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東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

「今戸の狐」ではない

2012-02-17 22:07:09 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010241今日用事があって浅草へ行ってきました。用事が済んだあと被官稲荷様へ。

以前、とても残念な話をある方から聞いており、これまでも何度も目にしていたのですが、、、。

ここは新門辰五郎ゆかりのお稲荷さんでもあり、被官(ひかん)が東京訛りで仕官(しかん)に通じることから「仕事につく」という縁起かつぎでむかしから信仰の篤いお稲荷様です。それと、ここの玉垣には中村吉右衛門・中村時蔵・中村米吉(先代・勘三郎さんの前名)も残っています。

P1010238また、ここでは今戸焼の「鉄砲狐」がつい最近まで奉納されていたということで、知る人ぞ知る「生きた今戸焼」に出会えるところでした。今戸の白井さんのお作りになった鉄砲狐が初午で授与されていたのです。昔なら今戸の鉄砲狐はどこにでもあったものですが、瀬戸物製の狐が堅牢で色落ちしないなどの理由から戦前から既に、鉄砲狐は瀬戸物製の狐に駆逐されていたのです。幾分古い鉄砲狐は金杉通りの三島神社に残っていますが、今でもきちんと奉納されていた最後の砦はここだけではなかったでしょうか。

P1010239

しかしいつの間にか、奉納されている鉄砲風狐は今戸焼ではなくなっていました。どういう事情でそうなってしまったのかはわかりませんが、今こうして並んでいるのは京都で作られたものなのです。手を合わせてから狐さんの底を見させてもらいました。おわかりになりますか?底があります。本来の鉄砲狐には底はないのです。見たところ、鋳込み式成形でできているようです。白井さんの鉄砲狐の型はかなり摩耗して丸くなっていたのをお手本にしたようです。

落語「今戸の狐」には手内職で狐に彩色する人達の様子が出てきます。

今戸焼の狐には鉄砲狐以外のさまざまな型がありましたが何といっても一番需要のあったのは鉄砲狐だったので、いわば一番身近で代表的な狐であったはずです。時代の変遷によって今戸焼の生活雑器や道具類は身の回りから消えてしまいました。。

この鉄砲狐こそは、信仰の中で息づいている「生きた今戸焼」だと思っていたのですが今戸焼でなくなってしまい残念のひとことに尽きます。姿は一見似せて作られており、信仰の上では今戸焼であろうがなかろうが要は心であって関係ないだろう、と仰る方もおいでかもしれませんが、東京人のひとりとしてはかなりセンセーショナルなことです。

昔の鉄砲狐の画像についてはP1010240_2

 

落語「今戸の狐から」→

 

山田徳兵衛著「人形百話」より→

 

三島神社の鉄砲狐→

 

擦り込みのある鉄砲狐→

 

鉄砲狐の異種?→

などお時間ありましたらご覧ください。

 


今戸人形 「経木箱入りの向かい招き狐」(明治時代)

2012-02-03 22:08:56 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010156今年は2月3日は節分と初午が重なっているので各地の神社仏閣の豆まきに加え、お稲荷様のお祭りも重なり、見て回るのも大変なことでしょう。

季節にふさわしい昔の今戸焼の人形を、、と思いますが、節分の鬼となると出土品を含め、はてあっただろうか?と頭をひねります。確か最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治~昭和19年)のお作の中に、泥面のひとつとして鬼があったような気がしますが手元にはなく、、。他に鬼があったかどうか、、、?外道の泥面はたくさんあったはずですが鬼とは別のように思えるし、春吉翁作の般若の泥面は残っていますが、これも鬼とは別。出土品には鬼に姿形が割と似ている雷様がありますが鬼ではない。

やはり初午つながりで狐であれば、今までご紹介した以外にもたくさん作られていました。画像の経木箱入りの招き狐は以前ご紹介した「枡入りの恵比寿大黒」と性格的に似ていると思います。当時の生産や販売方法は恵比寿大黒同様、際物屋さんとかおもちゃの問屋さんによッてコーディネートされたものでしょう。今戸焼の窯元で全て一貫生産したものではないと思います。

今戸焼屋さんは型抜きから素焼きまで行い(木地専門)、それを仕入れて、手内職で彩色するおかみさんたち(ちょうど落語の「今戸の狐」(骨の賽)の世界のような)がいて、箱は別のところで調達される。画像のものには残っていませんが、ガラスの蓋が紙で蝶番のように一辺固定されていて、ガラスの裏側から泥絵具でお幕が描かれていたのだと思います。以前ご紹介した「経木箱入りの天神様」と同じだと思います。

奥の山積みにされた小判は片面抜きでぴったりと底板に貼りつけられています。構図は恵比寿大黒のそれとほぼ同じですが、手前に宝珠が3つ積み上げられているのが異なります。

