日経ビジネス オンライン-2014年9月9日(火)
中川 明紀
彫りは深くて手足が長く、髭などの体毛が濃い、いわばヨーロッパ系の特徴に近い縄文人と、平たい顔で胴長短足、体毛が薄い弥生人。まるで対照的だが、縄文から弥生へと時代が移り変わる中でいったい何が起こったのだろう。
(写真)国立科学博物館名誉研究員の馬場悠男さん。『骨が語る日本史』(学生社、共著)などの著書、『人類の進化: 拡散と絶滅の歴史を探る (サイエンス・パレット)』(丸善出版)などの訳書がある。(以下撮影:森山将人)
「ここ10~20年の研究ではっきりしたことですが、弥生人は縄文人が進化したのではなく、大陸の北方から渡来してきた人々なのです。だから、最近は渡来系弥生人という呼び方をしています」
そもそも、私たちの祖先であるホモ・サピエンス(新人)は、約20万年前にアフリカで誕生し、6万年前に世界中へと広がり始めた。彼らは立体的でごつい顔をしていて、肌は黒く、暑い土地を長距離移動するために手足が細長かったが、移住した土地の環境に適応して体つき、顔つきが進化していった。初期のサピエンスの特徴をもっともよく留めているのが、環境条件がアフリカと似ているオーストラリアの先住民だという。
凍った肉が歯を丈夫に
約4万年前から東アジア一帯に住んでいた人々が日本列島に移動してきたのが縄文人で、彼らはアフリカにいたときからの特徴を留めながら現代化してきた。いっぽう、渡来系弥生人はもともと約3万年前にシベリアに住み着いた人々で、極寒の地に適応するために進化した。これは世界的に見ても非常に特殊なことだと馬場さんは言う。
「マイナス数10℃という寒さに耐えるためには、体温が発散されないようにがっちりとした体格で、手足が短いほうがいい。顔も凍傷を防ぐために鼻を低く、まぶたは皮下脂肪で厚く覆ってしまいました。髭や体毛が薄いのも、汗や吐く息の水分が毛につくと凍傷になってしまうからです。横綱の白鵬が典型的ですよ。モンゴル人は北方アジア人の特徴をよく留めています」
もともとは同じホモ・サピエンスだったのが、環境の違いでここまで変わることに驚きだ。弥生人のほうが縄文人より歯が大きく丈夫だったのも、凍った肉を噛み切って食べていたためだという。
「北方アジア人は凍った肉を食べたし、獣の皮で服を作るために噛んで皮をなめしたりもしていました。そもそも、人類がシベリアで暮らせるようになったのは、約3万5000年前に縫い針が発明されて気密性が高い衣服が作れるようになったからです。その技術を持ってシベリアに移り住んだ人々が、獲物を獲り過ぎてしまったなどの理由で約6000年前に南下を始めたのです」
縄文2割、弥生8割
彼らは約1万年前に長江流域で始まったとされる稲作文化を吸収し、約2800年前に日本列島に渡った。そして、九州北部や本州西部に築いたのが弥生文化なのである。縄文人と弥生人は異なる民族だった。では縄文人はどこへ行ってしまったのか。
「縄文人は当時、10万人はいただろうと言われています。それ以上の弥生人が一度に渡来したとは考えられず、少数の弥生人がしばらく縄文人と住み分けをしていました。ただ、弥生人は稲作技術を持っていたぶん安定した食料を得られたので、人口増加率が縄文人より高かった。弥生時代も約1200年ありますから、渡来人口が少しずつ増え、なおかつ人口増加率も高かったことで、どこかの時点で縄文人と人口が逆転したのです」
縄文人が台地に住むのに対し、弥生人は稲作に適した低湿地帯に住むことを好んだ。そうやって居住地も離れていたが、弥生人の人口が増えて生活範囲が広がるにしたがって、縄文人と交わるようになっていったのだと馬場さんは話す。つまり、私たちは縄文人と弥生人のハイブリッドということだ。現在の本土日本人の遺伝子を調べると、渡来系弥生人の遺伝子が7~8割、縄文人の遺伝子は2~3割だという。
「いっぽう、稲作が普及しなかった北海道の先住民・アイヌは縄文人の特徴を留めています。彫りが深くて目が大きく、髭が濃い。ヨーロッパの人類学者は30年くらい前まで、アイヌはヨーロッパ系だと言っていたくらいです」
やがて階級社会が成立していくと、人口で陵駕した渡来系弥生人たちが支配階級となる。3世紀頃から始まった古墳時代の古墳から出てくる人骨は渡来系弥生人の特徴を持っているし、平安時代の源氏物語などの絵巻に登場する貴族たちの顔がのっぺりとしているのも、渡来系弥生人が支配階級だったことを示している。
