今でこそ、赤羽って「住んでみたい街」の上位にランクされているそうですが、、。一住民としては、悪くない気分ではありますが、昔だったら「あの闇市の?」「ピンクサロンで有名な?」といった形容がされていたように思いますし、「赤羽って埼玉じゃなかったの?」と言われていたこともありました。
「住みたい街」である理由のひとつは交通の利便性でしょう。新宿、渋谷、お台場まで埼京線りんかい線で一本。横浜、鎌倉、湘南へも湘南新宿ラインで直通電車が停まります。上野、東京、横浜までも京浜東北線で一本。上野まで急ぎだったら高崎線東北線でふた駅。JR線とは直結していませんが、地下鉄南北線も走っています。確かに便利。駅も新しくなって便利だけれど、、、、。
押し入れの中を探しものしていたら出てきた駅弁の包み紙。赤羽駅にも駅弁は存在したんです 。
あの頃、、、昭和40年代後半から50年代前半。京浜東北線もともと高架といったらよいのか、高いところを走っていてホーム(1番線、2番線)も高かった。高崎線東北線(3番線4番線)ホームは地上。赤羽線は5番ホームだったか定かではないけれど、地上にあって池袋と折り返し運転をしていた。
3番4番ホームには急行電車もよく停まったし、「急行 ××1号 ××行き ×号車」といった乗車口の表示板がぶる下がっていた。 機関車が牽引する茶色や紺色の客車の普通列車の中には「福島行き」なんてのもあったような気がする。 こういうホームだから上野駅には及ばないけれど、啄木の「ふるさとの訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聞きに行く」といった風情は多少はあったと思う。
「御寿司」と書かれた包み紙。中身はただの助六だったけど、れっきとした駅弁です。木箱に入れて、停車中の汽車の窓から売り歩くおじさんは見たことないけれど、駅弁を売るスタンドがありました。ホームに立ち食いそばのスタンドがあって、その臭いがなぜかローカルムードを高めていました。
赤羽に住んでいて、なんで駅弁なんか買うのか?とお思いの方もいらっしゃるでしょう。あの頃、小遣いがあんまりなかったから、どこかへ出かけることもできず、ホームで駅弁を買って通り過ぎる長距離列車を眺めながら旅情に浸っていたのです。
それにしても、赤羽の名所なのか「荒川鉄橋」というところが悲しいですね。あの頃の川は汚くて臭かった。「ばらばら事件」とか「マムシに噛まれて死んだ」とかいう話も聞きました。
あの頃、、、、ユーミンではないけれど「あの日に帰りたい」という気分です。あの歌がヒットしたのもあの頃くらいではなかったかな、、?