西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

参議院選挙の結果と動きについて

2010-07-14 | 時論、雑感
色々なことをじっくり見ていく必要があるが、まあ手始めに比例区の投票数などに注目すると、3年前に比べ民主が1845万票で480万票減、自民が1407万票で247万票減、公明は764万票で13万票減、共産は356万票で84万票減、国民は100万票で27万票減、社民は224万票で39万票減、改革とたちあがれは、各120万票前後、みんなの党は793万票で民主、自民が減った分を「とり込んだ」形となる。

今回、選挙に入るときに民主の菅代表(総理)が、「消費税」増の議論を始めたい、目安は自民党の言っている10%と言い、みんなの党、社民党、共産党が明確に反対と言ったけれども、その点で民主や自民に反対の保守層が社民や共産にいかず、みんなの党にいったという構図である。民主支持の左派はどうしたのだろうか。社民や共産に流れた気配は少ない。
消費税に最も反対した共産党が票を減らしたのをみると、国民が、これに最も敏感に反応したとは言いにくい。

今日の『朝日』の世論調査では(まあ、この手の「調査」は世論誘導であまり信用していないが)、消費税に反対が54パーセントで過半数、賛成が35パーセントで少数派、しかし、その議論を進めた方が良いが63パーセントで進めない方が良いが29パーセント、まあ「消費税以外の所得税や法人税も含めて議論」ということだろうか。菅内閣の不支持率が支持率を10パーセントほどうわまわっているし、民主党を中心の政権が続いたほうが良いがそうはおもわないを10パーセントほど下回っているにもかかわらず、自民党に政権を「戻せ」という人は17パーセントにすぎず64パーセントは「そうは思わない」と答えている。

これらをどう考えたら良いのか。やはり昨年の総選挙で自公政権はノーと言われた底流は続いているとみるべきか。あの時に民主党が「マニフェスト」などで言っていた、国民生活が第一、コンクリートより人へ、子どもは社会が育てる、後期高齢者保険は廃止する、労働者派遣法は改正する、環境や福祉で雇用も生みだす、普天間は国外か県外、などなどを愚直に実行すれば、社民も「戻る」し、共産も「建設的野党」に戻るのではないか。

安易に過半数狙いで「みんなの党」にすり寄るのは危ない。公務員いじめをやり、民意を一番反映する比例代表制も含め議員定数を減らし、市場原理主義の小泉・竹中流に戻る危険があるのではないか。個人的には、「けいはんな学研都市」の「わたしのしごと館」の廃止を先導した渡辺代表の言い方は「耳障り」である。
 今日のテレビの「アンカー」(8ch.)で評論家の青山さんと前原国交相の意見を聞いていると、前原さんは、「みんなの党」+自民党からの一本釣りで参議院過半数確保もありうる、という。実は「みんなの党」だけでは参議院で過半数にならないのだ。前原さんも民主党は「去年の」初心に帰って努力しないと次の総選挙は「危ない」と自覚している。青山さんは、実は今までマスコミでは「隠れている」けど、公明党が「連立」すれば参議院で一発過半数という。橋渡しキーマンは小沢さんと言う。政策では、公明党は、自民党よりは、民主党に「近い」という。その場合、公明党は菅さんが替わるという条件で、と言うはずだ、とのこと。そう言えば、選挙戦で、公明党は、民主党に対し「レッドカード」と言わずに、菅総理に対し「レッドカード」と言っていたっけ。これでは、菅さんは「飲めまい」。

 また国民新党は社民党と「合同会派」結成に動き出した。複雑な「権謀術策」だ。

 まあ9月まであれこれあろうが、まあ、じっくり見ていきたい。

コミュニティの演奏会を楽しむ

2010-07-12 | 地域居住学
昨日の日曜日、参院選挙の投票を済ませてから午後に生駒市北コミュニティセンターの「はばたき小ホール」で行われた第四回ヴァイオリンリサイタルに行った。生駒市に住むヴァイオリニスト齋藤 清さんの年に一回のリサイタルである。伴奏ピアノは中井香菜子さんだった。

私は京都府相楽郡に住んでいるが、生駒市は近所の町で「関西文化学術都市」を一緒に構成している。(構成市町は奈良は奈良市、生駒市、京都は精華町、木津川市、京田辺市、大阪は四条畷市、交野市、枚方市である)