弥生163cm、江戸156cm
「弥生時代から後、人骨で特徴的なのは身長の変化です。よく、歴史を遡るほど身長は低くなっていくと思われていますが、現代を除くと日本人の身長が最も高かったのは弥生時代なんです。時代を経るごとに身長はどんどん小さくなっていき、一番低かった時代は江戸から明治にかけて。弥生時代に平均が163cmあった成人男性の身長は、この頃には156cmまで下がっています」
これまた意外だが、稲作による農業生産の拡大で人口が増加するにしたがい、動物性タンパク質の分け前が減って栄養的に偏りが出たため、体がその状況に適応していったと考えられる。戦乱が終わって太平の世となった江戸時代は人口が約1200万人から3000万人を超えるまでになったので、その現象も加速したのだろう。
「江戸時代にはもう一つ、おもしろい特徴があります。ヒトの骨を観察、計測して集団ごとの特徴を区別したり、比較したりするのが私の研究ですが、江戸時代の人骨を調べているうちに、庶民の顔は幅が広く顎もしっかりしているのに、上流階級は顔が細長くて顎の小さな人が多いことがわかったのです」
その原因こそ、食べ物にあるのだと馬場さんは話す。
「江戸時代、庶民はせいぜい1日に一度しか米を炊きません。都市部などでは薪を買うにもお金がかかりますしね。だから、それ以外は冷や飯を食べます。いまのように電子レンジもありませんから、まずこれがかたい。おかずもメザシやタクアンなどが多く、全体的にかたいものを食べていたんです。これが上流階級になると毎食米を炊くし、おかずも焼いた魚の切り身などやわらかいものを食べていた。咀嚼する力がさほど必要ありませんから、顎が発達せず、華奢で細長い顔になったと考えられます」
かたいものを食べていた縄文人は顎がしっかりしていた。咀嚼の力が違うだけでそこまではっきりと骨格が変わってしまうものなのか。しかも、江戸時代のこの現象は“美の概念”にも影響をおよぼしたという。2007年に馬場さんが国立科学博物館の坂上和弘研究主幹と一緒に行った、東京・上野の寛永寺にある徳川将軍家の墓の遺骨の学術調査は、それをよく表していた。
美女も変わる
江戸時代前期は、将軍の正室はたいてい顔が細長く顎が小さかったが、側室は顎がしっかりした庶民顔だった。正室は皇族や公家から輿入れをしているが、側室には庶民出身の大奥女官から選ばれていたからだ。しかし、これが江戸時代後期になると正室も側室もみな細長い顔をしているのだという。
「京都から輿入れした正室の顔が細長いことから、美女の顔はそういうものだという概念が世の中に浸透したのです。さらに、平安時代以降、北方アジア人的な一重で細い目が良いとされる伝統が続いていました。浮世絵に描かれた瓜実顔で目の細い“美女”はその象徴でしょう。そうやって生まれた紋切り型の美の概念のもとで、野心を持った連中が将軍の側室にするために面長な女性を大奥へと送り込んだと考えられます」
12代将軍家慶の側室で、13代将軍家定の生母である本寿院などはその典型で、遺骨を調べると、まさに細長い顔をしていたという。現代も、雑誌やテレビに登場する女優やモデルが美のイメージをつくる。美への捉え方は違っても、世間の流行に左右されるのはいつの時代も同じだ。
病気を生む顔とは
なお、縄文人と同様に、大奥の女性の骨についても米田さんたちは食べていた食物を調べた。基本的に江戸時代の庶民と同じで、米と魚介類を食べる伝統的なものだが、魚介類の比率が高かったとのことだ。
「必要なカロリーと必須アミノ酸、ビタミンがあれば、何を食べていても、骨格そのものには大きな変化はありません。ただ、顔は食べ物の影響を強く受けます。そして、食べ物による顔の変化こそが、現代のさまざまな病気を生み出している原因のひとつと言えるのです」
美の概念だけでなく、健康にも影響を与えるとは恐るべし。いったい、病気を生み出す顔とはどういうものなのか。私の顔はどうなのか慌てて聞くと、とりあえず大丈夫らしいが……。明治以降の顔や体つきの変化を追いながら詳しく伺っていこう。
つづく
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140904/270796/?n_cid=nbpnbo_top_updt&rt=nocnt
