西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

玉置伸吾さんの思い出

2005-09-04 | 名古屋・豊田の思い出
玉置伸吾さんは大阪の出身、高校は北野高校だ。私より京大建築2年先輩だ。学部を卒業すると、すぐ日本住宅公団に就職、名古屋支所に配属された。そこで前に話した長峰晴夫さん(9月1日ブログ参照)と机を並べていた。ここに私が3回生の時(1962年)に、私の問い合わせに答えてもらった手紙がある。私が公団に入っても研究は出来るか、と問い合わせたのである。「出来ない訳ではなく自分もしているが、出来れば大学院に行った方が良い」との答え、玉置さん自身「大学院へ行っておけば良かった」と書いている。そのこともあり、私は大学院へ行ったが、修士を出てすぐ豊田高専に就職したので、名古屋で玉置さんと付き合うことになった。大変エネルギッシュな先輩で、豊田市の総合計画をつくったとき、代表は早川文夫名大教授だったが幹事で実質推進役が玉置さんだった。名古屋での研究実績も認められて、その後福井大学・建築学科に移り工学部長もやられるが、定年間際に急逝された。何とも言えない淋しい気持ちである。

私の考え出した言葉(42)バリア・フリーからバリア・リベラルへ

2005-09-04 | 私の考え出した言葉
これは、水俣病患者の改善住宅を調べた後で考えた言葉であるが、未だ公表はしていない。ある水俣病患者住宅を調べた時、いわゆる座式の腰掛便器と伝統的なしゃがんで踏ん張る便器と両方設置している家があった。「どうしてですか、腰掛便器だけで良いのでは・・」とお聞きすると「いや、つらい時は、腰掛式でトイレをするが、元気な時はリハビリも兼ねてしゃがんで踏ん張りますよ」との答えが返ってきた。なるほど、と思った。それ以来、バリア・フリー(バリアなし)からバリア・リベラル(バリア自由、色々なバリアあり)へ、と言っている。
今度来た『学士会会報』2005-Ⅴ号を見ると、武藤芳照さん(東大教授、名大医学部卒)が「バリアフリーかバリアアリーか」と言っています。一寸引用します。「バリアフリー施設というのは、手すりがついていたり、段差がない自宅や公共施設でありますが、私どもの仲間が調べたところによりますと、バリアフリー施設に長年いればいるほど、足腰が弱って、かえってころびやすくなることがわかりました。(中略)足腰の弱くならない住宅の開発を早急に、産学連携でやろうと。バリアアリー施設にしたいと言っていました。究極のバリアアリー住宅は日本家屋です。玄関に上がりがまちがあって、履物を脱いで上がったり下りたりしなければ暮らせないので、日本家屋でしっかり暮らせるというのは、大変足腰がしかりしているという象徴であります。・・」と。
折りしも10月10日は「転(テン10)倒(とう10)予防の日」と言う。今後、ユニバーサルとも言ってよいが、バリア・リベラルを推進したいものだ。

中村 武君の定年退職記念パーティ

2005-09-04 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
本日、京都・蹴上の「ウエスティン都ホテル」(オリジナルには村野藤吾設計、改装済み)で、京都工芸繊維大学をこの3月に63歳の定年で退職した中村 武君の退職記念講演とパーティがあり、同級生として参加した。同級生と言っても、京大建築だけでなく、遡って金沢の金大付属高校、金沢市立野田中学からの同期生であり、中学1年の時は同級生だった。中村君は、4回生、大学院は建築構造学の若林 実先生の研究室だった。若林先生は東大から来られた新進気鋭の助教授だった。私は参加者の中では中村君と一番長い付き合いではないか。まあ奥さんは中村君と中学の時の同級生だから奥さんと一緒くらいかもしれない。ついでに言うと、その奥さんと私は幼稚園からの同期生であり、中村君より付き合いが長いとも言える。
私は中村君を奈良女子大学へ建築構造学の非常勤でお願いしたこともある。
中村君の記念講演は、「思い出すままに」という自分史風のものだった。生まれから小学生以前、小学生、中学生、高校、大学、大学院、京大防災研就職、京都工芸繊維大学転職、それらの時代の人的付き合いを丁寧に紹介するもので、私も中学から大学まで同じコースだったと紹介して貰った。学部4回生、大学院で中村君が構造、私が計画(西山卯三研究室)に別れるまで同じコースだったのである。
彼は、現在、足の骨を折って杖、車いす生活である。喋りも一寸ゆっくりである。奥さんも大変だがサポートして貰い、早く「元気」になって欲しい。

