見もの・読みもの日記

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旧制高校の時代/学歴貴族の栄光と挫折(竹内洋)

2006-03-11 23:54:17 | 読んだもの(書籍)
○竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』(日本の近代12) 中央公論新社 1999.4

 近代教育史のマイブームはまだまだ続く。本書は「1人1巻の書き下ろし」による「日本の近代」シリーズの1冊である。面白いな。私は、大勢で書く講座ものはあまり好きでないのだが、これなら読んでもいい。松本健一の『開国・維新』とか、水谷三公の『官僚の生態学』とか、他の巻も面白そうだ。

 さて、本書のタイトルが示す「学歴貴族」とは誰のことか。どうせ帝大生のことだろう、と思って読み始めたのだが、この予想は微妙に裏切られた。近代日本の「学歴貴族」とは、旧制高校の学生をいう。本書は、旧制高校の誕生から終焉までを、制度史・文化史の両面から描き出し、さらにその余香を、新制大学の時代にまで追ったものである。

 知らないことばかりで、実に面白かった。明治14~15年頃、東京大学予備門では、毎年、在学者の4分の1以上が退学していた。当時の東京大学は、たくさんある高等教育機関の1つに過ぎず、卒業生の行き場で突出した優位性をもった学校ではなかった。そのため、東京大学やその予備門は「生徒を引き止めるほどの大きな魅力をもっていなかった」のである。

 明治19年、帝国大学令の公布によって、帝国大学を頂点とする高等教育の時代が始まる。翌年、帝国大学卒業生は、無試験で高級官吏(試補→奏任官)になることができると定められた。このヒエラルヒー型教育システムを設計したのは、文部大臣森有礼だった。(帝国大学初代総長には、官僚肌の渡辺洪基が選ばれ、東京大学総理の加藤弘之は、森有礼に嫌われて更迭されてしまう。加藤って、つくづく損な役回りのひとだなあ。)

 高等中学校(→旧制高校)は、帝国大学の誕生とセットになって、同じ明治19年に生まれた。旧制高校は次第に増えていったが、進学希望者はそれに勝る勢いで増えていく。それでも、大正末年までは、旧制高校を卒業すれば、ほとんどはどこかの帝国大学に進学することができた。高等学校の卒業生を帝国大学が収容し切れなくなり、帝大入試が行われることになるのは昭和以降のことである。

 したがって、「旧制高校」に入れるか入れないかは、エリートと非エリートを選別する最大の関門だった。なるほど~。永井荷風が父親に「何年かかってもいいから一高を受験しろ」と言われたわけや、川端康成『伊豆の踊り子』で、旅芸人たちが一高生の「私」を、まぶしいエリートとして見つめる感覚が、ようやく分かったように思った。

 いつも思うのだが、著者の本は数字の使い方がうまい。数字嫌いの私でも、つい読まされてしまう。と同時に、具体的なエピソードの使い方もうまい。明治30年代、武士的エートスと、西洋文化を核とした教養主義的エートスがせめぎ合う第一高等学校の様子は、魚住影雄(哲学教授のケーベルに師事、のち漱石門下)を通じて活写されている。

 旧制高校から放逐された武士的エートスは軍学校生の間に生き残った。西洋かぶれの官僚(非軍事)エリート集団と、国粋主義的な軍事エリート集団の「互いに斥け合うエリート・ハビトゥス」は、社会の不安定要因となる。著者はそこに昭和初期のファッショ化の背後構造を見る。

 最終章は、戦後、旧制高校的教養主義が一時的に復活し、次いで決定的に解体した顛末を論じる。本書のあとに執筆された著作『教養主義の没落』や『丸山真男の時代』に、むしろ詳しい。ただし、本書の結論に置かれた、大正時代半ばには、既に高等教育人口の爆発が起こり、大学知識人のゴシップ、学校騒動、大学無用論が頻発していたことを考えると、あの戦争がなかったら「昭和40年代の大規模な大学紛争は昭和10年前後におこっていただろう」という指摘は、重要であると思う。ずいぶんシニカルな結論だけど。
コメント
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