前にもどこかで書いたと思うけれど、私たちはこの「けいはんな学研都市」で「すみよいけいはんな学研都市を考える会」、「地域SNSけいはんな」そして「けいはんな市民雑学大学」をボランティア的にしている。で、その「地域SNSけいはんな」でも齋藤 清さんとつい最近知り合いになったので行く気になったのだ。もちろんプログラムも気になった。

この生駒市北コミュニティセンターは、名前の通り生駒市の北部のコミュニティセンターといえよう。私は近鉄で富雄まで行き、南のバス停2番乗り場からバスに乗り富雄川沿いに北に遡る。途中、左岸から橋を渡って右岸を更に遡り、真弓橋で下りると、そこが生駒市北コミュニティセンターだ。昨日は参院選挙の投票場にもなっていた。リサイタルが行われた小ホールのほか、(大)ホールもあり、図書館も併設している。洋室や和室の集会室も多数ある3階建てで、デザインは農家の屋根をかたどった屋根としている。富雄川は北から南に流れ下って、やがて佐保川に合流し大和川経由で大阪湾に至るのであろうか。

昔、この上流の丘陵(生駒市)に新設された奈良先端科学技術大学院大学の学長だった山田康之先生から『富雄川の水絶えず』と題したエッセイ集を頂いたことがあるので、富雄川が頭に残っていたが、実際に遡るのは2回目で、回りに注意したのは初めてで、初めて遡ったときはこのコミュニティセンターにも気づかなかった。

さて、リサイタルは、午後14時半開場、15時開演、前半は15時45分ころまで、15分休憩で後半はアンコールも含め16時半過ぎまであった。

演奏は、斉藤さんの解説付きで行われたので、それらを参考にしつつ、私流に頭の中で歴史的「位置づけ」を行いつつ聞いているのに後で気づいた。

今回のリサイタルの曲目の作曲家は、順にエルガー、モーツアルト、ドヴォルザーク、ベートーベン(アンコールはブラームス)で、ベートーベンのみ前半と後半に一曲づつ入っており、まあ斉藤さんはベートーベンを軸に構成したのかな、と思った。

まあ全体の時代的展開では、作曲や演奏が教会や王侯貴族のために行われた時代から市民階級(ブルジョワ)も楽しむ時代に入るモーツアルトの時代から始まって、ベートーベン時代を経て、ブラームス、ドヴォルザーク、エルガー時代に至るという構成になっていた。

最も「新しい」エルガーの「愛の挨拶」は良く聞く曲で、ここで「ああ、あれあれ」と聴衆は安心し中に入っていける。次がモーツアルトの「ヴァイオリンソナタの32番」で、斉藤さんによるとモーツアルトがザルツブルグの教会お抱え作曲家の立場を脱して、自由なウイーンに出てきて最初の曲と言う。(1781年作曲)長調で明るい感じがする。この曲の途中で、斉藤さんがヴァイオリンの弓の付け根のつまみを回すのを目撃した。ああ、これは「雨が降って湿度が上がったので、弓を途中で調節し、張ったのかな」と思ったが・・・。

その次がドヴォルザークの「4つのロマンティックな小品 作品75」プログラム説明によると1887年作曲、ヴァイオリン2本とヴィオラによる弦楽三重奏のための「ミニアテュール」からの改作らしい。ドヴォルザークを「発掘」したブラームスが評価したと斉藤さんは言う。

前半の最後がベートーベンの「ロマンス へ長調 作品50」だった。説明によると「1798年、難聴が徐々に悪化、絶望の時期に作曲。1802年に「ハイリゲンシュタットの遺書」を記し自殺を考えるが、その危機を乗り越え、「傑作の森」(注:斉藤さんによるとロマン・ローランの言)と後に呼ばれる時期に入る。」とある。斉藤さんは、明るい感じの中にも「苦しい気持ち」が「通奏低音(つうそうていおん)」のように流れている、と言う。伴奏の中井さんの演奏にもそれを感じた。

ここで、15分間の休憩に入る。見渡すと「地域SNSけいはんな」の仲間が4人ほど見受けて挨拶した。後で聞くと斉藤さんの紹介で伴奏ピアノの中井さんも「地域SNSけいはんな」に入っているようだ。全体の聴衆は200人ほどか。比較的高齢者が多いが若い人もいる。車椅子の招待者二人も最前列で鑑賞していた。

ロビーで斉藤さんにあったので挨拶した。斉藤さんと同じ住宅地にすむ「地域SNSけいはんな」の仲間(男性)とその奥さんとも一緒に立ち話をした。斉藤さんによると、後半のベートーベンの「ヴァイオリンソナタ 第9番「クロイツエル」」は、ヴァイオリンソナタと言いつつ、初演では当時の名ピアニストのベートーベン自身が弾くことを考え作曲、ピアノの難しさはヴァイオリン以上だ、とのことだ。

