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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

寒波京都旅行:東山、美術館など見て歩き

2011-02-17 22:25:23 | 行ったもの(美術館・見仏)
建仁寺両足院(東山区小松町)

 初日、京都国立博物館のあと、「京の冬の旅」で特別公開中の同院を訪ねた。お目当ては、長谷川等伯の『竹林七賢図』と伊藤若冲の『雪梅雄鶏図』。どちらも美術館で見たものだけど、現地で見てみたかったのだ。初公開をうたった秘仏・毘沙門天像は、黒田長政が兜に付けていたとか。わずか7センチほどで、遠目にはほとんど実体を確認できず。

清水三年坂美術館 企画展『鉄鐔の美 partⅡ ~肉彫鐔 驚異の鉄彫刻~』(2010年11月26日~2011年2月20日)

 以下は3日目。比較的、人の少ないシーズンオフを幸い、朝からニ年坂~三年坂の超メジャー観光スポットを散策する。幕末・明治の工芸品(金工、七宝、蒔絵、薩摩焼など)を常設展示する同館には、来るたび驚かされるが、今回の鉄鐔(てつつば)もすごかった。鉄鐔は溶かした鉄を型に流し込んで作っていると思っている人が多い。しかし実は「鏨(たがね)と金鎚を使って彫刻して作ったものである」という説明に、我が目を疑う。古いものは、鉄板に線彫りや浮き彫りを施す程度だが、次第に透かしが多くなり、精巧に、立体的になっていく。デザインが精巧になるほど、鍔の厚みが増していく。余談だが、大河ドラマ『風林火山』では、山本勘助が刀の鍔を眼帯にしていたが、幕末の鍔では重すぎ、大きすぎるように思った。大小セットの小さいほう(脇差用)なら使えるかも。

河井寛次郎記念館

 五条坂下の旧宅を利用した記念館。素焼き窯や登り窯も設置されている。申し出て記帳すれば、館内写真を撮ることもOK。興奮してたくさん撮ってきてしまった。のちほどフォトチャンネルに載せます。 

白沙村荘 橋本関雪記念館

 今回の旅行の最大収穫「筆墨精神」に立ち戻り、篆刻家・園田湖城との交流も深かった橋本関雪の記念館へ。広い庭園には多数の石塔。記念館では、王鐸や張瑞図の書、石濤の梅花図巻などを見ることができた。どうして手に入れたのか、石濤の遺印(印紐は酔李白の像)があったのにはびっくり。湖城作の印も多数あり。

法然院(左京区鹿ヶ谷御所ノ段町)

 最後に、前の晩に思い立った法然院に立ち寄る。通常「非公開」ということもあって(境内は自由)、これだけ京都に通っていても、一度も訪ねたことのないスポットだった。観光ルートの哲学の道から少し坂を上がって、樹木の多い山裾に近づく。京都というより、鎌倉の雰囲気に似ている。目的は、内藤湖南先生の墓参りだったので、墓苑を探して、きょろきょろする。銀閣寺側(北)から近づくと、本堂の反対側、南側が墓苑である。どこにも案内板はないし、果たして見つかるだろうか…とあやしみながら墓苑の中を突き当たりまで進み、折り返して別の道を戻ってくる途中で見つけた。



 目印としては、墓苑の入口にある大きな石塔(江州阿育王塔=近江の石塔寺の塔に倣ったもの)の右奥にある短い石段を上って、そのまま進むのが近道。九鬼周造の墓があり、その2つ先が湖南の墓である。今年は1年間、「関西中国書画コレクション展」でお世話になります!と挨拶して、手を合わせてきた。
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安土散策:見寺(安土城跡)で曽我蕭白の屏風を見る

2011-02-16 22:58:06 | 行ったもの(美術館・見仏)
 安土城考古博物館の帰り、少し周辺の史跡を歩いていくことにする。線路をくぐって安土城跡に抜ける近道が通行止めだったので、いったん駅の近くまで戻って大回り。安土駅から安土城跡に向かう間に、信長時代のセミナリヨ(神学校)跡があるらしいので、曖昧な観光地図をたよりに、当たりをつけた細道を入っていくと、あった。



 Wikiによれば、安土のセミナリヨ(神学校)は純和風建築三階建てで、客をもてなすための茶室も付属していたという。葉の落ちた桜の枝越しに安土城を望むことができる。ただし、ここはあくまで推定地で、まだ発掘もされておらず、遺構も見つかっていないとのこと。

