見もの・読みもの日記

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公衆衛生の誕生/感染症の近代史(内海孝)

2017-01-13 00:39:47 | 読んだもの(書籍)
○内海孝『感染症の近代史』(日本史リブレット) 山川出版社 2016.10

 江戸時代の日本は清潔だったという言説がある。まあこれは、虚偽とは言わないけれど、清潔の基準によるのではないかと思っている。本書は、幕末から明治初期にかけての感染症(伝染病)流行の実態と、その防止につとめた人々の努力が語られている。近世以前の日本では、疫病によって多くの命が失われたため、季節ごとに邪気を払い、非業の死を遂げた人を悼むことが年中行事化した。京都の祇園祭や江戸の隅田川花火大会もそうである。

 古代から日本人を苦しめてきた疫病に天然痘がある。予防法である牛痘種痘法は、発見から半世紀後の1849(嘉永2)年に日本に伝わった。その年から二千人余に種痘を施したのは、安芸の国の蘭方医、三宅春齢。1857(安政4)年、江戸の蘭方医がお玉が池に種痘所を開く。しかし、1866(慶応2)年の年末に京都で孝明天皇が天然痘のため死去。親王(のちの明治天皇)の祖父にあたる中山忠能は、蘭方医の大村泰輔をして、密かに親王に種痘を施していた。「密かに」というのは、ものすごい危険を冒した大英断だったんだなあ。

 そののち、新政府成立後の1876(明治9)年、内務省は天然痘予防規則を布達し、小児の種痘を義務化する。孝明天皇の死から、わずか10年しか経っていないのだから、この変化はすごい。この間に、岩倉米欧使節団の派遣があり、理事官随行員の長与専斎は、ドイツとオランダに赴き、医学教育、貧民救済、上下水道の整備、薬品・飲食物の用捨取締などを調査し、帰国後、文部省の医務局長に就任して、「医制」の改正を行った。長与が調査したのは、今なら「衛生行政」とか「厚生行政」と呼ぶべきものだろうけど、その言葉も概念もない状態で、現実の仕組みを日本に移植しようとしたのだから、この時代の行政官(学者)はすごい。

 さて、19世紀に世界を席巻した流行病はコレラである。インドの風土病であったコレラは、欧米諸国の貿易活動によって地球規模に拡散した。日本への初襲来は1822(文政5)年で、その後も繰り返し流行が見られた。1877(明治10)年のコレラ流行に際し、横浜在住の外国人たちは日本人に手洗いの敢行を呼びかけた。「手洗い」は今日でも感染病予防の有効な手段だが、外国人から見ると、多くの日本人が「清潔な習慣を身につけているとは決していえない」状態であった。

 「清潔な水」の問題もある。イギリス人ブラントンは、井戸からさほど離れていないところに簡易便所や糞尿溜めが作られているため、地中の水脈を通って、有害物質が井戸の水に流れ込んでいることを指摘し、近代的な上下水道工事の必要を説いた。この、汚物と水汚染の問題は、モースも指摘している。また長崎で医学教育にあたったポンぺは、時々、学生と市中を散歩して、臭い溝、汚物の山などを見せ、これらが人類の衛生上、恐るべき害をもたらすことを説いたが、衛生学の講義は「最初、学生にはほとんど受け入れられなかった」という。怪我を手当するとか、病気を治療することは理解できても、予防、保健衛生の意義は、なかなか理解されなかったのだろう。

 もっとも、当時のヨーロッパも、コレラの流行に震撼しながら、近代的な公衆衛生のシステムを急速に確立していた時期なので、日本がいちじるしく遅れていたわけではないようだ。

 感染症は外国船舶が運んでくることが多いため、「検疫」は重要な予防策である。また、戦争はしばしば感染症の流行を引き起こす。西南戦争においては、長崎のコレラが戦場地の鹿児島に達し、凱旋する兵士の輸送船が神戸港に入港すると(兵士たちは制止命令を聞かずに上陸し)町家でコロリと息絶える者があったという。これは西南戦争の余話として知らなかった。怖い話である。不平等条約の時代、検疫で足止めされることを嫌ったドイツ船が、日本側の官憲の制止を無視して、乗客と荷物を上陸させた事件もあった。主権が守られなければ、感染症の予防も完遂できないのだということをしみじみ感じた。

 このほか、1899(明治32)年のペスト流行、1913(大正2)年のスペイン風邪(流行性感冒)、肺病(結核)についても簡単な記述があるが、もっと詳しいことが知りたくなった。最後に、明治のお雇い外国人医師ベルツは、駒込の伝染病院を訪れ、バラックのように貧弱な施設、患者数に対する医師や看護婦の少なさを見て「一体東京市は、病気の市民のために何をしているのだ!」と憤激している。私たちは、日本が他国と比べて清潔かどうかよりも、この国で貧しい人たちの生命がきちんと保護されてきたかを気にした方がいいと思う。
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