西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

自民党圧勝と市場主義

2005-09-11 | 時論、雑感
郵政民営化一本で闘った小泉自民党が「圧勝」のようだ。国民に「直接問いかけた」小泉さんの作戦勝ち、の面が強い。ということで、今後、「郵政民営化」に進むだろう。つまり何事も「市場主義」でいく方向になるのではないか。
しかし、市場主義だけで上手くいかないから政府(行政)があるのであり、NPO、ボランティア、市民・住民運動があるのだ。
市場万能主義の小泉さんのお手並み拝見だ。それと国会で2/3の勢力に近づけば憲法改正問題が現実に起こってくるだろう。

でも暮らしいい

2005-09-11 | 言語・字・言語遊戯
学生と議論していて「民主主義は、多数決の原理と共に少数意見の尊重もある」と言ったことがある。僅かな漁民が、国民の動物性蛋白質の半分を支えているとすれば、重要な働き手だし、国土の7割を占める山地森林を僅かな林業労働者が支えているとすれば、それも国民全体にとって国土保全の意味で重要な働き手と言わねばならない。
でも往々にして多数の都市住民の意見が多数とて農山漁村の住民の意見が切り捨ててられるが、良い訳はあるまい。今度の小泉さんの「郵政民営化」の議論を聞いていると、郵便局が沢山ある都市住民のエゴの面も感じられる。たしかに、それを煽れば票は集まるかもしれない。しかし、過疎では郵便局一つなくなれば住民に大打撃だろう。彼等がいてこそ食糧や国土が全体としてまもられていることを時間がかかっても理解し相互交流する必要があろう。民主主義、デモクラシイは苦しく時間がかかるものである。「でも暮らしいい」のだ。

墓地と墓(16)亀甲墓(きっこうばか)

2005-09-11 | 生活描写と読書・観劇等の文化
亀甲墓(きっこうばか)とは、沖縄の代表的・伝統的墓で石造で内部は人が入れる位だ。外の上から見ると亀の甲羅に模しているのでそう呼ばれたのであろう。大体、海岸近くに海に向って立っている場合が多い。実際には、内部も含め母親の子宮に模しており、死んだら母体へ回帰する、という思想に基づくという。墓の入り口が産道にあたる。私が科研費の共同研究(代表:宮本憲一先生)で沖縄に行った時に沢山目撃した。その後、私が「前方後円墳=膣・子宮説」(7月18日ブログ参照)を言い出したのは、この墓を見たことによっている。
訪問した時に聞いた話で印象に残っていることが二つある。一つは、死者を土葬のように一旦、この墓に入れてから一定の期間をおいて取り出して海で洗う。(これを洗骨と言う)先祖との対話だ。へ~と思った。もう一つは、太平洋戦争で砲弾が横殴りの暴風のように降り注ぐ米軍の猛烈な艦砲射撃(これを沖縄では「鉄の暴風」と言う)のあった時に防空壕代わりに、この亀甲墓に入って一難を逃れたとのことだ。先祖が護ってくれたのだ。

小さな政府、大きな政府

2005-09-11 | 時論、雑感
ハリケーン「カトリーナ」による影響は、予想以上に大きい。予防、避難、復興、国土計画といった時間的カテゴリー、コンセプトにそって総合的に考え実行する必要がある。FEMA(緊急事態管理庁)は、ブッシュ政権になって安全保障省に組み込まれ人員、予算も削減、イラク、テロ対策に目を奪われ足元がお留守になっていたともいえる。クリントン時代のFEMAは、例えばミシシッピー川の沿岸で洪水危険がある家と土地を買い上げ安全な所に移住させていたようだ。
日本でも、先ず東京、大阪辺りから「ハザード地域」から「災害安全地域」に計画的に人口を移動させるべきではないか。全体の人口が減ってくるので、選択的に地域改善がしやすくなるだろう。これをやるためには、市場システムでは、まず無理である。ということは小さな政府ではやりえないことだろう。大きな政府にすると(勿論、無駄な所は削るべしだが・・)、税金がスウェーデンのように少し高くなるかもしれないが、安全がきちんと護られるなら国民は納得するのではないか。

Thank you very much indeed for・・・

2005-09-11 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
以前に、would might Englishという話を書いたことがある。丁寧な言い方は、感謝の言葉でもそのようだ。アメリカ人と喋っていると[Thanks][thanks a lot]で仕舞いということも多い。イギリス人は、「Thank you very much indeed 」なのだ。最初、馬鹿丁寧だな、と思ったが慣れれば口癖になってしまった。又言う機会がめぐってきたようだ。

ついでに「乾杯!」は、Cheers! だが普通は Cheers for the health!などと言う。

「つなね」集会所

2005-09-11 | 地域居住学
コーポラティブ住宅「つなね」の住人は、恐らく自分の住まいに色々工夫したことを誇りに思うと共に皆で工夫した「つなね」集会所も誇りに思っているに違いない。
「つなね」に住みだして5年(私達は時々「行く」という状況だが・・)、集会所は出来て3年ほどか。最初は、空間だけがあり、床はコンクリート、そこに敷物を敷いたり簡易椅子を持ってきたりで「寄り合い」をしていた。夏は風通しが良く、向こうの松林が「額縁」に入っているように見えた。この時の気分の良さも、集会所にした時に、ガラスの「折りたたみ」窓を「こちら」と「あちら」につけたのだろう。室内は、日本住宅の伝統にのっとり土間と床で構成、子供の遊びにも対応している。「忘年会」などもするのでキチネットをつけた。トイレは家に帰って、ということになった。面白いのは、普段は床にテーブルを「埋め込んでおいて」、使うときは「持ち上げてセットする」方式を何人かで考えたことである。座布団を23軒分買おうか、との意見が出たとき、自分の座布団を持ってくれば良い、それが個の「におい」を共に「つけて」愛着を持つことである、と理屈を言って、結局そうなった。
オープニングの時、やや年配ということで、私は乾杯の音頭を取らされたが、集会所の「集」の字は元々は「木」の上に「古鳥三羽」がいて、集まるということ、今の一羽の字は省略形、今後三人寄れば楽しい、にしていきたい・・などと述べた。この集会所に名前をつけるという話になっていたが、まだついていない。私は、昔の字の「しゅう」を提案したいと思っていたが・・。先日、訪問した社会人大学院生も、テーブルを床から取り出す実演をしたら、しきりと感心していた。

防空壕(ぼうくうごう)

2005-09-11 | 金沢の思い出
金沢の私の家の庭の隅に防空壕が掘られていた。B29の爆撃の時に逃げ込むのであろう。畳1畳分くらいの広さ、深さは1.5メートル位であったと思う。蓋は、木で出来ていた。私が4歳の時に戦争は終ったが、後から知ったのだが終わりの8月2日頃にアメリカ軍のB29編隊による富山爆撃があり、編隊は金沢上空を通過した。その時は私は防空壕に入らず、押入れの中に祖母と入って震えていた。
こんな風にしても、ちゃちな防空壕に入ってもB29の焼夷弾が落ちれば「一巻の終わり」ということは、戦後になってから良く分かった。日本人の多くは米軍、B29、焼夷弾の威力などについて殆ど知らなかったのである。