 安土城跡は、山上まで登ると大変そうなので、とりあえず山裾の羽柴秀吉邸跡だけ見て行こうと思い、大手道の登り口に行ってみると、木戸が設けられている。え!有料なのか、と初めて知り、しかも、現在、城内(徳川家康邸跡)にある見寺(総見寺)では織田信長公の木像を特別公開中で、抹茶接待付きセット券が1,000円だという。券売機で買えるのは、セット券しかない。高い~。なんだこのボッタクリ商売は!と腹を立てる。

 セット券を買ってしまったので、予定外の見寺に立ち寄って、お茶を飲んでいく。福々しい信長公の木像は、どうというほどのものでもなかった。しかしながら、最初の部屋にあった伊藤龍涯筆『石曳の信長』(昭和5年=1930年、帝展入選)は、なかなか良かった。歴史画を得意とした画家らしい。ほかにも本堂には、近代の日本画家による襖絵、屏風が立てめぐらされている。問題は、信長公の木像が祀られた仏間の向かい、縁先の目隠しに立てられた六曲一双の古ぼけた屏風。まわりの美麗な近代作品からは、明らかに扱いが落ちる。何の説明書きもないし、そもそも、あまりに狭いスペースに押し込められていて、畳みっぱなしに近い。中の画面は、申し訳に見える程度。でも覗き込むと、気になる筆致。え、これ、蕭白じゃないの?

 いや、絶対にそうだ。押絵貼屏風というのだろうか、右端の蝦蟇仙人(たぶん)をはじめとして、仙人やら羅漢やらが六曲一双の12面それぞれに描かれている。仏間に「この部屋は撮影禁止」の札が掛っているのだから、この屏風は写真に撮ってもいいということか…と思いながら、つい自重して、落款部分を撮っておくにとどめた。(右:拡大)



 うちに帰って、2005年の京博の蕭白展の図録を見たが、見寺の作品は載っていない。でも「曽我左近二郎暉雄蕭白」は、確かに蕭白が使った署名で、小さな方印(方形円郭印)は「如鬼」、その下の円印は「蕭白」であることを確認した。ご住職さん、大事にしてね。

 抹茶セットはこんな感じ。冷えた身体が温まって嬉しかった。



 昼過ぎ、安土を離れ、石山寺と三井寺でご朱印をいただく。西国巡礼2巡目は、なかなか進まないけど、頑張ろう。

 夜は再び京都の友人と落ち合って、中華料理。
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観音の里で/近江の観音像と西国三十三所巡礼(安土城考古博物館)

2011-02-15 23:28:21 | 行ったもの(美術館・見仏)
滋賀県立安土城考古博物館 第41回企画展『近江の観音像と西国三十三所巡礼』(2011年2月11日~4月3日)

 安土城考古博物館は久しぶりだ。10年ぶりくらいかしら。前回は、観音正寺から下ってきて、ここに寄り、最寄り駅までバスがあるだろうと思ったら、何もなかったので呆然とした。今回は、はじめから25分歩く覚悟で安土駅に下りる。本展は、滋賀県の観音信仰と巡礼のありさまを紹介する展覧会。展示品は、仏像、経巻、曼荼羅図など52件(展示替あり)。1室だけの小じんまりした企画展だが、重文12件はさすがである。どちらかというと「近江の観音像」の比重が高く、「西国三十三所」関連品は少ないように思った。

 主な仏像を紹介していくと、仏心寺(愛荘町)の聖観音立像は、比叡山・横川の聖観音立像を踏襲したもの。確かに蓮華の茎を握ったところは同じだが、お顔や立ち姿はいくぶんスマートである。唐草文を墨書した板光背が素朴で面白い。誓光寺(信楽町)の十一面観音立像は、像内から観音の顔を描いた木札(表札くらいの大きさ)が見つかっている。多数の像内納入品を持つ福寿寺(近江八幡市)の千手観音は、見覚えがあると思ったら、昨年、東京・町田の『救いのほとけ』展でお会いしていた。さらに奇遇だ!と思ったのは、横山神社の馬頭観音像。頭上の馬頭のむき出しの歯に、この夏、炎天下の高月「観音の里ふるさとまつり」で拝観した記憶がよみがえった。

