見もの・読みもの日記

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お寺にとっての文化財を考える/宝物特別公開(薬師寺東京別院)

2011-02-27 21:13:17 | 行ったもの(美術館・見仏)

薬師寺東京別院 宝物特別公開『薬師寺の文化財保護展』(2011年2月26日~3月6日)

 薬師寺東京別院を訪ねるのは4回目。ようやく迷わずにたどりつけるようになった。今回の目的は、昨年9月に発見された奈良時代の大般若波羅蜜多経(永恩経)である。昭和57年(1982)12月までは、毎月8日の大般若転読法要で使用されていたという。大般若転読では、折本仕立ての経巻をパラパラパラと流して畳み、最後にポンと叩いて全文読んだことにするのがお作法。お坊さんが、「奈良時代のお経ですから、90過ぎのおばあさんをゴロゴロ転がして、背中をポンと叩いてたようなもんですな」とかおっしゃっていたのが可笑しかった。

 発見されたのは47帖だそうだが、展示ケースには、積み上げられたものが5帖(だと思った)。さらに2帖(巻100と巻490)が、朱筆の奥書銘の部分を開いて展示されていた。巻100には「貞永元年」、巻490には「天福元年」の年号が見える。ん?どっちも13世紀の年号じゃない、どういうこと?と思って、解説パンフを読んだら、これらは奈良時代に書写された大般若経を、鎌倉中期の興福寺僧・永恩が句切点を施し、再整理をした混合経の残巻なのだという。解説パンフによれば、それぞれの奥書に「句切了永恩生年六十七」「句切了/永恩生年六十七」という箇所がある…らしい。読みにくいなあ、この署名。で、既に確認されている永恩経約40巻のうち2件に「天平ニ年」(730)銘があることから、今回見つかった47帖も、奈良時代のものと推定されているそうだ。納得。展示されている2帖は、筆跡が異なり、巻490のほうが鋭角的な感じがする。私は、巻100の大らかな手のほうが好みだ。

 ほかに平安後期の『法華経玄賛要集』、鎌倉中期の『応理大乗伝通要要録』、鎌倉後期の『大般若経音義』を全国初公開。薬師寺では、平成19年1月に宝物管理研究所が立ちあげられ、聖教調査に着手して4年目になるが、総数170函のうち、まだ6割(105函)しか終わっていないそうだ。

 この日、法話を聞かせていただいたのは、薬師寺の「文化財担当」だという大谷執事。文化庁とお寺さんの「文化財」に対する考え方の違いが興味深かった。文化庁の保存修復の原則は「現状維持」である。「たとえば仏像が手足を欠失している場合でも、現状のままで保存に耐えうる程度の修理しか行なわないというもの」(美術院国宝修理所)だ。一方、大谷執事によれば、寺院では「仏様が仏様として生きる修理」を最善とする。顔のない仏様、手足のとれたぼろぼろの姿では、信者に向き合うことができない、という。

 室内には数体の仏様が迎えられていたが、たとえば、木造の吉祥天立像(昨年秋に大宝蔵の特別展でもお会いしたと思う)は、頭部が全く欠損していたが、調査によって平安時代後期の制作ということを特定し、その時代らしいお顔を復原したものという。同様に、平安時代の聖観音菩薩像も、これまで「江戸時代の十一面観音像」と考えられていたが、修復の過程で、平安時代の一木彫であることが分かり、さらに頭部を横に鋸引き(ひえ~)して十一面観音に改変した痕が認められたことから、平安時代の一木彫の類例を求め、多くの試作を重ねた上、大きめの宝冠を補足することになったのだそうだ。

 このあたりの話は非常に面白かった。顔のない仏様と聞いて、すぐに浮かんだのは、いわゆる「唐招提寺のトルソー」である。あの如来立像は、芸術愛好家にとっては今のままで(今のままのほうが?)魅力的だが、「仏」としてあのままでいいのか、というのは難しい問題だ。

 なお、薬師寺は東塔解体修理のため、特別写経の勧進を始めている。今後10年間の修理事業に必要な経費は、文化庁の試算で25億円。この3割が薬師寺の負担になるそうだ。写経、やってみようかしら。日々の生活が依存するデジタルメディアの耐久性のなさは嫌というほど自覚しているので、こんなブログ記事なんて雲散霧消したあとにも、紙本墨書は、運がよければ、千年先まで残るかもしれない…と思わせる、今回の展示である。

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