「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

モーツァルトが嫌いな作家

2022年03月27日 | 音楽談義

たびたび行く図書館の「新刊コーナー」の向かい側は「随筆コーナー」になっている。

つい先日のこと、めぼしい新刊がなかったので「どーれ、随筆でも読んでみるか」と、くるりと振り返って、つい手に取ったのが「春夏秋冬」。



著者は「宮城谷昌光」氏。中国の古典に題材をとった作品が多いことで知られるベテランの作家さんである。

読み進むうちにクラシックに関する記述に行き当たった。

指揮者「ブルーノ・ワルター」への礼賛がつづく中で、

「ワルターの演奏には指揮者そのものが鳴っている」(169頁)

「ところでこのレコード(田園)をとりだしたとき、いっしょにモーツァルトの交響曲第39番・第40番が出てきた。むろんワルターがコロンビア交響楽団を指揮したものである。

・・そういえばこのレコードもよく聴いた。こうなると私はベートーヴェンとモーツァルトの音楽へはワルターに導かれて入ったことになる。

たしかに私は高校生になってから10年ほどモーツァルトの音楽に没頭したが、あるとき酔いがさめたようにモーツァルトから離れた。ブラームスやマーラーへ移ったともいえるが、そこにもワルターがいた。」

以上のとおりだが、実は宮城谷さんには「クラシック私だけの名曲1001曲」というもの凄く分厚い大著がある。



このブログを書くためにわざわざ図書館から借りてきたのだが、この画像からもその分厚さがお分かりのことだろう。

この大著についても随筆の中で次のような記述があった。(37頁)

銀座の伊東屋へ行った時のことである。エレベーターで上の階へ昇り扉が開いたので2,3歩踏み出したとき同じエレベーターに乗っていた中年の紳士から声をかけられた。

「宮城谷さんですね」「ええ、そうです・・」「私はあなたのあれを、もう8回も読みました」「はあ、あれ、といいますと」

私の作品の中で8回も繰り返し読まれる作品があるとは嬉しい限りなので、それがどの小説であるか、紳士の答えを胸をときめかせて待った。

「音楽のあれですよ」「あっ、あれですか」

小説ではなかった。その本とは新潮社からだした「クラシック私だけの名曲1001曲」である。

その日は不思議な日で、私は人と会わなければならなかったが、初対面のその人からも「あなたのクラシックの本、買いましたよ」と言われた。

私は音楽の専門家ではないが、その本はぞんがい好評で音楽界の人からも恵信をもらった。それらのことを思うと、後世、私は音楽評論家と間違えられて、「小説も書いていたんですって」などと言われかねない。この想像は、いたってつらい。」


たしかに、この音楽書は作家の余技にしては随分と手間がかかった力作であることを認めざるをえない。

で、ずっと以前にこの大著に目を通した時に大いに気になっていたのが、これら1001曲の中にモーツァルトの作品が1曲でさえも入ってなかったことである。

そのことを確認するために再度借りてきたというわけだが、やっぱり間違いなく入ってなかった。

当時は、宮城谷氏は生来の「食わず嫌い」かなと思っていたのだが、今回の随筆を読んで一時期でさえもモーツァルトに没頭されたことがあったことがわかった。

で、いったいなぜ「酔いが醒めたかのようにモーツァルトから離れた」のかという疑問が付きまとう。

まあ、「俺の勝手だろう」と言われればそれまでだが(笑)。

ただし、モーツァルトの場合、ベートーヴェンと違って交響曲はそれほど重要な位置付けを占めているわけではない。

オペラ、ピアノソナタ、各種協奏曲なども高い峰々にあたるので、これらを熱心に聴いてモーツァルトの良さをぜひわかってほしかったなあ・・、という想いがする。

以前のブログにも引用した事があるが、「神学の大家カール・バルトは毎朝まずモーツァルトを聴き、それから神学の著作に向かうと述べていたし、”重さが浮かび、軽さが限りなく重い”のがモーツァルトだとも言っていた」

この「禅問答」のような言葉はモーツァルトの音楽を心から愛している方には通じるものがあると思うし、(彼の音楽に)没頭する境地としてこれ以上の適切なものはないような気がする。

で、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのか、まことに縁遠く感じてしまい、宮城谷氏の著作をいっさい読む気がしないのが不思議(笑)。


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