実際の三楽章を聴いて「そうなんだ」と思った。「1803年の作曲。ブリッジタワーというポーランドのヴァイオリニストのために作曲しベートーベン自身のピアノ伴奏で初演。直後、ブリッジタワーと仲違いし、フランスの大ヴァイオリニストであるルドルフ・クロイツエルに献呈されたが、クロイツエルは、作品が気に入らず、演奏したことがなかったと言う。」

ブリッジタワーもクロイツエルも「気に入らなかった」のは、ヴァイオリンソナタと言いつつ、伴奏のピアノが「主役」のようになっていたからかもしれない、と思った。第二楽章、第三楽章のピッチカートも良かった。

エルガーの「愛の挨拶」は婚約相手に、ベートーベンの「クロイツエル」は音楽仲間に「献呈」という形で作曲し、それを演奏して市民が楽しむ時代に入ってきたのだ。

今や、地域の住民が、地域プロでもある音楽家の演奏を楽しむ時代なのかな、と思った。(齋藤 清さんの本職は、関西フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリン奏者)

いい気分で16時半頃に生駒北コミュニティセンターを後にした。

金沢学園幼稚園(曹洞宗寺院の経営)の思い出

2010-07-09 | 金沢の思い出
私は、1年間だけ幼稚園に通った。昭和22年~23年(1947~1948)である。金沢市寺町三丁目の金沢学園幼稚園で、曹洞宗寺院の経営だった。園長先生は、堀 信元と言い、我々が卒園した後、昭和24年(1949年)9月に亡くなられた。

私が通園した1年の間に、昭和天皇が全国行脚の一環で金沢にも来られて平和町の亮生塾(戦争などのため身寄りがなくなった子ども達の施設)を訪れる途中に、我々の幼稚園の前も通過されたので、「日の丸」を打ち振らされた記憶がある。米軍ジープが先導していた。

又、入園当初、4月に「甘茶祭」で釈迦像に甘茶をかけた記憶もある。

更に友達の小杉一夫君に積み木をぶつけて、えらい叱られた記憶もある。

鉄棒をこわごわ渡った記憶もある。

我々は第17回修了生で117名もいた、と後で聞いた。卒園写真では、私だけがネクタイをしており、「恥ずかしくて」隠そうとしている感じである。懐かしい幼年時代である。

蓄音器と床の間

2010-07-08 | 金沢の思い出
1分間78回転のSP盤レコードをかける蓄音器が、私の子ども時代(1941年~1960年頃)、金沢の生家にあった。それは、二階の12畳間の座敷の床の間に「鎮座」していた。

それは、ラッパが付いている型ではなく「ボックス型」と言おうか、前面の「扉」を開けると、そこから音が出てくるタイプで、子どもの私は「不思議」で、この奥に「誰か潜んでいるのでは・・・」と何度も思った。ゼンマイ仕掛けで手動ハンドルでゼンマイを巻いた。

レコードも持ち運び出来る収納箱にぎっしり入っていて、歌、音楽というより祖父が好んでいた浪曲などの盤も沢山あったと記憶している。残念ながら、この蓄音器は妹夫婦が家を建て直す時に捨てたか「古道具屋」に売り払って今はない。

ところで、夕べ「うつらうつら」ラジオ深夜便を聞いていたら、金沢蓄音器館の館長の八日市屋 典之さん(昭和26年生)がインタビューに応じていた。調べてみると、金沢市尾張町にあって来年で設立十周年と言う。知らなかった。今度行ったとき立ち寄って、私の家にあった型もあるかどうか調べてみたい。

私の生家の場合、音楽を聞く器械というより「床の間の調度品」という感じであった。

金沢蓄音器館:http://www.kanazawa-museum.jp/chikuonki/index.htm

「頭」のつくりかえの楽しみ 2英文パラグラフに学ぶ

2010-07-07 | 色々な仮説や疑問
前に、「頭」のつくりかえの楽しみとして、「一元的世界史認識」の楽しみをあげた。

http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/533d439fc503e2d866bc468a00bd8c15