 会場中央の舞台に据えられた3体の仏像は、左が延暦寺の慈恵大師(良源)像。中央が、ポスター写真にもなっている来迎寺(野洲)の聖観音像(平安時代)。後世の母性的で慈愛に満ちた観音像のイメージとは異なり、強い威圧感を感じさせる、みたいな説明がしてあって、確かにそのとおりだが、背後を覗き込むと、着衣のドレープの美しさに魅了される。ギリシア彫刻みたい。右は山門公民館(!)所蔵の、近江最古の馬頭観音像だそうだ。頭上の馬が妙にデカい。

 後半の「西国三十三所」関連で目をひいたのは、札所におさめられた巡礼札。石山寺が所蔵する、永正3年(1506)とある札が、西国札所に伝わる最古の巡礼札だそうだ。煉瓦のようにぶ厚い。「武蔵国吉見住人」と読める。めずらしい弥勒2年(1507)表記の巡礼札も。「弥勒」は弥勒信仰に基づき、東国で用いられた私年号だそうだ。たぶん「甲州巨摩(郡?)布施庄 小池圖書助」と読むのだと思う。ちなみに、この巡礼札、馬琴の『兎園小説外集』に載っているらしい(原文未確認。ネットで検索したら出てきた)。

 また、同館は「鴨田遺跡出土巡礼札」と呼ばれる巡礼札53点(県指定文化財)を保有している(→詳細:PDFファイル)。札所寺院でも何でもない場所から、これだけまとまった巡礼札が出土したのは、何か巡礼者が立ち寄る関連施設があったのではないか、と推定されているそうだ。それはいいが、会場では、鴨田遺跡ってどこ?というのが、さっぱり分からなくて困った。そうか、大津なのか。上述の寺院名も、いま、所在地を調べながら記事を書いている。滋賀県の地理に疎いお客も見に来るのだから、展示リストや会場内の説明に配慮がほしい。

 ついでなので、常設展も見ていく。古墳時代の出土品は、朝鮮半島との関連性が濃厚だな~とか、石垣の積み方の進化(観音寺城→安土城→彦根城)とか、琵琶湖に突き出た安土城の築城デザインがヨーロッパの古城みたいだったり(戦後に大干拓事業を行っているのか)、いろいろと面白かった。
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書と篆刻の優品/筆墨精神+園田湖城(京都国立博物館)

2011-02-15 00:34:04 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都国立博物館 特別展覧会『筆墨精神-中国書画の世界-』+特集陳列『生誕125年記念 篆刻家 園田湖城』(2011年1月8日~2月20日)

 中国絵画はともかく、書となると、ちょっと敷居が高い。まして篆刻ねえと構えていたが、中国好きの友人に同行してもらったこともあって、はじめから終わりまで楽しめた。あまり真面目に下調べをしていなかったので、会場に入って、あれ!?と思うことが多かった。

 第一に、同展は上野コレクション(上野理一氏旧蔵)の寄贈50周年を記念する展覧会で、現在も上野家が保有する作品を併せて展示、ということまでは聞いていたが、東京の台東区立書道博物館、三井記念美術館など、関連施設から多数の優品が集められている。中国南北朝時代の『三国志呉志』は、書道博物館本(中村不折旧蔵)約10行分の断簡にきっちり接続する隣りの行から80行分が上野家に伝わっている。トルファン出土。国宝『大智度論残巻』(京博、大谷探検隊将来品)はクチャ出土。クチャもトルファンも行ったのよ!なんて自慢話をしたり、唐鈔本の欠筆を探したりして楽しむ。

 第二に、上野理一氏の蒐集品は、全て羅振玉らを通じて、同時代の中国からもたらされたものかと思っていたら、そうではないらしい。国宝『漢書楊雄伝』(上野家)は平安時代の加点奥書を持っているし、国宝『王勃集』(上野家)は興福寺伝来だという。さらに、私は根本的に勘違いしていたことがあって、ヲコト点や仮名の書き入れがあったり、紙背に日本語文献があるものは、オモテ側の本文も日本で筆写された文書だと思い込んでいたが、そんなことはない。古えの日本人は、中国伝来の鈔本にも堂々と書き入れをしたし、不要になれば裏の白紙を有効再利用していたのだ。ええ~貴重な唐鈔本に!と青くなるのは、全く現代人の感覚なのである。

 法帖(拓本)の世界は面白い。六朝時代の書を唐代に臨模して石刻したものの宋拓とか、唐代の碑の宋拓をもとに明代に重刻し、宋代の紙と墨で取った明拓とか、よく分からない情熱である(笑)。呼びものの王羲之『十七帖(宋拓)』は「名品と収集余光」と題した別室に展示されていた。丸みを帯びた柔らかな書跡で、日本人好みな感じがする。それにしても、故宮博物院の『快雪時晴帖』みたいに、まわりに皇帝の印がベタベタ押されていないのがいい。(そういえば、この書画展覧会、歴代皇帝の印をほとんど見なかった!)