建築・金沢のつながり

2005-09-04 | 金沢の思い出
現在のことでもあるが、金沢でつながっている建築学会メンバーのことを少し。私が京大助手で赴任した1970年に院生で三村研(三村浩史先生の研究室)入ってきたうち海道清信君(現・名城大学)、川上光彦君(現・金沢大学)、間野 博君(現・広島県立女子大)が金沢出身だった。今回の建築学会大会でも彼等に出会った。「経済研究委員会」懇親会で、間野君と、久保加津代さん(奈良女子大出身、現・大分大学)とも話したが、二人は金沢の泉丘高校の後輩、先輩である。私の親戚(従兄弟の子)である山崎寿一君(現・神戸大学)も泉丘高校だ。私と川上君は、金大付属高校で、海道君は桜が丘高校だ。
金大付属では、私と中村武君(現・京都工芸繊維大名誉教授)が、11期生で初めて京大建築に入った(1960年)と思う。金大付属から東大建築に行った人も多い。最近、建築史の新書を読んでいて五十嵐太郎さん(現・東北大)も金大付属、東大建築組と知った。
建築・金沢マフィアを造るわけではないが「岡目八目」で金沢のまちづくりを例えば川上研をキーステーションに一緒に考えていったら面白いと思っている。

真島二郎、森本信明、柳父行二さんと二次会へ

2005-09-04 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
2日、建築学会「経済委員会」懇親会の後、真島二郎、森本信明、柳父行二さんと二次会へ行った。大阪なのに真島さんの知っているところだった。真島さんは北大教授を定年で退職、私と大学は違うが同期だ。森本さんは今度の学会の会場になった近大の教授、私の京大少し後輩である。柳父さんは初対面、大阪ガスに勤めているが、学術博士、今回「ガスビル」で懇親会が出来たのも柳父さんがいたおかげだ。水割り飲みつつ、真島さんが北海道での庭造り、塀のないこと、樹木をめぐる相隣関係等の私にも関心のあることを話され、それについて色々「議論」した。
どうも、どんな学会でもそうだが、懇親会や二次会の方が本番より、ある意味でinformativeと思う。informalはinformation と繋がっているのかもしれない。

時代予感、20世紀は・・、21世紀は大災害と予防・復興の世紀

2005-09-04 | 時論、雑感
20世紀は、「戦争と革命の世紀」などと言われる。第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、・・戦争、ロシア革命、中国革命・・が背景にある言い方だ。21世紀に入って、各種の大災害が頻発している。自然災害と言っても人災の面も強い。例えば、「風が吹くと桶屋が儲かる」式と批判されるかもしれないが、石油の大量消費(自動車でのガソリン消費が大きい)-炭酸ガスの大量放出-地球温暖化-海水面温度の上昇、海水面の上昇(南極北極の氷の融解)-台風やハリケーン、サイクロンの巨大化-風と洪水等による大災害と繋がっているのではないか。
この他に大地震もある。これらと人間が、どういう住み方をしているのかにより災害の程度や復興の仕方も違ってくる。早急に考えなくては・・。
21世紀は、広原盛明さんも言うように「災害は忘れないうちに次々やってくる」のではないか。(ブログ8月15日、17日参照)