中川 明紀
彫りは深くて手足が長く、髭などの体毛が濃い、いわばヨーロッパ系の特徴に近い縄文人と、平たい顔で胴長短足、体毛が薄い弥生人。まるで対照的だが、縄文から弥生へと時代が移り変わる中でいったい何が起こったのだろう。
(写真)国立科学博物館名誉研究員の馬場悠男さん。『骨が語る日本史』(学生社、共著)などの著書、『人類の進化: 拡散と絶滅の歴史を探る (サイエンス・パレット)』(丸善出版)などの訳書がある。(以下撮影:森山将人)
「ここ10~20年の研究ではっきりしたことですが、弥生人は縄文人が進化したのではなく、大陸の北方から渡来してきた人々なのです。だから、最近は渡来系弥生人という呼び方をしています」
そもそも、私たちの祖先であるホモ・サピエンス(新人)は、約20万年前にアフリカで誕生し、6万年前に世界中へと広がり始めた。彼らは立体的でごつい顔をしていて、肌は黒く、暑い土地を長距離移動するために手足が細長かったが、移住した土地の環境に適応して体つき、顔つきが進化していった。初期のサピエンスの特徴をもっともよく留めているのが、環境条件がアフリカと似ているオーストラリアの先住民だという。
凍った肉が歯を丈夫に
約4万年前から東アジア一帯に住んでいた人々が日本列島に移動してきたのが縄文人で、彼らはアフリカにいたときからの特徴を留めながら現代化してきた。いっぽう、渡来系弥生人はもともと約3万年前にシベリアに住み着いた人々で、極寒の地に適応するために進化した。これは世界的に見ても非常に特殊なことだと馬場さんは言う。
「マイナス数10℃という寒さに耐えるためには、体温が発散されないようにがっちりとした体格で、手足が短いほうがいい。顔も凍傷を防ぐために鼻を低く、まぶたは皮下脂肪で厚く覆ってしまいました。髭や体毛が薄いのも、汗や吐く息の水分が毛につくと凍傷になってしまうからです。横綱の白鵬が典型的ですよ。モンゴル人は北方アジア人の特徴をよく留めています」
もともとは同じホモ・サピエンスだったのが、環境の違いでここまで変わることに驚きだ。弥生人のほうが縄文人より歯が大きく丈夫だったのも、凍った肉を噛み切って食べていたためだという。
「北方アジア人は凍った肉を食べたし、獣の皮で服を作るために噛んで皮をなめしたりもしていました。そもそも、人類がシベリアで暮らせるようになったのは、約3万5000年前に縫い針が発明されて気密性が高い衣服が作れるようになったからです。その技術を持ってシベリアに移り住んだ人々が、獲物を獲り過ぎてしまったなどの理由で約6000年前に南下を始めたのです」
縄文2割、弥生8割
彼らは約1万年前に長江流域で始まったとされる稲作文化を吸収し、約2800年前に日本列島に渡った。そして、九州北部や本州西部に築いたのが弥生文化なのである。縄文人と弥生人は異なる民族だった。では縄文人はどこへ行ってしまったのか。
「縄文人は当時、10万人はいただろうと言われています。それ以上の弥生人が一度に渡来したとは考えられず、少数の弥生人がしばらく縄文人と住み分けをしていました。ただ、弥生人は稲作技術を持っていたぶん安定した食料を得られたので、人口増加率が縄文人より高かった。弥生時代も約1200年ありますから、渡来人口が少しずつ増え、なおかつ人口増加率も高かったことで、どこかの時点で縄文人と人口が逆転したのです」
縄文人が台地に住むのに対し、弥生人は稲作に適した低湿地帯に住むことを好んだ。そうやって居住地も離れていたが、弥生人の人口が増えて生活範囲が広がるにしたがって、縄文人と交わるようになっていったのだと馬場さんは話す。つまり、私たちは縄文人と弥生人のハイブリッドということだ。現在の本土日本人の遺伝子を調べると、渡来系弥生人の遺伝子が7~8割、縄文人の遺伝子は2~3割だという。
「いっぽう、稲作が普及しなかった北海道の先住民・アイヌは縄文人の特徴を留めています。彫りが深くて目が大きく、髭が濃い。ヨーロッパの人類学者は30年くらい前まで、アイヌはヨーロッパ系だと言っていたくらいです」
やがて階級社会が成立していくと、人口で陵駕した渡来系弥生人たちが支配階級となる。3世紀頃から始まった古墳時代の古墳から出てくる人骨は渡来系弥生人の特徴を持っているし、平安時代の源氏物語などの絵巻に登場する貴族たちの顔がのっぺりとしているのも、渡来系弥生人が支配階級だったことを示している。
