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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2016初詣は秦野大日堂

2017-01-02 23:55:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
大日堂(神奈川県秦野市)

 「県指定重要文化財の木造大日如来坐像など、2017年元旦に特別公開」というニュースを年末に見て、ちょうど東京に帰省しているので、行ってみることにした。小田急線の秦野駅から蓑毛行きのバス(1時間に2本程度)に乗り、終点で下りると、すぐ目の前に小さな山門(仁王門)がある。これをくぐったところに、だいぶ朱塗りの剥げたお堂があり、手前に仮設のテントがあって、待っていたおじさんから「どうぞ、中に入って拝観できますよ」と案内をいただいた。



 お堂の中は集会所のようで、背もたれのない長椅子が並んでいた。正面に坐像の仏像が並んでいるのはすぐ分かったが、ふと右手を見ると、ものかげに大きな立像がおいでになって、びっくりした。平安時代の作と推定されている木造聖観音菩薩立像である。少し寸づまりな感じがする。顔も体もかなり傷みが激しい。

 あらためて正面に向き直ると、中央には、やや面長で堂々とした体躯の、たぶん智拳印を結んだ大日如来坐像。孔雀の羽根を思わせる、ハート形の穴の開いた光背が珍しかった。「当山開基 行基菩薩」という札が下がっていたのは「伝・行基作」の意味だろうか? 左右に二体ずつの如来坐像は、中尊よりひとまわり小さい。左に釈迦と阿弥陀、右に宝生と阿閦という構成で、五智如来と言われる。

 お堂の裏手の階段を上がると不動堂や御岳神社があった。バス通りを挟んで反対側には、大日堂の管理をしている宝蓮寺がある。禅寺らしく気持ちのよい境内は散策自由だが、観光寺院ではない。御朱印は遠慮して帰った。
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毛沢東の肖像/赤い星は如何にして昇ったか(石川禎浩)

2017-01-02 22:25:06 | 読んだもの(書籍)
〇石川禎浩『赤い星は如何にして昇ったか:知られざる毛沢東の初期イメージ』(京大人文研東方学叢書2) 臨川書店 2016.11

 年末年始は東京の大きな書店をゆっくり回ることができたので、ちょっと変わった本を見つけて買うことができた。本書のテーマは、副題のとおり、毛沢東の初期イメージの探求である。毛沢東(1893-1976)は、1921年、中国共産党第一回党大会に湖南代表として参加、第一次国共合作下で農民運動の指導に当たり、1927年から国共内戦に突入すると、井崗山を根拠とし、朱徳とともに農村ゲリラ戦を展開した。しかし、1930年代初め、毛沢東の名前は知られるようになっても、まだ具体的な情報は少なかった。

 著者は、毛沢東の伝記記事が、中国国内、日本、欧米で、どのように登場したかを調査し、中国共産党が指導をあおいだコミンテルンでさえ、毛に関する情報をほとんど得ていなかったことを検証する。では、毛沢東の肖像(視覚イメージ)はどのように広まったか。著者は、1933年の共産党の宣伝図版集に掲載されたスケッチ画、1934年にアメリカの左翼系雑誌『チャイナ・トゥディ』が掲載した肖像画など、最初期の例をいくつか紹介する。特に、一見、多様に見えた肖像群が、全て1929年の国民党幹部の集合写真の「コピペ」であることが種明かしされる過程は面白い。前近代~近代初期の著名人の「肖像」って、こんなものだったんだろうなあと思う。

 一方、日本有数の中共専門家・波多野乾一が執筆したと思われる『週報』(官報の附録)1937年8月の記事には、まんまる顔に八の字髭の、妙に人の好さそうな「毛沢東」の肖像写真が掲載されていた。著者はいろいろ推測するが、結局、この太っちょ写真の像主を突きとめられていない。

 面白かったのは、毛沢東には「雨傘を持つ革命家」のイメージがあるという話。長衫を着て雨傘(番傘)を抱えて歩む毛沢東を描いた『毛主席、安源へ行く』(劉春華、1967年)は有名な絵画だそうだ。なぜ雨傘?と思うが、著者は「昔の中国では、誰もが傘を持ち歩いていた、少なくとも外国では中国人は傘を持ち歩くと信じられていた」という。ほんとか? 南方に限った話なのかなあ。本書には、1920-30年代、洋傘を背負って行軍する国民党兵士の写真が載せられている。もっと面白いのは、毛沢東がエドガー・スノーのインタビューに応じて、自分のことを「和尚が傘をさす」と述べたことだ。スノーはこれを「破れ傘を手に、世をさすらう孤独な僧侶」と詩的に脚色しているが、実は中国語で「和尚打傘」といえば「無髪無天」→「無法無天」で、法も天道もお構いなしの暴れん坊の意味になるという。外国語は難しい。

 後半は、毛沢東イメージの画期となったエドガー・スノーの『中国の赤い星』について。アメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーは、外国人記者の取材など不可能と考えられていた「赤い中国」(陝北の中共根拠地)に潜入し、毛沢東ら指導者たちにインタビューし、多くの写真とともに発信して、世界に衝撃を与えた。

 著者は、スノーの取材が成功した理由を冷静に分析するとともに、しばしば誤解されがちな点を正している。たとえば、スノーは単独行ではなく、医師のジョージ・ハテムが同行していたこと、インタビューは通訳を介して行われたこと、おそらく宋慶齢が共産党に仲介したと考えられること、など。その上で、近年刊行されたユアン・チアンの『マオ』が、『中国の赤い星』は毛沢東が訂正や書き直しを入れたもので「多くの人がこれに完全にだまされた」と書いていることを「こじつけ以外の何ものでもない」と退ける。

 『中国の赤い星』には毛沢東の肖像写真が二枚掲載されていて、紅軍帽をかぶった精悍な表情の写真は、その後、あちこちに転載された。今でもキッチュな毛沢東グッズなどで見ることがある。もう一枚は「野暮ったい村人」ふうなのだが、スノーが後年までこちらを好んで使い続けたというのも興味深かった。毛沢東の肖像というと、以前読んだウー・ホンの『北京をつくりなおす』(人民共和国成立以後の毛沢東の肖像についての論考あり)を思い出すところもあって、興味が尽きない。

 『中国の赤い星』は、中国では『西行漫記』の題で訳され、中国青年に影響を与えた。しかし、1960年代、同書は半ば禁書を意味する「内部読物」に指定されてしまう。毛沢東を完全無欠な指導者としたい共産党にとって、同書の毛沢東像は、扱いに困るものだったのだ。文化大革命を経て、1979年には新訳が出たが、やはり「不敬」にあたる記述は省かれており、これが「中国の歴史叙述のしきたり」というものだと著者は書いている。

 私は10年以上前(このブログの開設より前)に、同書をちくま学芸文庫版(松岡洋子訳、1995年)で読んだが、あまり面白かった記憶がない。著者も初読のときは期待したほど面白くなかったが、その後に読み返したら面白く感じたという。確かに全く読まれなくなってしまうには惜しい作品である。私もいつか読み返してみようと思う。
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