盛も混じっている。重盛がキリッとした眉なのに、宗盛が人の好さそうな下がり眉で笑ってしまった。どうせなら、清盛の直前の藤原経宗(有薗芳記さん)も見たかったなー。頼長も大臣巻に描かれているが、かなり早い登場順なので、展示では見られず。でも『台記』の鎌倉時代の写本(こちらは巻子本)が出ていた。解説に、能筆の貴族が手分けして筆写したものとあるとおり、流麗な筆跡で、頼長本人の筆跡(少なくとも能筆だとは思わない)を思い出すと、なんとなく可笑しい。ちょうど大饗の指図(絵図面)のある箇所が開いていたが、自筆原本にも絵図があったのかな(絵は上手かったのかなあ)などと想像を誘われた。
嬉しかったのは、藤原忠通さまの書状。このひとも、私は今年の大河ドラマで印象の輪郭が固まった人物なので、堀部圭亮さんの姿が浮かんでしまう。堂々とした書は「法性寺流」として、鎌倉時代半ば以降に高く評価されたという。この1点に限ってだが、あまり和様の書ではなくて、鎌倉時代の禅僧の墨蹟みたいな新しさが感じられる。
この展示会の図録は、資料の歴史的価値だけでなく、書風の解説にも意を砕いているのがありがたい。『中右記』の鎌倉写本には「縦長の整った字体は、鎌倉時代に流行した後京極流に通じるものがある」とか、『水左記』自筆本には「三跡の一人である藤原行成の書風に通じるものがある」など。よく分からない点も多いのだが、分かるようになりたいと思って読んでいる。
私の好みは、九条道家のおおらかな仮名交じり消息。それから、藤原師長(頼長男)の漢文消息も好きだ。平重盛書状の筆跡は、滑らかだが、どこか謹直で神経質な感じがする(先入観かな)。「重盛」の署名が少し切れているのが惜しいが、彼の自筆文書は数点しか残っていないそうだ。
宸筆といえばおなじみ、伏見院、花園院の書も出ている。めずらしいのは、後伏見院の宸筆で、一時期中国に渡っていたらしく、清末の外交官の黎庶昌らの跋文が書き入れられていて、びっくりした。
さらに珍品として、法住寺の後白河天皇の御木像の頸部内に納められていた御画像を発見したときの報告書(公文書)というのがあった。御画像(白描画、裏書に応長元年/1311年)は模写を作成した後、再び御木像内に納められたという。像主はもちろん後白河院だが、両手で経巻(?)を持つ姿であるのが興味深い。『天子摂関御影』を見直すと、ポーズに多少のバリエーションはあるのだが、絶対、手を袖の外に出していない。この時代、貴人は人前で手先を見せるものではなく、それを描いてもいけなかったのだろうか。
繰り返しになるが、大河ドラマ『平清盛』も大詰め。ということで、この展覧会である。いや、企画者(宮内庁書陵部?)が、今年の大河ドラマを意識したかどうかは分からないが、結果としては、かなり関連の深い資料が展示されている。
なんといっても、14世紀に制作された似絵(肖像画)集『天子摂関御影』の天皇巻・摂関巻・大臣巻をまとめて見られる機会は、そう滅多にあるものではない。天皇巻は冒頭の鳥羽院から後醍醐院まで全公開(近年の修理で別巻とした後光厳院は写真パネルのみ)。摂関巻は冒頭の忠通から師家までの五人。全図像を収録した展示図録を参照したら、師家の次が九条兼実だったのね。残念。でも松殿関白(基房)の、ちょっと底意地の悪そうな顔を見ていると、どうしてもドラマの細川茂樹さんが浮かんで、可笑しい。
ちなみに、隣りの展示ケースには『玉葉』(九条家旧蔵本)あり。兼実の自筆本は失われており、本写本が最古最善本とされる。ふーん、冊子本なんだ。開いている箇所は、治承4年11月5日条で、同年10月の富士川の戦いの様子を伝え聞いたところ。なんか、ドラマと同期している…。なかなか原文は読みにくいが、会場に「主要作品釈文」のプリントが用意してあるので、それと対照させつつ「忠清見之大怒、使者二人切頸了」云々という箇所を解読する。平家の家人である伊藤忠清の存在も、ちゃんと把握していたんだな。同日条の冒頭には「伝聞、前将軍宗盛可有還都之由示禅門(清盛)、禅門不承引之間及口論、人以驚耳云々」とある。これもまもなく映像化が楽しみな場面だ。
『天子摂関御影』大臣巻は、平清盛から藤原実定までの七人を公開。重盛、宗盛も混じっている。重盛がキリッとした眉なのに、宗盛が人の好さそうな下がり眉で笑ってしまった。どうせなら、清盛の直前の藤原経宗(有薗芳記さん)も見たかったなー。頼長も大臣巻に描かれているが、かなり早い登場順なので、展示では見られず。でも『台記』の鎌倉時代の写本(こちらは巻子本)が出ていた。解説に、能筆の貴族が手分けして筆写したものとあるとおり、流麗な筆跡で、頼長本人の筆跡(少なくとも能筆だとは思わない)を思い出すと、なんとなく可笑しい。ちょうど大饗の指図(絵図面)のある箇所が開いていたが、自筆原本にも絵図があったのかな(絵は上手かったのかなあ)などと想像を誘われた。
嬉しかったのは、藤原忠通さまの書状。このひとも、私は今年の大河ドラマで印象の輪郭が固まった人物なので、堀部圭亮さんの姿が浮かんでしまう。堂々とした書は「法性寺流」として、鎌倉時代半ば以降に高く評価されたという。この1点に限ってだが、あまり和様の書ではなくて、鎌倉時代の禅僧の墨蹟みたいな新しさが感じられる。
この展示会の図録は、資料の歴史的価値だけでなく、書風の解説にも意を砕いているのがありがたい。『中右記』の鎌倉写本には「縦長の整った字体は、鎌倉時代に流行した後京極流に通じるものがある」とか、『水左記』自筆本には「三跡の一人である藤原行成の書風に通じるものがある」など。よく分からない点も多いのだが、分かるようになりたいと思って読んでいる。
私の好みは、九条道家のおおらかな仮名交じり消息。それから、藤原師長(頼長男)の漢文消息も好きだ。平重盛書状の筆跡は、滑らかだが、どこか謹直で神経質な感じがする(先入観かな)。「重盛」の署名が少し切れているのが惜しいが、彼の自筆文書は数点しか残っていないそうだ。
宸筆といえばおなじみ、伏見院、花園院の書も出ている。めずらしいのは、後伏見院の宸筆で、一時期中国に渡っていたらしく、清末の外交官の黎庶昌らの跋文が書き入れられていて、びっくりした。
さらに珍品として、法住寺の後白河天皇の御木像の頸部内に納められていた御画像を発見したときの報告書(公文書)というのがあった。御画像(白描画、裏書に応長元年/1311年)は模写を作成した後、再び御木像内に納められたという。像主はもちろん後白河院だが、両手で経巻(?)を持つ姿であるのが興味深い。『天子摂関御影』を見直すと、ポーズに多少のバリエーションはあるのだが、絶対、手を袖の外に出していない。この時代、貴人は人前で手先を見せるものではなく、それを描いてもいけなかったのだろうか。