今日は「英文パラグラフに学ぶ」という「頭」のつくりかえについて述べてみたい。
といっても、このスタートは残念ながら私の独創ではない。前の「一元的世界史認識」が、東洋史学者・宮崎市定の著書によったように、「英文パラグラフ」に学んで日本語の文章を高めるヒントを得たのは英文学者の外山滋比古さん(お茶の水女子大名誉教授、東京文理大・文・昭和22年卆)の書きものによる。例の『思考の整理学』の著者である。

英語、英文がどっと日本に入ってきたのは明治時代だが、「文明の流入」とは、巨大な名詞群の流入だ、と井上ひさしさんも言っているが、恐らくそうで当時、名詞を中心に今までの日本人には知らない言葉や考え方がどっと入ってきたのだ。それを日本語に移し変える作業が明治初期インテリの役割の一つだった。哲学、経済などという翻訳日本語も生まれ、漢字の母国・中国にも「輸出」されたのである。

単語ワードの次に文章、センテンスだが、英文と日本文では、名詞、動詞等の語順が違うので意味をとるのに苦労した。しかし、それも英文法を研究して何とかものにしてきた。

ところが、その次の文章の一つの塊としての「パラグラフ」についての理解が十分に進まず現在に至っている、と外山さんは言う。「そもそも伝統的日本語文には意識的なパラグラフはないのでは・・・」とも言う。源氏物語などの小説もそうで、そういう何となく続きつながっていく文章は日本人には読みやすく、普通の日本人にとって一番の人気文は今でも小説である、と言う。論文や翻訳は「分かりにくく読みにくい文章」らしい。そうなのかなーと一寸考えてみたい。

翻訳文が読みにくいのも逐語訳でパラグラフの意味をとって訳していないからだとのことだ。英文学者の外山さんによると、パラグラフは大きく三つの部分に分かれ、最初に抽象的なそのパラグラフの結論が出てくる。時制は現在形が主。次に、過去形で具体的事例が現れる。(頭に来る抽象的結論は、今までの具体的事象の帰納から導かれる場合が多い。)そして最後に、簡潔に再度結論を言って、次のパラグラフにつなげる。

こういうパラグラフの構造と意味を理解した後でセンテンスやワードを見返すと誤訳にならない、とのことだ。うーん、私もパトリック・ゲデスの『進化する都市』を編訳したことがあるが、もう一度見直してみたい気分になる。

外山さんは、何も英文のパラグラフの構造をそのまま日本語に移入せよ、と言っているわけではない。結構長い日本文を理解しやすく面白くするには、エッセイを盛んにするのが良いのでは、と言う。ここに言うエッセイとは日本語の「随筆」とも少し違う気もする。むしろ「評論」に近い気がする。

私が意味を取って「引用」した外山さんの発言は、『学士会会報』883号(最新号)に載っていた「知識と思考」(2010年3月23日の学士会午餐会講演)による。

米飯と味噌汁の学習

2010-07-05 | 教育論・研究論
53回家庭科教育学会で、「家庭科を中核とする食育プログラムの開発ー米飯と味噌汁の学習を中心にしてー」をたまたま聞いた。佐倉市南志津小学校の児玉喜久子先生の報告だ。千葉大学(教育学部)の石井克枝先生との共同研究である。

で、改めて小学校は、多くの科目を一人の担任の先生が担当する、そこで「総合的教育」が担任の先生の心がけ次第で可能になる、と分かった。我々の60年ほど前でもそうだったな、と思い起こした。

児玉先生は、5年生を対象として家庭科を中心におくのだが、他に「総合的な学習」時間で米作り、「理科」における大豆の生長観察、「学級活動」での味噌作りを関連させ、「家庭科」を含め10時間のプログラム実践を説明された。

私も最近毎朝、朝食作りをしていて米飯、味噌汁、納豆を中核に食べているので、思わず身を乗り出した。

米を作ったら脱穀なども実践し、玄米を精米する、糠も出てくる。ところが調理(米飯炊き)では、精米された白米だけ炊いているのだ。発表が終わって私は「ハイ」と手を挙げ質問した(というか、意見を言った)。「せっかく米作りをし玄米から白米に精米しているのだから、玄米についても栄養価、炊き方、食べ方などを教え実践させたらどうなのか」と。

答えは、時間の配分上難しかった、今後の課題である、と言われた。期待したい。

味噌作りも行い、味噌汁の出汁として煮干も使っているのは良いな、と思った。最近は、顆粒出汁が主流と言う。あれは、「素材が細かく粉砕され紙袋に入れられているものだが、空気に触れて素材が酸化している」と思われる。

