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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

台湾の二宮金次郎像

2011-01-29 | 先住民族関連
(2011年1月28日 読売新聞)

台北支局 源一秀
 終戦まで50年にわたり日本が統治した台湾。赴任から2年、各地に残され古い建造物、碑などに日本の面影を見てきた。しかし、幼少より勤倹力行の象徴として敬ってきたあの方の像が、日本の精神をいまも台湾各地で伝え続けているとは。
 初めてお目にかかったのは、1年前だった。石像があるとのうわさの真偽を確かめるべく足を運んだ台北近郊の観光地、金瓜石の道教廟「勧済堂」の敷地内。約1メートルの像は遠目に見ても明らかだった。読書をしながらまきを背負って歩く少年像。そう、一昔前なら小中学校の校庭の風景の一部だった二宮金次郎像だ。
 二宮は江戸時代後期に生まれ、農民から幕臣にまで昇格した立志伝中の人物。報徳、勤労の生涯を貫き、600余りの貧困村を救った。内村鑑三の表現を借りれば「代表的日本人」の一人だ。
 懐かしさに駆け寄るや、思わず吹き出してしまった。なぜって、貧しいはずの二宮少年が余りにもふっくら顔で、おまけに福耳ときていたから。現地の日本語世代のお年寄りに由来をたずねた。像は1936年、廟の工事をした際、大陸から招いた石工に、台湾人父母らが「近所の(日台の)子どもたちの教育のために」と作ってもらったものだという。
 日本のイメージと異なるのは、吉祥を像に込める中華的創造力のたまものだろう。当時の父母の思いにも感じ入り、自身の不謹慎を恥じることになった。ただ、これがきっかけで、台湾全土に散らばる二宮像をたずね歩くことになった。
 最も巨大だったのは、屏東県長治郷の長興小学校にある。同小OBらが2005年、50万台湾ドル(約140万円)を出して、骨董商から購入、寄贈した高さ約150センチの銅像だ。日本統治時代から残る鋳型で作られたものという。
 当時、贈った側にこれが二宮だと知る人はいなかったという。同小には中国大陸の中原を起源とする客家の子弟が多く通う。「客家の美徳である質素、勤労、勤勉を見事に体現した彫像。誰なのかなんて関係はなかった」。ただ、この像も見事な福耳で、髪形はまげではなく仏像を思わせる。
 小型のものでは、桃園県の平興小学校の校長室の書棚に、戦前のものと見られる約40センチの銅像がある。これは純日本風だ。二宮の偉業を知る元校長が骨董屋でたまたま見つけて購入、寄付したもの。貧しい先住民子弟が多く通うため、「貧しくても二宮さんのように努力を重ねれば報われる」ことを生徒に教える教材となっている。
 一体どれだけの新旧二宮像が台湾にあるのか、定かではない。戦中、台湾各地にあった銅像は戦時供出で撤去され、残った石像のほとんどは、戦後、大陸から渡った国民党政権に破壊され、孔子像や蒋介石像に変えられている。戦前からのものは、特に希少であることは確かだ。
 それだけに、出会えた喜びは格別だ。台湾で地方へ出かけるたび、地元民に心当たりはないかをたずねるのが習慣となった。日本風二宮像もいいが、ユーモラスな中華風二宮像の魅力もたまらない。日本のモノだというのに、日本では味わえない楽しみだろう。
http://www.yomiuri.co.jp/column/world/20110128-OYT8T00387.htm?from=navlc

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八王子で「アイヌ文化を体験しよう」 29日に小学校で実施

2011-01-29 | アイヌ民族関連
(msn.産経ニュース2011.1.28 22:10)

 東京都八王子市の子供たちがアイヌ文化を学ぶ「アイヌ文化を体験しよう」が28日、市内の小学校2校で行われるのを前に、北海道白糠町の「白糠アイヌ文化保存会」のメンバーが八王子市役所を訪れた。約200年前、八王子周辺を守っていた八王子千人同心が、警備と開拓のため白糠町に渡ったのが縁で、平成11年から両市町の交流が続いている。
 29日は松木小と、みなみ野君田小でアイヌ語の学習や伝統楽器ムックリの体験などを行い、約300人の児童が参加するという。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110128/tky11012822110021-n1.htm

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【白老】ポロトのアイヌ民芸品店、2月1日再開

2011-01-29 | アイヌ民族関連
(苫小牧民報 2011年 1/28)

 白老町の観光名所・ポロト湖畔の民芸品店が、2月1日から再開する。アイヌ民族伝統の木彫りや刺しゅうが並ぶ3店舗。観光客にアイヌ文化の魅力を伝える。
 場所は、アイヌ民族博物館駐車場から入館ゲートへ通じる町有地。木造平屋30平方メートルの店3棟を構える。うち1店は木彫り専門店。販売とともに、実演や有料での製作体験も企画している。残りの2店は、アイヌ刺しゅうのバッグ、キーホルダーなどを中心に販売する。
 2009年10月に閉館した物産店街「ミンタラ」で民芸品店を構えていた元店主が共同出資して再建した。ただ、ポロト地区は、国の「アイヌ民族の象徴的空間」の整備区域になる見通しで、計画の進ちょくによっては撤去しなければならないという。
http://www.tomamin.co.jp/2011s/s11012802.html