 なお、この「名品と収集余光」の部屋には、上野家ゆかりの日本の書画(法華経冊子、古今和歌集など)も多数出ていて、びっくりした。

 「文人の世界」では、朱熹の『論語集註』自筆草稿に驚き(こんなのが日本にあっていいのか!)、王守仁(陽明)の家書巻(書簡集)は意外と解読できるので、性格の細かさに苦笑する。明人の自然でのびやかな書跡と、清人のかしこまった(金石文の影響が大きいの?)書跡を比べると、あらためて両時代の文化の性格の差がうかがえて面白かった。

 後半では、篆刻家・園田湖城が蒐集した、おびただしい数の秦漢古銅印(和泉市久保惣記念美術館所蔵)と、彼の創作作品を楽しむ。古銅印は、握れば掌に隠れてしまう程度の小さなものが多い。つねに量と大きさで人を驚かす中国文化においては、非常に異質な感じがした。10種類近い(?)印が収納できる「便利グッズ」みたいな印鑑もあって、ちょっと欲しくなった。

 最後にひとりごと。雑誌『印印』(古璽印印)は、さすが京大人文研が持っているのか…。
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寒波京都旅行・まとめとお土産

2011-02-13 22:50:02 | 食べたもの(銘菓・名産)
この3連休、行ってきたところ。順次レポート書きます。

2/11(金):筆墨精神/篆刻家 園田湖城(京都国立博物館)~建仁寺両足院
2/12(土):近江の観音像と西国三十三所巡礼(安土城考古博物館)~セミナリヨ跡~安土城跡・見寺~石山寺~三井寺
2/13(日):鉄鐔の美 partⅡ(清水三年坂美術館)~河井寛次郎記念館~白沙村荘・橋本関雪記念館~法然院(内藤湖南墓所)



職場へのお土産は、柏井壽さんが著書『京都 冬のぬくもり』でおすすめしていた桂月堂の「瑞雲」。初日の夕方は売り切れだったけど、2日目にようやくGET。

隣りは、烏丸四条のCOCON KARASUMAで見つけた、フィンランドのイッタラ社のマグ。北欧食器なのに青磁みたいなところが気に入って、買って帰ってきた(今回、購入した図録が1冊だけで、帰りの荷物が少なかったので)。同じシリーズに、汝窯の天青釉みたいな明るい水色のテーブルウェアもあった。
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寒波京都旅行・食べたもの

2011-02-11 20:06:22 | 食べたもの(銘菓・名産)
積雪予報にヒヤヒヤしていたが、無事に京都に到着。
初日は京都国立博物館で4時間(!)過ごしてしまった。もちろん昼食抜き。展覧会レポートはまた後日。

早めの夕食は、在京都の友人の案内で、京都大丸のデパ地下へ。名店・三嶋亭のすき焼きがカウンターで気軽に味わえる。東京のコッテリした甘辛だれと違って、淡白な美味。



買いに行くぞ!と張り切っていた寺町・桂月堂の瑞雲は売り切れだったので、欧風銘菓デリシャス・アーモン(アーモンドではない)を1つ買って行く。ホテルで開けてみたら、素朴な昭和のケーキの味。



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毛皮にくるまれて/もうすぐ絶滅するという紙の書物について(U. エーコ、J.C. カリエール)

2011-02-07 23:49:24 | 読んだもの(書籍)
○ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』 阪急コミュニケーションズ 2010.12

 電子書籍元年だというので、巷には関連本があふれている。本書も、いかにもそれふうのタイトルに加えて、「紙の本は、電子書籍に駆逐されてしまうのか?」と静かに煽るコピー。おお、エーコ先生さえも、紙の書物の消滅を案じていらっしゃるのか、と思って、手に取ってしまったが、ちょっと待て。原題は「N'espérez pas vous débarrasser des livres」、直訳すれば「本から離れようったってそうはいかない」の意味で、簡単に紙の本が無くなるなんてあり得ない、という盤石の自信に基づき、老練な二人の愛書家が、書物に対する愛情を語り合った対話編である。

