見もの・読みもの日記

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規範からの逸脱/教養主義の没落(竹内洋)

2006-03-01 00:26:47 | 読んだもの(書籍)
○竹内洋『教養主義の没落:変わりゆくエリート学生文化』(中公新書) 中央公論新社 2003.7

 本書は、著者の中学時代の回想から始まる。昭和31年(1956)、著者の家に、新制大学を卒業し、新制高校に就職の決まった青年教師が下宿することになった。一部屋分の蔵書とレコードを持って現れた先生は、総合雑誌『世界』を購読し、著者に『三太郎の日記』や『善の研究』を勧めた。その経験は、著者に、大学生というのはこういう書物を読む人たちなのだ、という刷り込みを与えた。

 大正時代の旧制高校を発祥地として、その後の半世紀間、教養主義はキャンパスの規範文化だった。著者は、教養主義の「奥の院」である文学部の学生に、意外なほど農村出身者が多いことに注意を促す。教養主義は、農村型の修養主義、人格主義、あるいは刻苦勉励主義と親和性を持っていた(→逆に、都市ブルジョア層が多かったのは理学部と経済学部だという。おもしろい!)。農村型の修養主義エートスを基本にしながら、泥臭い故郷に背を向けて、輝ける「西洋」を志向し、知識人に「成り上が」ろうとする心性こそ、日本型教養主義の範型である。

 しかし、1960年代、高等教育の大衆化は、教養主義の空々しさ(教養の多寡によってエリートと非エリートを選別する)を露わにし、教養知から技術知・専門知へ、思想インテリから実務インテリへの転換がうたわれるようになった。また、農村人口の急激な減少は、教養主義を下支えしてきた刻苦勉励的エートスを放逐してしまった。

 全共闘世代がキャンパスの教養主義に対する「家庭内暴力世代」だとしたら、ポスト全共闘世代は、もはや教養主義からの「家出世代」である――なるほど、うまいこと言うな。私自身も、教養主義の完全な没落(1970年代から80年代。ただし大学によって時間差がある)以降に大学生活を送った世代である。著者は、教え子の大学生から「読書で人格形成するという考え方がわかりづらい」という、率直すぎる質問を受けて、とまどった経験を告白しているが、確かに80年代以降のキャンパスでは、人生に悩むとか、人格を修養するなどという行為は「普通からの逸脱」であり、著者が危ぶんでいるように、「過剰な現実適応学生文化」が主流であったことは否めない。

 しかし、我々(80年代の大学生)も今の大学生も、難しい本を全く読まなくなったわけではない。ただ、状況が大きく異なるのは、昔は教養主義が知識人の規範だったのに対して、今日では、技術知や専門知がキャンパスの規範(大学教育の使命)化していることだ。実社会で役に立たない学問、言葉を換えると、金にならない学問は、日に日に排斥されつつある。

 したがって、今日のキャンパスで教養知を求めることは、規範からの逸脱であり、規範に対する果敢な挑戦でさえある(平たく言えば、オタク化戦略である)。そこに、今日の教養主義の生きる途があるかもしれない、と言ってしまったら、正統的教養主義の末裔である著者は、嫌な顔をするかしら。
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