見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

手塚治虫の呪縛/Pluto008(浦沢直樹)

2009-07-06 00:31:31 | 読んだもの(書籍)
○浦沢直樹、手塚治虫『Pluto(プルートゥ)』第8巻 小学館 2009.7

 第1巻の発売が2004年9月(奥付は2004年11月)だったから、ほぼ5年をかけて完結した。あまりに長い年月をかけて進行した物語だったので、伏線がよく分からなくなってしまったきらいがある。それと現実世界の進行(私たちの忘却)の速度が早すぎて、サダム・フセインに似せたダリウス14世も、登場当時のインパクトは無くなってしまったし、トラキア合衆国のモデルであるアメリカも、最近の青息吐息の経済状況では、帝国の傲慢さは薄れてしまったように思う。

 Amazonのカスタマーレビューを見ると、「泣けた」「切ない」「感動」という単語が並んでいる。それは私も否定しない。「憎しみからは何も生まれない」「博士、憎しみがなくなる日は来ますか?」「わからない……そういう日が来るのを願うだけだ」というアトムとお茶の水博士の会話に、本作のテーマは集約されるだろう。巻末「あとがき」に、本書のプロデューサーである長崎尚志氏も「(アトムは)史上最初に、戦争の虚しさを記憶したロボットだった」と解説している。

 確かに、手塚治虫の言いたかったことは、そのとおりに違いない。でも、足掛け5年、第8巻までつきあってきた私としては、本作は、いろいろ現代的な意匠を凝らしつつも、結局「手塚治虫の言いたかったこと」を忠実にリピートしただけの感じがして、拍子抜けだった。それなら「地上最大のロボット」でも「青騎士」でも、手塚作品自体を、何度でも読み直したほうが、ずっと面白くて、ずっと得るものが多いような気がする。浦沢や長崎がやりたかった「リメイク」って、初めからこういうことだったのか?

 手塚治虫が偉大な作家であることは間違いない。でも、こんなふうに手塚の呪縛に囚われ続けていてはいけないんじゃないか。そこから踏み出すこともできないくらい、最近の「マンガ」の創造力や表現力は衰えているのだろうか。もうちょっと違った「リメイク」が私は読みたい。
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歴史ロマン、完結/鹿鼎記8(金庸)

2009-07-05 23:02:23 | 読んだもの(書籍)
○金庸著;岡崎由美、小島瑞紀訳『鹿鼎記』8(徳間文庫) 徳間書店 2009.7

 長編歴史ロマンもこの1巻でついに完結。最後まで、あっと驚く急展開の連続、しかも行き当たりばったりではなく、きちんと伏線が回収されているのが見事だった。揚州の乱痴気騒ぎの一夜が、韋小宝にとって、こんなに都合のいい結果を生もうとは…。康熙帝が韋小宝の身近に放った間者の正体も納得。

 思わず、うるっと泣かされた箇所が2つあって、1つは、韋小宝を「若さま」と慕う小間使いの双児が、武林の奇人・呉六奇から貰った短銃で、間一髪、韋小宝の命を救うシーン。このとき、双児は、いつか双児が韋小宝の妻となれるよう、彼女に短銃を与え、義兄妹の契りまで結んでくれた呉六奇の好意に気づき、涙をこぼす。第6巻では、ただの茶番と思われたエピソードの真意が、ようやく読者にも明らかになる。

 もう1つは、通吃島で7人の妻と隠居生活を決め込んでいた韋小宝のもとに届けられた康熙帝の密旨。「べらぼうめ、全て赦してやるから、北京に戻って来い」というのである。いや、あり得ないけど、これには韋小宝ならずとも泣き笑いしてしまった。私は、清朝の皇帝では、乾隆帝がいちばん好きなのだが、この作品を読んで、フィクションだとは分かっていても、康熙帝に対する親しみが一気に増したように思う。

 韋小宝最後の活躍は、北の国境に官軍を率い、楠木正成みたいに智謀を尽くしてロシア軍を蹴散らし、巧みな弁舌でネルチンスク条約を結ぶ。これについて作者は「乾隆帝以降、清朝は外国と条約を結ぶたびに、国土を喪失してきた。康熙帝と韋小宝の国威を発揚した気風は、二度と後世には見られなくなったのだ」と記す。実は、韋小宝が一時期暮らした通吃島は、のちに釣魚台と改められ、どことなく尖閣諸島(中国名は釣魚台列島)を匂わせる設定となっている。さらに韋小宝は、台湾平定にも手を貸しているし、チベットのラマをだまくらかす話も出てきたし、今日の領土問題が、本作のあちこちに顔を出しているのは興味深い。