 登場人物は、ボローニャ大学教授にして小説家のウンベルト・エーコ(1932-)と、フランス人の映画・舞台脚本家、ジャン=クロード・カリエール(1931-)。フランス人小説家・ジャーナリストのジャン=フィリップ・ド・トナック(1958-)が進行役をつとめる。

 全編にわたり、あふれる博学、ひらめく警句が楽しい、450ページを超える大著で、確かに冒頭の100ページほどは、書物が今まさに迎えようとしている技術的革新を話題にしている。しかし、二人の愛書家は、自信をもって、紙の本は完成した道具だという。「本は、スプーンやハンマー、鋏(はさみ)と同じようなものです。一度発明したら、それ以上うまく作りようがない。スプーンを今あるスプーンよりよいものにするなんて不可能でしょう」。笑ってしまった。なんという説得力。

 しかし、一面では、技術上の革新、新しい道具の出現は、我々に思考習慣の再編を迫り続ける。その結果は、直近の過去が現在を圧迫し、未来は大きな疑問符の姿として立ちはだかるという「現在の消失」となり、我々に「終身学習刑」を強いる。むかしは、一定の学習期間が終われば、覚えたことは死ぬまで役に立ったのだ。夢みたいな話である。

 以下、インターネットが与えてくれる玉石混淆の記憶と情報の大海。フィルタリングの必要性。炎(天災、焚書)の検閲によって、失われた書物と残った書物。傑作は最初から傑作なのではなく、読まれることによって(数々の解釈が堆積することによって)傑作になっていくという説。一方に、時の流れに耐えながら、再評価の日をじっと待っている作品もある。…このあたりは、電子書籍とは何の関係もない話である。でも面白い。

 本書に対しては、隙のない学術的考察や洞察は期待しないほうがいい。それよりも愛書家の両氏が、どんなきっかけで「書物崇拝」に入信し、どんな本を集めてきたか、死んだあと蔵書をどうしたいかなど、具体的な話題のディティールを楽しむほうが賢い。

 私がとても気に入ったのは、カリエールの友人が語ったという、以下の比喩。「私のある友人は、自分の蔵書を暖かい毛皮に喩えていました。本があると、暖かい、守られているような感じがするというんです。…世界じゅうのあらゆる概念、あらゆる感情、あらゆる知識、そしてあらゆる間違い(→※ここ重要)に囲まれていることで、安心と安全の感じが得られるんですね。…書物が無知という危険な霜から守ってくれるんです」。毛皮かあ。考えたこともなかった。

 ただし、両氏が念頭においているのは、あくまで西欧の書物である。インドの「マハーバーラタ」や敦煌文書のエピソードも多少は出てくるが、東アジアの書物史への言及が少ないことは残念に思った。訳文は品があって好ましい。
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懐かしのシルクロード/仏教伝来の道(東京国立博物館)

2011-02-06 23:38:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 文化財保護法制定60周年記念 特別展『仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護』(2011年1月18日~3月6日)

 気乗り薄の特別展だったが、まあ一応、と思って見てきた。冒頭では、写真、地図、水彩作品等で、平山郁夫氏(1930-2009)の取材旅行(150回以上!)の足跡を紹介。1970年以前は、ヨーロッパとインドが少々だが、その後、1980年までにアジア各地(西はレバノン、ヨルダンまで)を精力的に訪れている。私の記憶では、平山画伯って、既にこの頃(1970年代)から著名人だった気がするが、当時まだ40代でいらしたのね。

 以下、地域別に画伯の作品と文化財を展示。第1章「インド・パキスタン」には、山梨・平山郁夫シルクロード美術館の優品を多数招来。赤砂岩のマトゥラー仏の菩薩像頭部いいなあ。本来、鼻筋の通った端正な顔立ちなのだと思うが、鼻と口元が欠損しているせいで、憂いを帯びた表情に見える。ガンダーラの仏伝図レリーフ(2~3世紀)は、はっきり立体的な仏弟子たちの頭部がよく残っている。私は、日本の木彫の仏像に、あまり強い照明を当てる演出は好きではないが、こういう石彫仏は、陰影が引き立ってよい。

