西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ロンドン報告(12)センチメンタル・ウオーク-2(LSE近く)

2005-09-23 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
私がResearch Scholar(研究員)として通っていたLSE(London School of Economics and Political Science)はAldwychという所にあった。私は地下鉄のHolborn駅で下りてKingswayを南に歩いてAldwychに至っていた。今度は、家内と歩いたのだが、先ずHolborn駅から東に向かいHigh Holborn通りを歩いた。二つ目的があり、一つは政府刊行物販売のHMSO書店が未だあるかどうか、もう一つは1666年のロンドン大火以前からのハーフティンバー・木造建築STAPLE INNを確かめることだった。この通りを歩き出して先ず気付いたのは近代的高層建築が数多く建ち並んだということだ。私が最初にロンドンに来た1982年頃は「黄昏のロンドン」(木村治美)と言われたものだが、その後サッチャー時代を経てイギリス経済は息を吹き返し今は不動産バブル時代(途中一緒だったNewcastle大学卒のMi.さんが言っていた)らしい。HMSO書店は北側にあったはずだが見当たらなかった。南側のSTAPLE INNの存在も不安になったが、流石に17世紀の建物は保存されていた。中庭に入ると樹木から木漏れ日が落ち、「中世」の雰囲気だった。建物自体はハーフティンバーの木造で白壁に木が浮いている。屋根裏もいれ4階建てで地上階は店になり上階は事務所が多いようだった。ここから東が「CITY of LONDON」で「門柱」が、この建物前に立っている。昼食は家内の見つけたすし屋で食べた。
LSE本体の位置は変わっていないが、少しExtension(拡張)したようだ。当時なかった「LSE」という看板があちこちにかかっていた。かって知った建物で中に入り地下のトイレを使わせてもらった。学生用のサービス建物・カウンターも充実している感じだった。建築家のサー・ソーン・ジョンソンのコレクション博物館も近くにあったが歩いたのが月曜日で休館だった。
この後、Strand通りを歩きCharing Cross駅まで行った。

ロンドン報告(11)センチメンタル・ウオーク-1(居住地近く)

2005-09-23 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
懐かしのロンドンで1982年から1983年にかけて住んでいた地域の一部を家内と歩いた。Mill Hill East駅近くの「Round about」(米語のロータリー)の周りには多くの小売店や散髪屋、中華レストラン、コインランドリー、郵便局などがあったが、日常の食料品を買い込みに行っていたFinchely Central駅近くのスーパー「TESCO」まで歩いてみた。家内は当時自転車で買い物に行っていたが、道筋を一寸忘れていた。
「London A Z」(ロンドン地図帳)で調べ調べ歩いた。少しづつ思い出した。
途中の連棟式の住宅群には、大分「TO LET(借家)」や「FOR SALE(売り家)」が目立っていた。もう一つ気付いたことは、自動車交通が多く、今なら自転車で買い物は難しいかもしれないということだ。「TESCO」自体の位置や大きさは変わらないが中は大分改装されて大きくなった感じが出ている。肉の売り場やパンの売り場は流石に大きくバラエティに富んでいる。魚のコーナーはやや小さい。「TESCO」は、その後スーパーに基礎を置いてコンビにも進出し、売り上げはイギリス一のようだ。
Reduction to the earth PRICE!(地球地表価格-最低価格か!?-に割引)という貼り札が面白かった。家内がパンを一二買って、後で食べた。この辺りにも日本人が多く住んでいて「日本人ショップ」が近くにあったはずだが見当たらなかった。どこかに移転したに違いない。

国勢調査と臨時公務員

2005-09-23 | 時論、雑感
今度の10月1日は国勢調査の日だ。今日、近所の男性の高齢者が「調査票」を配りに来た。胸に身分証明書をぶら下げていたが「これでも臨時の国家公務員です」とのことだった。聞くと調査員の募集があり、暇なので、何かのお役に立ちたいと応募して採用されたと言う。これから団塊の世代の定年退職に向かう。益々「お役に立ちたい」高齢者が増えるだろう。どのように社会と接点を持って働くか、あるいは働いてもらうか、よくよく考える必要があるだろう。

ロンドン報告(10)ヒースロー空港の待合空間

2005-09-23 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
ヒースロー空港は何度も通過しているが、ちゃんとした記憶がない。今回は早めに行ったので少しゆっくり観察した。パディントン駅から「エクスプレス」で着く駅は二つある。ターミナル1、2、3駅とターミナル4駅である。我々の帰りに乗ったJALはターミナル3なので、前者の駅で下りて荷物を転がして行った。かなりの距離だ。日本からノールウエーに行ったときにパリのシャルル・ドゴール空港で乗り換えたが、この空港もだだ広く乗り換えに相当歩かされた。
ターミナル3では合同の待合空間があり、周りに免税の店が沢山ある。買い物は家内に任せて私は待合空間で荷物の「見張り」をしていた。待合空間の椅子の並べ方は何とも味気なく、ずらりと並んでいるに過ぎない。ロンドンの町並みを思い出した。同じ住宅が延々続いている通りも多いからだ。待合空間の真ん中に「スターバックス」が陣取っているのも時代の「流れ」か、と思った。待合空間の店は全体としてきんきらきんだが、中に薄暗い伝統的空間があった。それはパブの「O'Neills」という店で、これでようやくイギリスの空港と分かる。最後に、ここでラーガービール1パイントを飲んだ。3ポンドで一寸高くなっていたが、これで今回のイギリスともお別れだな、と思って飲んだのである。

