前に、「頭」のつくりかえの楽しみとして、「一元的世界史認識」の楽しみをあげた。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/533d439fc503e2d866bc468a00bd8c15
今日は「英文パラグラフに学ぶ」という「頭」のつくりかえについて述べてみたい。
といっても、このスタートは残念ながら私の独創ではない。前の「一元的世界史認識」が、東洋史学者・宮崎市定の著書によったように、「英文パラグラフ」に学んで日本語の文章を高めるヒントを得たのは英文学者の外山滋比古さん(お茶の水女子大名誉教授、東京文理大・文・昭和22年卆)の書きものによる。例の『思考の整理学』の著者である。
英語、英文がどっと日本に入ってきたのは明治時代だが、「文明の流入」とは、巨大な名詞群の流入だ、と井上ひさしさんも言っているが、恐らくそうで当時、名詞を中心に今までの日本人には知らない言葉や考え方がどっと入ってきたのだ。それを日本語に移し変える作業が明治初期インテリの役割の一つだった。哲学、経済などという翻訳日本語も生まれ、漢字の母国・中国にも「輸出」されたのである。
単語ワードの次に文章、センテンスだが、英文と日本文では、名詞、動詞等の語順が違うので意味をとるのに苦労した。しかし、それも英文法を研究して何とかものにしてきた。
ところが、その次の文章の一つの塊としての「パラグラフ」についての理解が十分に進まず現在に至っている、と外山さんは言う。「そもそも伝統的日本語文には意識的なパラグラフはないのでは・・・」とも言う。源氏物語などの小説もそうで、そういう何となく続きつながっていく文章は日本人には読みやすく、普通の日本人にとって一番の人気文は今でも小説である、と言う。論文や翻訳は「分かりにくく読みにくい文章」らしい。そうなのかなーと一寸考えてみたい。
翻訳文が読みにくいのも逐語訳でパラグラフの意味をとって訳していないからだとのことだ。英文学者の外山さんによると、パラグラフは大きく三つの部分に分かれ、最初に抽象的なそのパラグラフの結論が出てくる。時制は現在形が主。次に、過去形で具体的事例が現れる。(頭に来る抽象的結論は、今までの具体的事象の帰納から導かれる場合が多い。)そして最後に、簡潔に再度結論を言って、次のパラグラフにつなげる。
こういうパラグラフの構造と意味を理解した後でセンテンスやワードを見返すと誤訳にならない、とのことだ。うーん、私もパトリック・ゲデスの『進化する都市』を編訳したことがあるが、もう一度見直してみたい気分になる。
外山さんは、何も英文のパラグラフの構造をそのまま日本語に移入せよ、と言っているわけではない。結構長い日本文を理解しやすく面白くするには、エッセイを盛んにするのが良いのでは、と言う。ここに言うエッセイとは日本語の「随筆」とも少し違う気もする。むしろ「評論」に近い気がする。
私が意味を取って「引用」した外山さんの発言は、『学士会会報』883号(最新号)に載っていた「知識と思考」(2010年3月23日の学士会午餐会講演)による。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/533d439fc503e2d866bc468a00bd8c15
今日は「英文パラグラフに学ぶ」という「頭」のつくりかえについて述べてみたい。
といっても、このスタートは残念ながら私の独創ではない。前の「一元的世界史認識」が、東洋史学者・宮崎市定の著書によったように、「英文パラグラフ」に学んで日本語の文章を高めるヒントを得たのは英文学者の外山滋比古さん(お茶の水女子大名誉教授、東京文理大・文・昭和22年卆)の書きものによる。例の『思考の整理学』の著者である。
英語、英文がどっと日本に入ってきたのは明治時代だが、「文明の流入」とは、巨大な名詞群の流入だ、と井上ひさしさんも言っているが、恐らくそうで当時、名詞を中心に今までの日本人には知らない言葉や考え方がどっと入ってきたのだ。それを日本語に移し変える作業が明治初期インテリの役割の一つだった。哲学、経済などという翻訳日本語も生まれ、漢字の母国・中国にも「輸出」されたのである。
単語ワードの次に文章、センテンスだが、英文と日本文では、名詞、動詞等の語順が違うので意味をとるのに苦労した。しかし、それも英文法を研究して何とかものにしてきた。
ところが、その次の文章の一つの塊としての「パラグラフ」についての理解が十分に進まず現在に至っている、と外山さんは言う。「そもそも伝統的日本語文には意識的なパラグラフはないのでは・・・」とも言う。源氏物語などの小説もそうで、そういう何となく続きつながっていく文章は日本人には読みやすく、普通の日本人にとって一番の人気文は今でも小説である、と言う。論文や翻訳は「分かりにくく読みにくい文章」らしい。そうなのかなーと一寸考えてみたい。
翻訳文が読みにくいのも逐語訳でパラグラフの意味をとって訳していないからだとのことだ。英文学者の外山さんによると、パラグラフは大きく三つの部分に分かれ、最初に抽象的なそのパラグラフの結論が出てくる。時制は現在形が主。次に、過去形で具体的事例が現れる。(頭に来る抽象的結論は、今までの具体的事象の帰納から導かれる場合が多い。)そして最後に、簡潔に再度結論を言って、次のパラグラフにつなげる。
こういうパラグラフの構造と意味を理解した後でセンテンスやワードを見返すと誤訳にならない、とのことだ。うーん、私もパトリック・ゲデスの『進化する都市』を編訳したことがあるが、もう一度見直してみたい気分になる。
外山さんは、何も英文のパラグラフの構造をそのまま日本語に移入せよ、と言っているわけではない。結構長い日本文を理解しやすく面白くするには、エッセイを盛んにするのが良いのでは、と言う。ここに言うエッセイとは日本語の「随筆」とも少し違う気もする。むしろ「評論」に近い気がする。
私が意味を取って「引用」した外山さんの発言は、『学士会会報』883号(最新号)に載っていた「知識と思考」(2010年3月23日の学士会午餐会講演)による。