 第2章「アフガニスタン」は、冒頭に『バーミアン大石仏を偲ぶ』『破壊されたバーミアン大石仏』と題された、あたかも対幅のような2作品。これについては、いろいろ複雑な感慨があって、ひとくちに感想を言えない。流出文化財保護日本委員会(委員長:平山郁夫)所蔵の壁画片等が並ぶ。山梨・平山郁夫シルクロード美術館所蔵の「執金剛神像またはヘラクレス頭部」は、ギリシアふうの写実的な彫像に、肌は赤銅色、髪と髭には黒の彩色が施されている。そういえば「ギリシア彫刻は極彩色だった」という説(アテネ国立考古学博物館『GODS IN COLOUR』)を聞いたことがあるな。解説に「ヘラクレスまたはそれをモデルとした、仏陀の道案内者・護衛者、執金剛神」というが、これは認められた定説なのか…? Wikiでは、同様の説の脚注に前田たつひこ氏(平山郁夫シルクロード美術館学芸員)の著書が挙がっているのだが。

 第3~5章の「中国」は、東博の所蔵品が目立つ。いま休館中の東洋館の「西域美術」コーナー、地味に好きだったので懐かしかった。第6章「カンボジア」は、数は多くないが、プノンペン国立美術館から出陳あり。というわけで、西アジア&南アジアの仏像が好きな人なら、行ってみても損のない展覧会だと思った。

 第2部は、薬師寺の「大唐西域壁画」全図とその下絵を公開。思ったよりよかった。この作品は、自然光の座敷で見るより、映画館みたいにまわりが暗い中で見るほうが引き立つ。

 蛇足だが、冒頭の取材旅行の紹介で「朝鮮-Korea」となっている高句麗古墳(安岳3号墳)、気になって調べたら、北朝鮮の平壌南方にある古墳か。こんなところにもいらしているんだな。私が中国(西域)のクチャ、キジル、高昌故城などを訪ねたのは、もう15年くらい前のこと。まわりの顰蹙を承知で決行した2週間の夏休み旅行だったが、結局、行ってよかったと思っている。また行きたいんだが…定年まで機会はないかなあ。

 最後に気になった情報を2件。

薬師寺別院『薬師寺の文化財保護展』(2011年2月26日~3月6日)
会場の出口で、お坊さんがチラシを撒いていた(さすが薬師寺w)。金曜の夜に一緒に飲んだ友人から「薬師寺で奈良時代の大般若経が見つかったらしいよ」と聞いていたので、あまり驚かなかったけど、大発見である。30年前まで転読(おい!)に使っていたというのが笑える。私、学生時代にこの経本を使った大般若転読を見てるかもしれない…。→参考:奈文研ニュース(2011/2/1)

奈良国立博物館『天竺へ 三蔵法師3万キロの旅』(2011年7月16日~8月28日)
チラシGET!! 藤田美術館の『玄奘三蔵絵』全12巻公開だという。前後期で巻き替えありとのことだが、2回で全部見られるなら、当然行きます!
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家族の絆/文楽・芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)

2011-02-05 21:34:30 | 行ったもの2(講演・公演)
国立劇場 2月文楽公演『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』『嫗山姥(こもちやまうば)』(2011年2月5日)

 『芦屋道満大内鑑』は、見どころ「葛の葉子別れの段」と舞踊的な要素の強い「蘭菊の乱れ」。しっとりした、いい構成だった。初めて見たときは、「大内の段」「加茂館の段」「保名物狂の段」「葛の葉子別れの段」「信田森二人奴の段」という構成だったと思うが、ラストが賑やかすぎて、興醒めだった記憶がある。髭面の奴・野干平(やかんぺい)を名乗って現れるキツネは、保名の妻と同一キツネなの?というのが、よく分からなくて、混乱した。今回は、物語の前段が完全に省略されているので、少し展開が分かりにくいかもしれないが、まあ日本人にはなじみ深い異類婚姻譚だし、大きな問題はないと思う。

 異類婚姻譚は各国にあるが、日本のものがいちばん好きだ。「結ばれてはいけない」という禁忌性がほどほどにあって、超えてはいけない一線を超えて引かれ合う、恋人たちや家族愛の純粋さが切ない。やっぱり「もののあはれ」の国だと思う。キリスト教文化圏だと、動物が人間に戻ってめでたしめでたしか、そうでなければ、動物と人間の婚姻からは妖魔しか生まれないと思う。中国もちょっと違う。