環境の捉え方

2005-09-04 | 地域居住学
私は最近「つながりの豊かな地域居住」と言っていて、2月の「最終講義」でもその題をつけたのは、知っている人は知っている。そういう冊子もまとめている。
これは、いづれ「私の考え出した言葉」でも説明したいが、簡単に言うと、我々は客観的に空間と時間の中に生きているのだが、どうもそれらとの関係が希薄になる傾向にある、その空間と時間に、もっと意識的につながって生きるほうが豊かなのではないか、ということだ。そして、その空間を内実的な環境と人々に別けてみた。時間のほうは長短様々な歴史とのつながりと考えてみている。
その場合、環境は自然環境と人工環境に分けているが、今回、自然環境は、もっと内実的に海、山、川、池、大地、身近な樹木や草花、身近な動物、空などと考えたほうが具体的な空間構成を考えるときには良いのかな、と思い出している。
これは、今回、建築学会に参加し、学習・考察した一結果である。

集住の知恵 美しく住むかたち

2005-09-04 | 地域居住学
日本建築学会編『集住の知恵 美しく住むかたち』(技報堂)を買い、シンポジュームも聞いた。本では76の日本、アジアの農山漁村の風景、景観を集録している。伴丈正志さんが司会、徳島の林さんが特別参加、伊藤庸一さん、岡田知子さん、重村 力さんが話をした。76のシーンを四つに仕分けしているが、示唆に富む。Ⅰ立地を読み解く、環境に適応する、自然>人 Ⅱ自然と住み合う、自然を活用する、人>自然 Ⅲ集まって住む形、集住を仕掛ける、人・人 Ⅳ集まって住む形、集住を仕掛ける、人・神 というものだ。ここに出てくる「神」は現在の都市計画ではけっして出てこないものであるが、最近、上田篤さんが盛んに歴史的国土づくりでふれている。
私は最近「つながりの豊かな地域居住」と言っているが、その「つながり」とは、環境、人々そして歴史である。この本では、76シーンについて何時の時代のauthenticityなのかはそれぞれではっきり書かれていない。連綿と続いてきて「今、美しい」と言っているようだが、手続きとしては、何時頃の成立か、はっきりさせるべきだろう。そのあたりを河野泰治さんが質問したのではないか。中島さん(熊本)が「史的唯物論による発展とこれらの美しさの関係をどう思うか」と質問し、自分としては「良いものは良い、美しいものは美しいでよい」といった趣旨を述べてていたが、私は「科学的社会主義は、過去の良いものは全て受け継ぐ主義ではないか」と思っている。
私は、二人の発表された方が子供達を調査に連れ出して、飽きられたような趣旨を述べられたので、こういう美しさは、きちんと言わないと理解されない、今回の説明を聞いて若い学生諸君も分かったのでは、と近くの若い女子学生に聞いたら「その通り」という感じだった。その説明では、全体の風景、景観の解読が必要では・・と言ってみた。重村さんは、そういうモノグラフも大切だが、実地に連れ出して間違えながら学ぶことだ、と実践派らしい答えだった。
伊藤さんや重村さんの「現場での感動」は大切と思う。重村さんの海に感動、自然は汲めども尽きず、との言葉は実感がこもっていた。
岡田さんのアジアの例や林さんの徳島の例も面白かった。

大阪ガスビルでの懇親会

2005-09-04 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
大阪の御堂筋の淀屋橋と本町の中間・西側に大阪ガスのビルがあり、通称「ガスビル」と呼んでいる。空襲でも焼けずに残った。2日、初めて会った建築学会会員の大阪ガス・柳父行二さんにお聞きすると、戦後、進駐軍がいち早く接収したという。その8階にレストランがあるが、社員だけでなく市民も使っていると言う。フランス料理のレストランとしては「老舗」で、そういうことも進駐軍は知っていたようだ。そういう伝統的レストランで2日、日本建築学会の「建築経済委員会」(委員長:真島二郎さん)と「都市計画委員会」(委員長:鳴海邦碩さん)が懇親会を開いた。途中まで約1時間は別々で、やがて行き来して交流となった。私は最初「経済委員会」に参加していたが、「都市計画委員会」にも顔を出した。両方に知り合いも多いからである。都市計画委員会の方が参加者が若干多く、若手も多かった。やはり「まちづくり」というキーワードに若手が惹きつけられるのかもしれない、と思った。しかし、一方82歳の佐々波秀彦先生もお元気だった。