西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ノルウエー報告(17)音楽家グリークの家-2最後に住んだ家

2005-09-27 | 訪問場所・調査地
グリーク博物館に行った次にグリークが最後に住んだ家に行った。下見板張り風の木造である。その入り口(玄関)から入った瞬間、ここに来たのは初めてなのであるが、前に一度来たことがある感じがした。それを玄関で思い出して考えてみると、私は前にシベリウスの家に行ったことがあるが、それにそっくりだ、ということだ。フィンランドのシベリウスの家はヘルシンキから鉄道に乗って行くヤルベンパという所にある。奥さんのアイノーラに因んで、その家は「アイノーラ」と呼ばれていた。グリークの家とシベリウスの家の共通点は内装が木造で台所、食堂、居間が一階に同じような配置であることだ。それと私が最も注目していたピアノも置いてある居間の窓からの風景は、緑を中心とした「自然」そのものということだ。(この項「窓からの眺望」にも入れる)
グリークはシベリウスの先輩である。ひょっとしてシベリウスはグリークのこの家のことを知っていて、そのコンセプトに共鳴し同じような住まいを造ったのではないか、という仮説が頭をよぎった。機会があればきちんと実証してみたい。

ノルウエー報告(16)音楽家グリークの家-1全体像

2005-09-27 | 訪問場所・調査地
北欧の生んだ音楽家(作曲家)と言えば、フィンランドのシベリウスとノルウエーのグリークではなかろうか。ノルウエー訪問報告の最後に、グリークで、「美しい調べ」で締めくくりたい。グリークは「ペールギュント」やピアノ協奏曲で有名である。そのグリークはベルゲンに生まれベルゲンで亡くなった。その最後を過ごした家を安達夫妻に案内されて訪問した。ベルゲンの南方にあり、ベルゲン市中から歩いては一寸行けない。安達夫人の運転で自動車で行った。どうも安達さん(旦那)は私と同じ(世代)で運転免許を取らなかったようだ。
現在グリークの家の横に博物館と演奏場があり、更に一寸海の方に下りた所に仕事場、海に船着場があり、さらに海に臨む崖の中ほどにグリーク夫妻の墓が埋め込まれている。普通の人は、博物館と家は行くが、後の所に行く人は少ないとのことだった。私達には安達夫妻という格好の水先案内人がいたので全部、解説付きで見ることが出来た。最初に博物館でざっとグリークの生い立ちなどを知った。グリークはライプチッヒの音楽学校を出ている。その後、肺結核にかかるが左の肺切除で生き延びた。安達さんの解説では、日本の滝廉太郎も同じライプチッヒ音楽学校出だが彼は肺結核で亡くなったと言う。

ロンドン報告(19)コベントガーデン散歩

2005-09-27 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
ケンブリッジからの帰り、夕食はコベントガーデン周辺で食べようとなり、キングスクロス駅から地下鉄で行った。一つ前のレスター・スクエアで降りて歩いた。地下鉄には「コベントガーデンに行かれるなら混雑しますので一つ手前のレスタースクエアかホルボーンで降りて歩いて下さい。すぐです。」といった趣旨の張り紙がしてあった。それ位コベントガーデンは観光スポットとして混んでいるようだ。1983年頃はそれほどでもなかった。まあ近くにロイヤル・オペラハウス、交通博物館、レストラン、各種専門店(中には「無印良品」と日本語で書いたイギリス人経営の店含む)等も多いので「引力」が働くのかもしれない。
中心に昔野菜市場だった建物が残り、色々な店が入っている。PUNCH&JUDYという名のパブもまだあったが入らなかった。LSEからも歩いて近いので昔はよく入ったものだ。「市場」と教会の間の空地は大道芸の披露場だ。昔、Na.さんの息子さんも「出演」したようだ。結局、当日はNa. さんの見立てで近くのインド料理の店に入ることになった。

ロンドン報告(18)ケンブリッジ散歩

2005-09-27 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
コミュニティ・フォレストについての聞き取りは、別にして終わった後、せっかくだからとケンブリッジを歩いた。ケンブリッジ大学各カレッジが集中している「中央地域」まで駅前からバスに乗った。メインのキングスカレッジ前から北に歩いてケム川まで来た。ケンブリッジとは、ケム川にかかる橋(ブリッジ)であり、そういう所から町が発展した訳だ。一方のオックスフォード大学のOxfordの語源は、OXの渡れるford(浅瀬)である。Na.さんが「現在、(洒落か)実際にオックスフォード大学ではOX(牡牛)を飼っているようですね」と言うものだから、すかさず私は「COW(牝牛)を飼うという訳ではないのですね」と言ってしまった。(「言語遊戯」にも入れる)
昔、来たときにケム川の対岸からキングスカレッジの美しい後ろ姿を見た記憶があったので、皆を引っ張って小雨(シャワー)の中、そのケム川沿いに歩くも、中々うまい位置に出れず、結局途中で挫折、トリニティカレッジの中を通り表に出て帰ることにした。まだ夏休みでケンブリッジ大学生はちらほらだが観光客は結構いてテントのバザールも繁盛のようだった。