 私は、作者・金庸は、韋小宝と康熙帝の物語を、まだこのあとも書き継ぐつもりだったのではないかと思う。というのは、まだ回収されていない伏線があるような気がするからだ。けれども、これ以上、韋小宝に満漢の「板ばさみ」を続けさせるのがさすがに辛くなったのか、突如、韋小宝は「もうやーめた、何もかもやーめた!」と宣言し、雲南・大理城に隠棲してしまう。この決断の引き金となるのが、実在の大学者・顧炎武からの驚天動地の申し出というのが巧い。さらに康熙帝が、生涯たびたび揚州を訪れたのは、韋小宝を探すためだったというのも、よく出来たオチである。でも、雲南の大理くらい、康熙帝に探し当てられないはずがないと思うんだが。雲南って、そんなに僻遠の地だったのだろうか。

 さて、手に汗握った波乱万丈の物語は、「母ちゃん、おいらの親父はいったい誰なんだ?」と問いかける韋小宝と母親の呑気な会話で終わる。この呑気さは、井波律子氏が指摘した『三国志(演義)』の結末の能天気ぶりと、どこか似ているように思った。めでたし、めでたし。

『鹿鼎記』1~7までの感想。

※蛇足。北京に「通吃島」というバイキングレストランがあるらしい。(ぐるなび北京:日本語)
http://www.gudumami.cn/beijing/jp/cb30226/
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天下大乱の光と影/鹿鼎記1~7(金庸)

2009-07-02 23:27:24 | 読んだもの(書籍)
○金庸著;岡崎由美、小島瑞紀訳『鹿鼎記』1~7(徳間文庫) 徳間書店 2008.12-2009.6

 先々週から読み始めて、半分くらいで「しまった」と思った。既に完結しているものと思っていたら、まだ最終巻の第8巻が文庫化されていなかったのだ。激しく慌てたが、もう引き返せない。徳間書店のサイトを見たら、明日7月3日が第8巻の発売というのに、今日で第7巻まで読み終えてしまった。うわーん、どうしよう。今夜は悶々と枕を抱いて苦しまなければならない…。

 『鹿鼎記』は、1969~1972年に発表された金庸の武侠小説。時代は清朝初期。揚州の女郎の息子、韋小宝は、ひょんなことから宦官になりすまして北京の宮廷にもぐりこみ、少年皇帝・康熙帝の知遇を得、さらに、さまざまな秘密結社、武芸集団、政治勢力の間を渡り歩くことになる。

 私は、CCTV(中国中央電視台)制作の連続ドラマ『射雕英雄伝』(2002年)と『天龍八部』(2003年)をスカパーで見て、そのあと両作品の原作(日本語訳)を読んだのが金庸との出会いである。それまで、中国の武侠モノにも日本の時代劇にも興味のなかった私には、衝撃的に面白かったが、後半ぐんぐん盛り上がった割には、『射雕』は結末が尻つぼみに感じられ、『天龍』はやや後味が悪かった。

 それに比べると、この『鹿鼎記』は、今のところ文句がない。博打好き、女好き、無学でなまけものの主人公・韋小宝が、強運と舌先三寸で幾多の危機をくぐりぬけ、美女と栄華を手に入れる姿は痛快無比。しかし、単なるお調子者かと思えば、Aの命を救うためにはBの殺害もやむなし、というような冷酷な一面もあり、没義道かと思えば「義理ある兄弟を裏切れない」とか「賽の目には従う」とか、妙に律儀なところもある。己れの欲望に従う、万国共通のキャラクターに見えて、ちょっと日本人の理解を超えた度量も感じさせる。

 韋小宝とは「光と影」の関係にある康熙帝もまた、相当な「食わせもの」だ。いや、名君とは、食わせものの別名なのだろう。呉三桂討伐の軍を発するにあたって「最初の5、6年は負けてもいい」には舌を巻いた。こういう腹が括れるのが大国のリーダーの器なんだなあ。康熙帝を恐れ、かつ慕い、同時に騙し続けてきた韋小宝の化けの皮がはがれ、第7巻でついに発生した両人の対決には、文字どおり手に汗握る思いがした。

 また、第6巻で韋小宝はロシアに赴き、皇女ソフィアが権力を握る手助けをする。韋小宝は、満清が「揚州十日」で殺人放火、姦淫略奪の限りを尽くして天下を奪ったように、奴らにも「モスクワ十日」をやらせて天下大乱を起こせばいい、と考えて実行させる。あとで、その話を聞いた康熙帝は「お前は、わが大清から身につけた悪知恵を羅刹(ロシア)の毛唐の女に教えたな」とげらげら大笑いするのだ。この中国文化に綿々と受け継がれるマキャベリズムって、「義がなければ…」みたいな正論好きの日本人には、とても太刀打ちできないなあ、と感じた。

 さて、明日は必ず、仕事帰りに8巻を買いに行こう! おやすみ!

『鹿鼎記』8の感想。
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