こういう調理実習を中心に、「上流」(農業や漁業の実態)や「下流」(捨てられる現実)の学習も進めれば、複眼的・総合的視点をもった国民が成長することになるだろう。

朝食は、パン食よりやはり米飯と味噌汁と一品(まとめて一汁一菜)だな、と思う。だって、我々、日本人なのだから。

この発表で午前の部が終わったので廊下に出た。司会していた佐々木貴子先生(北海道教育大学)が「(先生は)朝食作っておられるのですか」と聞かれた。「はい、玄米飯、味噌汁、納豆です」と言うと「関西の人でも納豆食べるのですね」と言われた。

説明すると、ややこしいので、「えー」と答えたが、私は子どもの金沢時代から食べつけているのである。

「高気密、高断熱」「メンテナンスフリー」住宅をどう教えるか

2010-07-05 | 住まい・建築と庭
今回、家庭科教育学会に初めて行き、教育大学や大学の教育学部系統に就職している奈良女子大学家政学部卒業生に何人もあった。懇親会で、住居学科出身のOさんから「最近、高気密高断熱住宅やメンテナンスフリー(維持管理不要)住宅を教えるように言われるが、これって本当にいいのでしょうか?」と聞かれた。

「うーん」である。住宅メーカーは、それらも主な目標にして住宅造りをしているかもしれないが、環境重視、参加重視の視点からは、かなり疑問である。

私は、「まあ中気密中断熱で十分、あとは窓の開け閉めと衣服で調節が良い。住民自身によるメンテナンスは短期的中期的長期的に大切」と言っておいた。時間をつくってじっくり話す必要も感じた。「まあもう辞められた磯田則夫先生や(疋田洋子先生)にも一度聞いてみてください」と言っておいた。磯田先生、疋田先生、宜しくね。

「問題の出し方」井上ひさし著『ふふふ』より

2010-07-04 | 教育論・研究論
『ふふふ』というのは一種の「含み笑い」である。笑いは「は行」である。「ハハハ」「ヒヒヒ」「へへへ」「ホホホ」とこの「ふふふ」である。面白い井上ひさし著の短編エッセイ集である。

その中に「問題の出し方」という外国での大学入試問題の話が先ず面白かった。アメリカとフランスでの話しだ。アメリカで出された問題例:「ここにあなたの一生を書き綴った一冊の伝記があって、その総ページ数は300頁である。さて、その270頁にはどんなことが書いてあるだろうか。その270頁を書きなさい」

もう一つフランスの例:「夜更けにセーヌ川の岸を通りかかった君は、一人の娼婦がいままさに川へ飛び込もうとするところに出会う。さて、君は言葉だけで彼女の投身自殺を止めることができるだろうか。彼女に死を思い止まらせ、ふたたびこの世界で生きて行く元気を与えるよう試みよ」

ちなみにフランスでの問題に対し「「『わたしと結婚してください』と説得するしかありません」と書いてめでたく合格したアンドレ・マルローという生徒がいた。彼はのちに『王道』や『人間の条件』などの小説を書き、やがて文化相にもなった。」(32頁)

大変ユニークな生徒は最後までユニークであった。ふふふ

日本家庭科教育学会53回大会に初参加

2010-07-04 | 教育論・研究論
昨日、今日と京都の「京都テルサ」(近鉄東寺から東に行き南に下る)で行われた日本家庭科教育学会53回大会(総会と研究発表会)に初めて参加した。

ほぼ2年前(2008年8月18日)に同学会の関西支部で私が「住まいを基本舞台として家庭生活を総合的に考える」といった講演をしたのが「縁」で、同名の研究会が関西支部12名の参加で立ち上がり、今日の発表にこぎつけたためだ。

発表は二編に分けて行われた。一編は、理念・構想編で、もう一編は、それを基にした小学校家庭科での実践報告だった。私は、「研究助言協力者」として全体の研究会と主に「理念・構想研究会」に参加してきた。

スタートとなった私の過去ブログより:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/cdd1228565b2fcbdd005210d7206eb7b

まあ、家庭科の衣食住、家族、生活経営等で、総合する軸となりうるのは、住居と共に家族や生活経営(消費生活)であろう。衣服や食物で全体をまとめるのは少し難しい。で、他の出演者が演技できる「基本舞台」は、文字通り「住居舞台」ではないのか。

住居の上で衣生活や食生活、更に家族生活、消費生活全体が行われているのである。家庭科の時間が徐々に少なくなる「圧力」の下、「縦割り」で細々と主張するより、何処か、何かを軸に総合化の力を魅力的にし、跳ね返していく必要があるのではないか。