ロンドン報告(17)コミュニティ・フォレスト-2 列車の窓から

2005-09-27 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
キングス・クロス駅からケンブリッジに至る45分間、列車の窓からイングランドの平原を久しぶりにゆっくり見た。大体は遠くに山が見える日本の風景と違うのをMa.さんも奇異に感じると言っていたが、金沢育ちの私もいつも「不安」に襲われる。昔、中国の旅順高校出身の扇田 信先生は、盆地の京都や奈良は息が詰まる、北海道に行くとほっとする、と言っておられたが、やはり生まれ育ちの環境が原風景なのは仕方あるまい。
ただイングランドには牧草地帯が延々続いているイメージを持っていたが、区画部分に樹木が並び、所々に林も見えた。20数年で樹木も少しは生長したかに思える。一緒に行ったNa.さんが牧草地区画に並ぶ樹木はHedge(ヘッジ)という、と言っていた。私は、それでピンときた。後日行くことになるハムステッド田園郊外では、宅地はHedge(生垣)で区画すべし、と開発企画者のバーネット夫人が言っている。ひょっとして農村地帯に昔からあったヘッジが都市住宅地のヘッジの原型かもしれないと・・。
とにかくHedgeをどんどん作るのが、Hedge-Funndになるのかもしれない。

ニューオルリンズの復興について

2005-09-27 | 地域居住学
この問題については再三「仮説」「時論」で論じたが、「地域居住学」の問題ともとらえて再説する。今日の『京都新聞』の共同通信の記事によれば、「・・ルイジアナ州立大建築学部のマイケル・デズモンド教授は、リタによる降雨で堤防が決壊、再度冠水した(ニューオルリンズ)市東部は「(都市が形成される前の)湿地帯に戻すしかない」と話す。同教授によると、ニューオルリンズ市を囲む湿地帯は木材伐採と石油開発による生態系破壊で保水能力を失い、水害の危険度が高まっていたが「連邦政府はこの問題を長年放置してきた」という。・・」とある。
私も、再三水害の危険のある地域は、戦略的に居住を止めて安全な高台に移住すべき、と思う。ニューヨークの9.11の「グランド0」の再開発でも「これでもか!」と更に超高層を建てるのが今のアメリカなので、又ニューオルリンズでも、仮に水没はピロティ(柱脚)部分のみで上に超高層マンションを建てるようでは、そういうアメリカ人は歴史の教訓を学ばない自然に対して傲慢な人々と世界からみなされても仕方あるまい。

ノルウエー報告(15)ベルゲンの安達邸訪問

2005-09-27 | 訪問場所・調査地
今回のベルゲン滞在が実質1日間だったが多大な収穫があった実感があるのはベルゲン在住の安達正興さん夫妻のおかげである。感謝したい。安達正興さんは、奈良のご出身で私とほぼ同世代、奥さんはノルウエーの方で奈良で知り合われたとのことだ。ベルゲンに住まわれてもう30年ほどになるので、それこそ住人としてノルウエー事情に精通しておられる。ベルゲンの鳥瞰図などの制作にもタッチしベルゲン市とも協力しておられるようだ。他方、辛口のコラムも発信しておられる。そのアドレスを紹介したい。http://homepage2.nifty.com/lite/hard_column.html
奥さんは、長年、小学校の先生だったが、今は病院入院児童の教育にあたっておられる。
我々はグリークの家に行った後、港地区の世界遺産の建物の横の木造建築ロフト・レストランで「ノルウエー家庭料理」をふるまっていただいた。ドイツの影響なのか蒸したジャガイモも美味しかった。その後で、ベルゲン市北方の安達邸を見せていただきお茶を頂いた。安達邸は南向き斜面にあり、窓からベルゲン中心部が望める「最高のリッチな立地」である。今は亡くなられた奥さんのお父さんが、この広大な敷地を手に入れられ今は安達邸と、少し下に奥さんの弟家族の家が建っている。安達邸は2階の木造だが安達夫妻は2階に、1階の半分には90歳を越えられた奥さんのお母さんが住んでおられ、後の半分は安達さんの「アトリエ・作業場」である。私は玄関口から部屋内部に入る時「ドジ」を踏んだ。ヨーロッパだから、と靴のまま上がろうとして安達さんに「靴は脱いでください」と注意された。聞くと安達さん夫妻が日本体験からそうしたと言うより「ノルウエーでは大体靴は脱ぐのですよ」と聞いて「そうなのか」と認識を新たにした。内部では2階のリビング、食堂、キッチンとも広々していて気持ちが良い。リビングの広い窓からベルゲン方面が見渡され「百万クローネの夜景」(1クローネ=約200円)といった感じだった。ここで珈琲を頂き、外にでているお嬢さんや息子さんの話もお聞きした。やはり、「木の国」の木造の家はよいと思った。

愛・地球博終了

2005-09-27 | 時論、雑感
一昨日、半年にわたった愛・地球博は観客目標1500万人を大きく越えて2200万人余を集めて終了した。私は、又、1970年の6500万人余(国民の3人に2人勘定)集めた大阪万博に行かなかった以来、万博に出かけていない「伝統」をまもって(?)今回も行かなかった。勿論、「宇宙船・地球号」の「船内汚染」を何とか食い止め今しばらくは破滅せず飛んで欲しいとの願いは、今回の万博の趣旨と同じく持っている。単にものすごい雑踏が嫌いなだけだ。
辞書には万博について「世界各国が文化と産業の成果を展示する国際的規模の博覧会。一八五一年ロンドンで開催されたのが最初。日本の初参加は一八六七年のパリ万国博で、幕府と薩摩藩が出品。」とある。1851年のロンドン博では水晶宮(クリスタルパレス)が、フランス大革命100周年を記念した1889年のパリ博ではエッフェル塔が時代の先駆けとして有名だった。1970年の大阪万博では「お祭り広場」を世界に発信した。今回の愛知の愛・地球博は後世に何を残すだろうか。