弥生163cm、江戸156cm
「弥生時代から後、人骨で特徴的なのは身長の変化です。よく、歴史を遡るほど身長は低くなっていくと思われていますが、現代を除くと日本人の身長が最も高かったのは弥生時代なんです。時代を経るごとに身長はどんどん小さくなっていき、一番低かった時代は江戸から明治にかけて。弥生時代に平均が163cmあった成人男性の身長は、この頃には156cmまで下がっています」
これまた意外だが、稲作による農業生産の拡大で人口が増加するにしたがい、動物性タンパク質の分け前が減って栄養的に偏りが出たため、体がその状況に適応していったと考えられる。戦乱が終わって太平の世となった江戸時代は人口が約1200万人から3000万人を超えるまでになったので、その現象も加速したのだろう。
「江戸時代にはもう一つ、おもしろい特徴があります。ヒトの骨を観察、計測して集団ごとの特徴を区別したり、比較したりするのが私の研究ですが、江戸時代の人骨を調べているうちに、庶民の顔は幅が広く顎もしっかりしているのに、上流階級は顔が細長くて顎の小さな人が多いことがわかったのです」
その原因こそ、食べ物にあるのだと馬場さんは話す。
「江戸時代、庶民はせいぜい1日に一度しか米を炊きません。都市部などでは薪を買うにもお金がかかりますしね。だから、それ以外は冷や飯を食べます。いまのように電子レンジもありませんから、まずこれがかたい。おかずもメザシやタクアンなどが多く、全体的にかたいものを食べていたんです。これが上流階級になると毎食米を炊くし、おかずも焼いた魚の切り身などやわらかいものを食べていた。咀嚼する力がさほど必要ありませんから、顎が発達せず、華奢で細長い顔になったと考えられます」
かたいものを食べていた縄文人は顎がしっかりしていた。咀嚼の力が違うだけでそこまではっきりと骨格が変わってしまうものなのか。しかも、江戸時代のこの現象は“美の概念”にも影響をおよぼしたという。2007年に馬場さんが国立科学博物館の坂上和弘研究主幹と一緒に行った、東京・上野の寛永寺にある徳川将軍家の墓の遺骨の学術調査は、それをよく表していた。
美女も変わる
江戸時代前期は、将軍の正室はたいてい顔が細長く顎が小さかったが、側室は顎がしっかりした庶民顔だった。正室は皇族や公家から輿入れをしているが、側室には庶民出身の大奥女官から選ばれていたからだ。しかし、これが江戸時代後期になると正室も側室もみな細長い顔をしているのだという。
「京都から輿入れした正室の顔が細長いことから、美女の顔はそういうものだという概念が世の中に浸透したのです。さらに、平安時代以降、北方アジア人的な一重で細い目が良いとされる伝統が続いていました。浮世絵に描かれた瓜実顔で目の細い“美女”はその象徴でしょう。そうやって生まれた紋切り型の美の概念のもとで、野心を持った連中が将軍の側室にするために面長な女性を大奥へと送り込んだと考えられます」
12代将軍家慶の側室で、13代将軍家定の生母である本寿院などはその典型で、遺骨を調べると、まさに細長い顔をしていたという。現代も、雑誌やテレビに登場する女優やモデルが美のイメージをつくる。美への捉え方は違っても、世間の流行に左右されるのはいつの時代も同じだ。
病気を生む顔とは
なお、縄文人と同様に、大奥の女性の骨についても米田さんたちは食べていた食物を調べた。基本的に江戸時代の庶民と同じで、米と魚介類を食べる伝統的なものだが、魚介類の比率が高かったとのことだ。
「必要なカロリーと必須アミノ酸、ビタミンがあれば、何を食べていても、骨格そのものには大きな変化はありません。ただ、顔は食べ物の影響を強く受けます。そして、食べ物による顔の変化こそが、現代のさまざまな病気を生み出している原因のひとつと言えるのです」
美の概念だけでなく、健康にも影響を与えるとは恐るべし。いったい、病気を生み出す顔とはどういうものなのか。私の顔はどうなのか慌てて聞くと、とりあえず大丈夫らしいが……。明治以降の顔や体つきの変化を追いながら詳しく伺っていこう。
つづく
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