○暉峻淑子『社会人の生き方』(岩波新書) 岩波書店 2012.10
思い返せば「社会人」になるのは気が重かった。大学院(修士)まで行ったのも、学び続けたい気持ちと同時に、社会人デビューを先送りしたい気持ちがあったからだ。それから、結局、就職したが、また学生に戻りたいと思ったり、それも面倒くさいかな、と思っているうち、ずるずると「社会人」に落ち着いてしまった。1980~90年代はじめの話である。
いまの若者を見ていると、社会人になる第一歩「就職」が、私の時代とは比較にならないほど難しくなっている、と強く感じる。「ずるずる社会人になる」なんて考えられない、と彼らなら言うに違いない。ものすごい努力、気合、投資、執念、それでも安定した職を得ることは難しいらしい。
ところで、「就職して自立した人」というのは、社会人の定型的なイメージである。しかし、就職できなかった人は社会人ではないのか。失業者や定年退職した人や、主婦や高齢者、障害を持った人は社会人ではないのか。そんなことはない。まず著者は、「就職(就労)」の意味を重視しすぎる日本社会の風潮を批判し、「この社会に生きている人は、ともに社会をつくっていく仲間として、社会の構成員の一人として、みな社会人なのである」と強く断言する。
その上で、社会人にとっての「労働」の意味を考え、現在の労働環境の抜本にある「格差社会」について考える。就職できないことを「自分が悪い」に帰結させてしまう自己責任論。生きがいや喜びからは程遠い長時間労働。反目や無関心から分裂する社会。
なぜこうなってしまったか、その原因を求めて、著者は教育の問題に行き着き、日本は「社会人になりにくい教育をしているのではないか」と指摘する。欧米では学校教育の中に、良き社会人になるための教育=シティズンシップ教育が取り入れられているという。杉本厚夫氏によれば、イギリスのシティズンシップ教育とは、まず個人の自尊意識と教養をしっかり高めることであり、そのことによって社会に出ても社会状況を的確に判断し、良き社会人としての人間関係を築き、生涯を通して、社会参加を有意義に送ることができるようにすることだという。
昨今、日本のいくつかの大学は「リベラル・アーツ(教養)教育」の復権をうたっているが、何のための教養か?という点に、明確に踏み込んでいる大学は少ないように思う。本当は「シティズンシップのための教養」という目的意識が必要であり、より正しくは「グローバル社会におけるシティズンシップのための教養」であるべきだろう。
著者が指摘する日本の学校教育の弱点(問題点)には、同意するところが多い。日本の教師の多くが学校という閉鎖社会に閉じ込められ、会議や書類書きに忙殺されていること。教師も生徒も学校に留め置かれる時間が長すぎること。外の社会と交流し、新鮮な刺激を受け、豊かな経験を広げる機会を奪われていること、など。
国連子どもの権利委員会は、競争的・管理的社会のストレスに曝されている日本の子どもの現況を案じて「繰り返し日本の子どもの人権について警告している」という。本当ならとてもショックなことだ。PISA(学習到達度調査)の点数や順位が上がったとか下がったとかに一喜一憂するより、こっちのほうが、ずっと重要なのではないか。
本書には、著者自身が、地域のため、高齢者のため、あるいは紛争地域の難民のためにかかわってきたNPOやNGOの実践や、著者のまわりで、社会人として歩み始めてのち、働き方や生き方を変えた人たちの実例がいくつも語られている。絵に描いたような成功例ばかりなので、現実はそんなにうまくいくことばかりじゃないだろ~と鼻白む一面があったことは、記しておきたい。しかし、全体としては、難しい理屈や専門用語を用いず、平明に、当たり前の主張を当たり前に語っている良書であると思う。
結びの一節をそのまま引いておこう。「社会人であることは難しいことでも特別の努力を要することでもない。それは人間の本性に従って生きる、生き心地のよい生き方なのだ」。社会人になる手前で怖じ気づき勝ちな若者に、ぜひともこの言葉を送りたい。

いまの若者を見ていると、社会人になる第一歩「就職」が、私の時代とは比較にならないほど難しくなっている、と強く感じる。「ずるずる社会人になる」なんて考えられない、と彼らなら言うに違いない。ものすごい努力、気合、投資、執念、それでも安定した職を得ることは難しいらしい。
ところで、「就職して自立した人」というのは、社会人の定型的なイメージである。しかし、就職できなかった人は社会人ではないのか。失業者や定年退職した人や、主婦や高齢者、障害を持った人は社会人ではないのか。そんなことはない。まず著者は、「就職(就労)」の意味を重視しすぎる日本社会の風潮を批判し、「この社会に生きている人は、ともに社会をつくっていく仲間として、社会の構成員の一人として、みな社会人なのである」と強く断言する。
その上で、社会人にとっての「労働」の意味を考え、現在の労働環境の抜本にある「格差社会」について考える。就職できないことを「自分が悪い」に帰結させてしまう自己責任論。生きがいや喜びからは程遠い長時間労働。反目や無関心から分裂する社会。
なぜこうなってしまったか、その原因を求めて、著者は教育の問題に行き着き、日本は「社会人になりにくい教育をしているのではないか」と指摘する。欧米では学校教育の中に、良き社会人になるための教育=シティズンシップ教育が取り入れられているという。杉本厚夫氏によれば、イギリスのシティズンシップ教育とは、まず個人の自尊意識と教養をしっかり高めることであり、そのことによって社会に出ても社会状況を的確に判断し、良き社会人としての人間関係を築き、生涯を通して、社会参加を有意義に送ることができるようにすることだという。
昨今、日本のいくつかの大学は「リベラル・アーツ(教養)教育」の復権をうたっているが、何のための教養か?という点に、明確に踏み込んでいる大学は少ないように思う。本当は「シティズンシップのための教養」という目的意識が必要であり、より正しくは「グローバル社会におけるシティズンシップのための教養」であるべきだろう。
著者が指摘する日本の学校教育の弱点(問題点)には、同意するところが多い。日本の教師の多くが学校という閉鎖社会に閉じ込められ、会議や書類書きに忙殺されていること。教師も生徒も学校に留め置かれる時間が長すぎること。外の社会と交流し、新鮮な刺激を受け、豊かな経験を広げる機会を奪われていること、など。
国連子どもの権利委員会は、競争的・管理的社会のストレスに曝されている日本の子どもの現況を案じて「繰り返し日本の子どもの人権について警告している」という。本当ならとてもショックなことだ。PISA(学習到達度調査)の点数や順位が上がったとか下がったとかに一喜一憂するより、こっちのほうが、ずっと重要なのではないか。
本書には、著者自身が、地域のため、高齢者のため、あるいは紛争地域の難民のためにかかわってきたNPOやNGOの実践や、著者のまわりで、社会人として歩み始めてのち、働き方や生き方を変えた人たちの実例がいくつも語られている。絵に描いたような成功例ばかりなので、現実はそんなにうまくいくことばかりじゃないだろ~と鼻白む一面があったことは、記しておきたい。しかし、全体としては、難しい理屈や専門用語を用いず、平明に、当たり前の主張を当たり前に語っている良書であると思う。
結びの一節をそのまま引いておこう。「社会人であることは難しいことでも特別の努力を要することでもない。それは人間の本性に従って生きる、生き心地のよい生き方なのだ」。社会人になる手前で怖じ気づき勝ちな若者に、ぜひともこの言葉を送りたい。