 キツネの妻に去られた保名と、母を失くした童子と、その母代わりになろうと決意した葛の葉姫の三人の、肩を寄せ合うような立ち姿に、私は妙に感動してしまった。こういう家族――自然な血縁で結ばれた家族ではないけれど、家族になろうという意志で結びついた家族って、いつの時代もリアルにあったんだろうなあ、と思って。

 初めて見た「蘭菊の乱れ」は、音曲も(清治さん!)振付も、あと舞台装置も美しかったけど、仲間のもとに戻ったあのキツネは、やっぱり異端者として後ろ指さされるのだろうか。キツネの世界にも人間の世界にも、身の置きどころなく生きていくのだろうか、と想像して、切なかった。

 そんな思い入れを誘われるくらい、舞台がよかったのである。葛の葉役は、吉田文雀さんの予定だったが、直前に休演が決まって、吉田和生さんが代演していた。何度も舞台を見ている和生さんだが、こんなに感動させられたのは初めてのことだ。よかった。

 『嫗山姥』は、妹に敵討の先を越された坂田時行が、わが身を恥じて自害すると、その魂が恋人の遊女の胎内に入って転生するとともに、その恋人を怪力の山姥に変えてしまうという、まさに奇譚。現代の同人誌作家でも、ここまで荒唐無稽なストーリーは着想しないだろう。そういえば、浮世絵に多い山姥と金太郎の図が、そこはかとなく色っぽいのは、金太郎が転生した恋人であるせいか?(エディプス・コンプレックスか)などと思った。
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お腹の鳴る本/江戸グルメ誕生(山田順子)

2011-02-03 22:44:50 | 読んだもの(書籍)
○山田順子『江戸グルメ誕生:時代考証で見る江戸の味』 講談社 2010.11

 出版社も売り方を心得たもので、帯にさりげなく「TVドラマ『JIN-仁-』の時代考証を担当する著者が…」とある。教えられるまでもない。2009年秋、ドラマ『JIN-仁-』にハマった私は、いろいろ調べているうち、この山田順子さんという人物に行き当たった(→記事)。子どもの頃から時代劇が大好きで、時代考証家になりたくて、テレビの世界にもぐりこみ、CM制作→歴史クイズの問題制作を経て、気がついたら、時代考証の仕事をしていた…という雑誌『人材教育』のインタビュー記事も興味深く読んだ(とある個人ブログに紹介あり)。

 本書は、その山田順子さんが、江戸の食べもの事情について語る新著。衒学趣味に走らず、きびきびと事実を述べていく文体が好ましい。ひとくちに江戸と言っても256年間もあるので、その間の変遷もきちんと書かれている。たとえば、慶長年間の江戸は漁業の後進地帯だった。家康は摂津国から漁師を呼び寄せ、さらに関西から大勢の漁民が移住してきた。だから房総には、紀州と同じ白浜、田子、勝浦などの地名があると聞くと、目からウロコが落ちる思いである。また、江戸初期は砂糖は輸入品、酢と醤油は大阪方面から仕入れたものしかなかったので、三代家光の頃、ようやく江戸っ子好みの「甘くてしょっぱい」味が誕生した(そうそう、蕎麦つゆはこれでなくちゃ)。

 将軍の食事、遊女の食事、長屋住人の食事など、職業や社会階層によって異なる食事事情も興味深い。現在の白米飯と同じ、水で焚いた「姫飯(ひめいい)」が普及した江戸時代でも、将軍だけは蒸し焚きの「強飯(こわいい)」を食べさせられたとか。江戸前期までは、武士も町人も外食の習慣がなく、外出先で食事をするときは、先方で御馳走になるか弁当を持参したというのも、へええと思った。

 寿司、そば、天ぷら、おでん、鰻の蒲焼などが、どんな変遷を経て、今の姿になったかという「各論」は、とりわけ興味深い。仕事帰りの電車の中で読んでいると、今夜の夕食は蕎麦にしようか刺身にしようか、いや両方食べたいなど、千々に思い乱れてしまう。菓子屋は、意外と今に伝わっていないんだなあ。「おてつ牡丹餅」とか「永代団子」「今坂餅」などの江戸の銘菓も気になる。

 意外に「江戸グルメではない」ものもあって、スタンダードな醤油だれの煎餅は、明治以降、江戸と草加で商品化されたらしいが、ルーツは不明なのだそうだ。また、信州味噌の江戸への出荷が始まったのは関東大震災のとき、というのにもびっくりした。
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