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祝福の声次々

2011-01-29 | アイヌ民族関連
(朝日新聞 2011年01月28日)

東京・日比谷の帝国ホテルで27日にあった2010年度の朝日賞と第37回大佛(おさらぎ)次郎賞などの贈呈式で、各界の受賞者や団体とともに、医師の原田正純さん(76)と評論家の渡辺京二さん(80)の功績がたたえられた。2人はともに熊本市在住で、関係者からはお祝いの言葉が寄せられた。
  半世紀にわたって水俣病問題に取り組む原田さんは、熊本学園大(熊本市)を拠点に続ける学際的な「水俣学」の提唱と深化が評価された。
  27日の朝日賞受賞スピーチでは「水俣学が若い人に受け継がれることを祈念します。(受賞を)出発点にさらに探求していきたい」と話した。
  ともに水俣学講義の中心を担う同大の花田昌宣教授は「当然の受賞。業績を考えればもっと早くてもよかった。後を継ぐ我々も頑張らないと」。水俣病被害者互助会(水俣市)の谷洋一事務局長は「常に被害者の声を聞き、事実を検証してきた。患者も私も最も信頼する人。多分野で見識も深く、人脈も広い。それが水俣学のベースになったのでしょう」と言う。
  同会の会員は国などを相手に係争中で、原田さんは会員のための証人として法廷に立っている。佐藤英樹会長は「先生の受賞は本当にうれしい」。原田さんが3度のがんを経験し、昨年11月末に抗がん治療を終えたばかりである点を踏まえ、「治療を続けながら証言する姿に決意を感じる。医師として人間としてさすがだと思う」と語った。
  「業績もすごいけど、最も価値があるのは人柄」と言うのは、40年来のつきあいがある宮崎市のジャーナリスト宮澤信雄さん(75)。「穏やかで融通無碍(ゆう・ずう・む・げ)。よくこんな人がいるなあと感心する。ずっと患者側に立ち、権力に取り込まれることもなかった。ぶれない人」と評した。
  一方、渡辺京二さんはロシアと先住民族アイヌ、日本の異文化接触の歴史を描いた「黒船前夜――ロシア・アイヌ・日本の三国志」(洋泉社)での大佛次郎賞。日本の近代史に新たな光をあてたと評価され、スピーチでは「楽しい仕事だった。80歳になったが、もう少しこの世にお邪魔し、仕事をさせてもらうつもりです」と話した。
  「黒船前夜」は熊本日日新聞夕刊での連載63回分を補筆・修正した作品。執筆を依頼した編集局次長の松下純一郎さん(56)は「史料を精査して組み合わせ、一つのものを作り上げる渡辺史学の真骨頂。受賞を機に、熊本から全国にさらに発信されれば」。
  水俣病を扱った「苦海浄土」を始め、渡辺さんが長く編集者として付き合う作家の石牟礼道子さん(83)は「あの人の仕事は全部すごいですから。今回は、伝統をひらいて見せたという点ですね」。
  渡辺さんは様々な文献を読み込み、日本における「近代」の意味を問い続けてきた。熊本近代文学館の井上智重館長(66)は「渡辺さんは深く、深くものを読む。彼の読みを通すと、様々な書物から見えてくるものがある」と話した。
http://mytown.asahi.com/kumamoto/news.php?k_id=44000001101280004

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BOOKほっかいどう「異星、北天に煌(きら)めく」

2011-01-29 | アイヌ民族関連
(朝日新聞 2011年01月28日)

■異星、北天に煌(きら)めく
 北海道ノンフィクション集団《編》
■激動期に足跡 外国人15人
 幕末から明治、大正、昭和の時代に北海道を訪れて足跡を残した15人の外国人を取り上げ、彼らの功績や生き方に迫った人物伝である。
 登場するのは、幕末の箱館(現在の函館)で製材や貿易を始める一方で生物分布の境界線「ブラキストン線」を発見した英国人トーマス・ブラキストンや、開拓使のお雇い米国人として畜産酪農の基礎を築いたエドウィン・ダン、二風谷でアイヌ文化研究や医療奉仕を行った英国人ニール・マンロー、ロシア革命を逃れて旭川に移住し日本球界黎明(れいめい)期の大投手となったヴィクトル・スタルヒンと多彩だ。
 北海道は、箱館が1859(安政6)年に貿易港として開港し、開拓期には国策で外国人を登用するなど早くから国際化が進んだ。箱館戦争で旧幕府軍側で戦ったフランス人ジュール・ブリュネのように、歴史の激動に巻き込まれた外国人も少なくない。
 また、鎖国時代に遭難者を装って北海道に上陸し、ペリー来航時の通訳官に英語を教えた米国人ラナウド・マクドナルドらあまり知られていない人物も紹介している。
 外国人たちの日本文化に対する強い関心と西欧文化を伝えようとする情熱が、激変する時代の風景とともに浮かび上がる。道内のノンフィクション作家11人による執筆。
(北海道出版企画センター・1680円)
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000861101280001

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