東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

亀ヶ池弁天

2010-05-25 19:45:14 | ご近所

2007_0101_000000p1010442 赤羽駅西口から西へ弁天通りがのびていますが、その通りの名前はこの弁天様からきています。

江戸名所図会にも描かれている池はもっと広大な様子ですが、私が知っている池は現在より少し広かったという感じ。小学生の頃、遊ぶテリトリーを拡げつつあった頃、西口は私の住む南口界隈に比べ、緑が多く、虫採りやどんぐり拾い、カラスウリ採りなど南口では手に入らないものを求めて遠征していました。

国鉄の踏切が開かずの踏切だったこともあって、東と西の行き来は案外面倒でした。一番通りやすかった踏切は、現在「餃子の王将」やくすりの「ぱぱす」があるところ、地元では「親子踏切」と呼ばれていました。京浜東北線はもともと堤の上を走っていたので、そのガードをくぐり、東北線高崎線貨物線を渡るひとつの踏切と赤羽線を渡る小さな踏切があったので「親子踏切」。電車が好きだった私はよく親子の踏切の間の坂道で「特急いなほ」や「特急つばさ」を待っていました。

弁天池の話に戻ります。私の記憶では、昔はこのような鉄柵がなく、ザリガニがいるので、よく採りました。亀はその頃のほうが少なかったように思います。現在よりも向かって左側に池がのびていて、池の一部を跨ぐように平屋の家が建っていました。おそらく弁天様を管理する役目だったのだと思いますが、子供が遊んでいると、窓がガラッと開いて、怖いお婆さんが「こらっ」と怒鳴るんです。それで一旦は逃げて、またザリガニを採るという繰り返しでした。今考えると罰が当たってしまいそうでひやひやします。2007_0101_000000p1010443

あの頃を思い出すと、池の周りに旅館がたくさん、またホテルもありました。西口で八百屋と骨董屋をやっておられたUさんというおじさんに昔の赤羽の話をよく伺ったものですが、嘗ては、この界隈は2業地だったそうで、山の上の陸軍関係のお客様で賑わっていたようです。私が見た旅館もそうした歴史とつながっていたのでしょう。

今は新しいマンションが建って、景色も変わってきていますが、赤羽の中では割と古風な雰囲気を残すエリアだと思います。

弁天通りには、嘗て2軒の映画館がありました。子供の頃、夏の涼みを兼ねて、「子供まつり」だったかアニメを観に連れていってもらったのですが、予期せぬ実写の「妖怪映画」が併映されていて、子供心に怖くて夜トイレに行けなくなりました。


日々のたのしみ

2010-05-25 08:40:31 | ご近所

2007_0101_000000p1010441 わが家には庭がありません。昔のわが家には庭がありました。やつで、りゅうのひげ、あおき、おもと、いちじく、そして榊の生垣がありました。植えてあった植物の種類が、いかにもその頃、どこの家にもあったというものでした。やつでや木イチゴ、あおきはよく厠の近くだとかによく見られたし、長屋の裏なんかにもよく見られたような気がします。最近街と歩いても意外と観られないのがおもと。明治以降、かなり流行ったようで、私の子供の頃にもよく見られました。卵の殻や貝殻が土に挿してあったのは、養分補給のためだったのか、、。

画像の植木は、私が勝手に植え込んだもので、食べた後のビワの種を蒔いたり、八百屋さんから買ってきた根ミツバの根を挿しておいたりしたのが、しっかりと根づいてきました。それと私の大好きな花「みそはぎ」を以前、安行から買ってきたのを植え込んだのが、楽しみになっています。他にも、いろいろな雑草が生えてきていますが、摘んでしまうのももったいないので、そのままにしていますが、それそれの植物どうしの日光を求めてのバトルはすざまじいものだと感心しながら眺めています。みそはぎが例年、お盆の頃、赤紫色の小さな花をつけます。仏様にお供えする花ですが、最近は花屋さんを覗いても似た色の違う花で代用されることが多いですね。そろそろ荒川の土手や、芝生の植え込みに「ねじばな」(もじずり)がひょっこりと咲く時期かな、と楽しみにしています。