ロンドン報告(9)Paddington駅のLuggage預かり

2005-09-23 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
今回、途中一緒だったN君の情報で、最後にパディントン駅からヒースローエクスプレスでヒースロー空港に行った。JAL422便は夕方19時前のテークオフなので昼間に時間があり、ナショナルギャラリーに行った。ホテルから出てごろごろ荷物を転がすのは嫌なので、これもN君情報でパディントン駅の「荷物預かり」に一時預けた。それは駅の向かって右手端にある。24時間以内は一個5.5ポンド(現在1300円ほど)だ。
ここでの荷物の検査は、ヒースロー空港より厳重で中を開けさせられた。モニターで見ると、持って行った電圧変換機(デジカメ、パソコン、携帯電話等)、目覚まし時計、ボイスレコーダー等々「金物」が多く、またそれらをケースの中のケースに入れておいたので不審がられたのだ。考えてみると、手軽に「爆発事件」を起こそうと思えば、スーツケースに爆弾と起爆剤を入れて預ければよい、という訳だ。
電圧変換機のコードや目覚ましなどは、それらの一部にもなりうるためでもあるためだった。

ロンドン報告(8)食事

2005-09-23 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
ロンドンに1週間いたが、夕食はイタリア料理屋2回(別々)、中華料理2回(同じ)、インド料理1回、すし屋(テークアウェイ1回)だった。「イギリス料理」の店も覚えていたが予約が面倒で今回はやめた。今回の料理屋はイタリヤや中華は世界の「二大料理」ともいえ世界の何処にもあるものである。それと、中華やインドは昔イギリスの植民地(中国は一部)だった所為で、その料理屋はロンドンに多い。今回気付いたのは日本の寿司が少し普及してきたことだ。1980年代には殆どなかったが、今回、専門のすし屋も目に付き、昼食用のテークアウェイ(Take away買って持ち帰り食べること、アメリカや日本ではTake outテークアウトという。ついでに店で食べるのをEat inイートインと言い一寸高め、椅子、テーブル、皿等を使うためだ)の店にも寿司は置いてあった。ただ、山葵が別にしてあって最初知らない人は困るだろうと思った。
昼食は、町歩きの最中に簡単にサンドイッチと飲み物などをテークアウェイした。何せイギリスはサンドイッチ伯爵の考案になるサンドイッチの本場なので種類は多い。パブにも入ってみた。ビターを飲んでみたが、昔よりライトになっていた。
朝食は、ホテルに冷蔵庫があったので近くのスーパーでパン、バター、牛乳、ソーセージ、卵、野菜等を買い込んで冷蔵庫で保存し家内が手軽に作ってくれて食べた。珈琲、紅茶を飲むため、又ゆで卵を作るため簡便な湯沸しを持っていった。
まあ贅沢を言わなければロンドンで飢えることはないだろう。

ロンドン報告(7)ミルヒルの昔住んだ家は?環境は?

2005-09-23 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
1982~83年にロンドンで住んだ家は、地下鉄ミルヒル・イースト近くのOakhampton Rd.NW7にあった。セミデタッチド(二戸一連棟式)の一戸だった。この住体験は『いい家みつけたーロンドン借家日誌ー』(晶文社、1986年)に私は既に書いている。今回センチメンタルジャーニーで家内とどうなっているかと行ってみた。その家は家主が替わって内部の模様替えをやっていた。家主が替わったのは何故分かったかといえば、左隣の別棟の家の前で若い女性が自動車を洗っていたので、22、23年前に隣に居た○○で・・と声をかけたら懐かしそうに「知っています、姉が貴方の娘さんと写っている写真を見たことがあります。」と言う。これは驚きで、ここの家は家族の成長はあるが替わらずだった。そして私のいた家のことも知らせてくれた。この姉さんは当時4歳の可愛いお嬢さんで、私の娘は中2、3で遊んであげていた。そして、その頃にこの妹が生まれたのだ。姉さんは26歳、結婚して子供もいると言う。今日は来ている様だが赤ちゃんと休んでいるとて会えなかった。お父さんは買い物で不在、お母さんも現れなかった。私達の右隣のMじいさんは、今年の6月か7月に亡くなった、99歳ほどと言う。私達は、もういないと諦めていた。もう少し早く来ていたら会えていたかもしれない。
この町並みは殆ど変わっていなかった。近くにあったガスタンクがスーパーに替わり、古臭い感じだったパブ「The Mill」は明るくなっていた。家内とあれこれ思い出しながら、そのパブでイギリス風に一杯飲みつつ昼食をとった。