税のこと

2010-07-02 | 時論、雑感
菅さんが、消費税について、自民党提案の10パーセントを参考に選挙後に超党派で議論したいと言ったので、俄然、消費税問題が争点になってきた。

消費税について、(1)社会保障に限るべし、(2)財政再建の財源にも、というのが民主党、自民党の意見のようだ。他に、実は(3)これは法人税引き下げの穴埋めに使われるのでは、という疑問を呈しているのが共産党のようだ。

社会保障に限るべし、は自民党、経団連が言っているので、我々庶民としては「嘘くさい」と思う。財政再建説は、菅さん自身が、放っておくとギリシャみたいになりまっせ、と国民を脅している。実はギリシャでは法人税を下げて消費税を上げた結果(+国債の海外売り)が今度の財政危機なのだ。

菅さんはギリシャみたいになりまっせ、と言うが正にそうなるような政策が消費税アップなのだ。国民から反発を喰らって「低所得の、まあ年収300万円とか400万円の世帯には消費税の還付をしたい」とも言っている。消費税の逆進性(低所得者ほどキツイ)を認めたことになる。で、そのことは一応おいておいて仮に還付業務をするとしたらどうなるか。色々受け
付けたり還付額を推計したり実際に還付するのは並大抵ではない。

ということは、国税庁役人を大幅に増加、ということになり、これこそ国家公務員のスリム化に逆行し、財務省の「思うつぼ」になる。「財務省役人は馬鹿だ」と言っていた菅さん自身、結局は財務省役人の手の平で踊っていることになるのだ。

私は、かって真っ当な税政策案を言ったことがある。今年の2月ころのブログだ。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/68d671d7fa942ebe1c158d875f7a4186

他に消費税収入をとんでもないことに使おうと言う目論見(仮説)もあるようだ。
天木直人さんのブログだ。
http://www.amakiblog.com/archives/2010/06/27/

皆さん、騙されてはならない。


ブレーメンの音楽隊、夏目漱石の病跡学的分析

2010-07-01 | 色々な仮説や疑問
一二日前、病跡学(びょうせきがく)の話をした。http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/9a5b67fa84e1241078802d64554b7d3a

で、夕べは二回分いっぺんに放送された。一昨日は、ワールドカップ日本対パラグアイの実況のため一回飛んだためである。

「ブレーメンの音楽隊」のことについて・・・グリム童話、齢(とし)をとって重い荷物を運べなくなったロバは、何をしようか考えてブレーメンに行って音楽隊に入ろうと考える。これなら力仕事でないから出来るのでは、と考えたのでは、と言う。道で寝ている犬に会う、「どうしたの」と聞くと、「齢で俊敏さを失って獲物を追いかけられなくなり「お払い箱」」とのこと、じゃーとブレーメンに行き音楽隊に入らないか、と誘う。次に猫に会う、「鼠を取れなくなり「お払い箱」」、じゃーとブレーメン行きの仲間に誘う。最後に悲しげに鳴いている鶏に会う、「明日スープになるんだよ」と言う。鶏もブレーメン行きを誘う。

夜になり森で寝ようとすると近くに灯りのついて賑やかな声のする家がある。行ってみると、泥棒たちが美味しそうな食べ物を前に金貨の山分けをしている。そこで四匹の動物達は大きな声を出して泥棒たちを追い出して、美味しいご馳走と住みやすい家にありつく。結局、ブレーメンに行かずに、そこで楽しく過ごしたとさ。チャンチャン。

「これって最近の人間の高齢者問題解決にピッタリの話ではないか」と筑波大学教授・精神科医 高橋正雄さんは言う。第一の仕事をやめると、次は全然別の仕事に取り掛かろうとする。でも途中で、(年金だけでも良いとして、かな)一つ屋根の下で共同生活に入る・・・。モデルになる。

次に、夏目漱石の病跡的分析だ。夏目漱石は、江戸末期に生まれ明治を生き抜いた人物、二十歳台、三十歳台、四十歳台それぞれの後期に神経症に陥っている、それが作品の中に現れていると言う。主人公は決まって背が高く痩せ型らしい、クレッチマーが「体格と性格」の関連付けを発見する前に夏目漱石は、痩せ型の神経質に気づいていたと言う。また、そういう人物に優しく接して治療の方向も示唆していた、とのこと。高橋さんは、漱石は偉大な病跡学者の「はしり」ではなかったか、と言う。

今度、そういう目で漱石を読んでみよう。