西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

葉書、くだらない

2005-09-09 | 言語・字・言語遊戯
葉書、手紙の語源は何かと前から思っていた。今日は、一つ葉書のことが分かったようなので報告する。今西家で聞いた話だ。今西家書院の庭に「多羅葉樹(たらようじゅ)」という樹木があり、その葉が多羅葉だが、それに鉄筆で傷をつけておく形で字を書いておくと後から字が浮かび上がる。紙のない時代に、それを送って伝言したとのことだ。つまり「葉に書いた」から後の葉書の原形だ、というのである。実際に今でも「不定形葉書」として使えるようだ。2枚ほど貰ってきたので誰かに洒落で送ろうかな。この意味が分かれば相当の教養人と言えるかもしれない。手紙は未だ宿題だ、手と紙に関係あるのは間違いないと思うが・・。
次に一寸「くだらない」話だ。奈良の酒は徳川家康にも認められて江戸時代、上級の酒は馬に酒壷を振り分けて載せて江戸に下ったのだ。だから、そういう酒は、「くだる」酒、江戸に「くだらない」酒は地元で飲んだようだ。そこで、そういう酒を「くだらない」と言うようになった。

平城第二団地、「つなね」コーポラティブ住宅、奈良町

2005-09-09 | 地域居住学
ある大学の大学院非常勤講師で「地域居住学特論」の集中講義を行なった。仕上げで、「百聞は一見に如かず」で平城第二団地、「つなね」コーポラティブ住宅、奈良町を見学して回った。院生は一人で社会人、私がイギリス良家子弟の教育の仕上げ「グランドツアー」のことを話していたので、彼女は「先生が家庭教師のグランドツアーみたいですね」と言った。とにかく私としても色々再発見があったが、ここでは奈良町の「今西家書院」「今西酒造」に行った話をする。
今西家書院は、書院造りの原型の一つで住居学、建築学では知らない人はないはずだが、戦後の調査で、床の間、裏の茶室等は江戸の増改築のようだと分かり国宝から重要文化財に「格下げ」になったようだ。確かに茶室は元々は奈良ゆかりの村田珠光好みで造られたようだが「改築後」は千利休好みに近づいている感じもする。元々春日大社に仕える「福智院家」が管理していたが、明治の廃仏毀釈後、力が衰えて同じく春日大社の社家「今西家」に譲って今に至っている。今西家は春鹿というブランドの酒醸造元となり、春鹿は今も有名な奈良の地酒だ。それは重要文化財・今西家書院の隣にある。鈴鹿から嫁に入った若奥さんが懸命に春鹿のことを説明してくれた。そこで、前にも言ったかも知れないが(7月11日ブログ)、再度言うとして、「春鹿は、春しか飲めない酒ではありません。夏には旧友と懐かしく飲めます。秋には夜長を飽きずに飲めます。冬にコタツで飲むと富裕な気分になれます」と伝えた。彼女は熱心に書きとめていた。さて、この文言の将来は如何に?

生活の美意識

2005-09-09 | 色々な仮説や疑問
生活、ライフスタイルでも「寄らば大樹の陰」は楽である。自動車を乗り回し、休日にはゴルフを付き合い、格好良い高層マンションの見晴らしよい上階に住み、多機能携帯電話で何事も処理し、皆が行くディズニーランドや万博には何の抵抗もなく出かけ・・。
空間の無駄、資源の無駄、環境への負荷を考えて自動車に乗らず、歩いて殆どが出来るまちづくりを理想とし、山肌をむやみに削るゴルフ場開発は自然破壊に通じるとスポーツは好きなのにゴルフをするのを我慢し、見晴らしの良い高層も未熟な空間と忌避し、何で雑踏に行かないといけないの、と雑踏の万博を避け、大勢に逆らうライフスタイルは「苦しい」とふと思うこともあるが、そこは俳句もどきをつくって悠々と・・・と書いてきたら、西行や芭蕉のような隠者に近づけるのか、とふと思ってしまったが・・。
とにかく、政治でも、何でも改革、と言っていれば、それに乗るというのは安易な楽な生活だ。しかし、じっくり中身を吟味することこそ重要だ。
出来れば、今後は「only one」の生活美意識、哲学で行って、それを皆で大いに交流してニュートレンドを生み出したいものだ。

東京でのテロ・ターゲット

2005-09-09 | 時論、雑感
9.11.が近づくのでブログも少し騒がしくなっているようだ。勿論、総選挙も大事だが、9月11日は「9.11.」4周年と言うこと、何処かで何かが、と誰もが思ってしまう。もし、東京なら、という記事もブログサーチで出てくる。
それによると、ガードが甘く話題の企業も多く入っている「六本木ヒルズ」が先ずターゲット候補に上げられている。次に政府系企業も多く入っている日本における超高層の草分け「霞ヶ関ビル」も候補に上がっている。「六本木ヒルズ」に入っている外国企業は、羽田から飛行機で何分かかるかを計算し、2分と知って愕然としたようだ。
9.11.は総選挙で投票した後、静かに過ごしたいものだ。

ニューオルリンズ周辺の災害再考

2005-09-09 | 時論、雑感
http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20050908303.htmlといったサイトを見ていると、分業先進国のアメリカは、災害ならFEMA(緊急事態管理庁)がなんとかしてくれるだろうという気持ちが強かったのではと言う、今日の『朝日』でもFEMAが4年前の9.11以来、ハリケーンなどよりテロ対応一色になったことも対応が遅れた原因と言っている。先のサイトではキューバやインドなどの方が住民組織を巻き込んだ対応策が確立していると言っている。基本的に自力や隣近所の対応能力を上げて備えるべきだろう。
緊急の避難の対応等は、そうだが、恒久的な居住地をどうするか、について、水辺や山際、崖上は絶対にやめたほうが良いということだ。水辺は、普段は気持ちよいし、例えばハワイでも海に面した高い所のホテルの部屋が値段も「高い」。だが恒久的居住地としては、海岸は避けたほうが良い。高波、津波が何時来るか分からないためだ。極端に言うと、ニューオルリンズは大胆に放棄して40数万人の移住をはかったほうが良いということだ。New Orleans はフランス人が最初に入植した「ニュー・オルレアン」である。今度、新開拓者精神で安全な地に移住したら日本語も取り入れ、日米仏語で「Shin New Orleans 」としたらどうか。
同様に、高層住宅の上階は普段は見晴らしが良く、購入価格も高いが、大地震のことを考えたら避けたほうがよい。そもそも高層、超高層は建てない方が良い、そして既存のものは徐々に中層、低層に置き換える方が良いと言える。

西山卯三先生の思い出(19)西山卯三助・教授

2005-09-09 | 京都の思い出(学生時代)
西山卯三先生は、私達が3回生の頃に50歳を過ぎてから教授になられた。西山先生自身、京大の初代職員組合委員長をやられていたため当時の京大総長の鳥養利三郎(とりがい・りさぶろう)先生(工学部・電気工学出身)に「にらまれて」、中々教授になれなかった、と何処かで述懐しておられる。
しかし、助教授時代から全国的に有名で、恐らく助教授で日本建築学会の副会長をしたり、日本学術会議の会員となったりしたのは西山先生だけではなかろうか。それで、西山卯三・助教授をもじって「西山卯三助・教授」と言われていた。
名古屋・豊田に行って、名工大の服部千之・助教授と知り合うが、服部先生も、後年50歳になられてから服部千之助・教授と言っておられ、その通りと思ったが、残念ながら50歳台で、服部千之助・教授のまま亡くなられた。

豊田高専の初期学生達(1)

2005-09-09 | 名古屋・豊田の思い出
8月16日のブログに豊田高専のM君がヘーゲルの『精神現象学』を読みこなしていたことを紹介した。他にも優秀な学生が色々いた。私が就職して2年目(26歳、1967年度)に卒業研究の学生3人(5年生20歳)の面倒をみたが彼等もそうだった。Kan.君、Kat.君そしてY.君ではなかったか。私の研究室で私も入れて4人で撮った白黒写真がどこかにあると思う。Kat.君のテーマは一寸失念しているが、Kan.君は都市計画に関するもので、T市に就職し、都市計画一筋で、都市計画課長にまでなったと思う。Y.君は実家の瓦製造業に関するテーマだったと思う。国鉄(現JR)に就職した。この二人とは今も年賀状のやり取りが続き、40年近い付き合いとなる。彼等もあと数年で定年で、私と「同じ世界、世代」となる。Kan.君はホームページを開設したようだが、楽しみに時々訪問したいと思っている。