向き合う招き狐ですが、構図としては「太郎稲荷の向かい狐」に似ていますが、太郎稲荷のは手は招いていません。それとこの狐に関しては片面ではなくしっかり二枚型で背面もあります。彩色に関しては昔の今戸人形の公式とおり、手足や腰の境界を薄い桃色でぼかしています。(もっと古いものは鉛丹での擦り込み) 台座の繧繝縁風の彩色は天神様とほぼ同じですね。

今戸焼の招き狐については戦前浅草被官稲荷で授与されていたものや、画像のような狐、更に出土品に見られるような鉄砲狐型で招くものが存在するのですが、招き猫との関係でいうと、招き猫が先でその影響で狐も招くようになったのではないかと考えているのですが、どうなのでしょうか?また、画像のように経木に箱に収まった形のもので2体の招き猫が向かい合わせに招いているという構図のものが存在したのかどうか?あってもよさそうなものなのにまだ見たことがありません。春吉翁の作を含めてそれ以前の古い今戸焼の人形に向かい招き猫があったのかどうか、、、。今戸焼の招き猫の古いものの中には右招きも左招きも単独で存在する作例は確認できますが、2体一対で招くものがあったのかどうか、、、。あったら見てみたいです。

ご参考までに

 

「枡入りの恵比寿大黒」の画像はこちら→

 

「経木箱入りの天神様」の画像はこちら→

 

「太郎稲荷の向かい狐」の画像はこちら→

 

お時間ありましたらご覧ください。


今戸人形 「虫拳」(三すくみ) (明治時代?)

2012-02-02 20:56:09 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010153今戸焼の人形の中で狐拳つながりのものもっとご紹介したいのですが、整理が悪くてどこにしまってしまったか、また見つかりましたらとりあげさせていただきます。拳つながりということで「虫拳」をとりあげます。

蛇は蛙を食べ、蛙はナメクジを食べるが蛇はナメクジを食べられない(食べると体が溶けてしまうと思われていた)の三すくみの拳というものありました。その打ち方についてはわかりませんが、こうしておもちゃになっているくらいなので子供の間でも流行ったものだったのでしょう。

P1010154経木の箱にガラスの蓋でできたケースに三体納まっています。蛙とナメクジは土製、蛇は反古紙のこよりでできており、それぞれに針金が通してあります。針金には磁力がつけてあり、反発したり寄り合う力でそれぞれの強弱関係を勝負に見立てて遊ぶようです。

P1010155詳しいことは調べていませんが、虫拳もそれなりに古い歴史があるのではないでしょうか?

歌舞伎「三人吉三」の大川端でお嬢吉三とお坊吉三のせりふに「蛇が見込んだ青蛙、腹が裂けても飲まにゃおかねえ、、、、そんならこれをここに掛け虫拳ならぬこの場の勝負」というのがでてきます。この初演は安政年間だったかと思います。

また「自来也」の主人公の自来也は蝦の妖術使いその妻の綱手はナメクジの妖術使い、それに敵するのが大蛇丸という三すくみの設定になっているので、読本として魁となった「自来也説話」(文化3年)の頃には既に虫拳が流行していたのかどうか、鶏が先か卵が先なんでしょうか?しかしこの自来也は後に合巻「自来也豪傑話」(天保10年~明治元年)として刊行され、河竹黙阿弥によって劇化もされ、更に後には映画化されるなどかなりポピュラーになっていたと思われますし、子供のイメージも虫拳=自来也くらいにあったのではないかと考えられないでしょうか?

かねがね思っているのですが、今戸人形は今戸焼から派生したものなので 今戸人形⊂今戸焼ですが、実際には古いものの中には成形までは同じでも素焼きをしていない生土のものなど今戸人形?今戸焼というものも存在するのでこうした画像のような際物も今戸人形またはその仲間と考えています。蛇は紙製ですが、土製のものは土ものの業者が作り、箱は別の下請けで、際物屋さんがコーディネートして販売していたのだろうと考えられます。こうした例は以前ご紹介した「枡入りの恵比寿大黒」「経木箱入りの天神」「相撲の毛人形」などにも共通するものだと思います。


今戸人形 「拳遊び」(小捻 徳次郎 作?)

2012-01-30 23:20:42 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010151小捻と書いて「しょうねん」と読むのだそうで、有坂与太郎の戦前の著作の中に出てきます。その著作の中でも「小捻」の人形を今戸人形に含めて書いてあったり別枠で取り扱っていたりするので「今戸人形」の範疇に入れるかどうか人によって分かれるものでしょうが、個人的には今戸焼の人形のひとつだと思っています。

ご覧のとおり技巧を尽くした作りで、子供の遊び道具にしては高価だったろうと思いますし、飾ったものでしょう。

画像では4人しかいませんが、本来拳を打つ男性がもうひとりいるのです。何故か拳を打つ2人は愛嬌のある顔をしていて、ここにいないもう一人はしかめっつらをしているのです。(ところでこれは何の拳?狐拳でいいのでしょうか?)奥の若旦那の右手が損じていますが、左のお酌から盃を受けているところです。これと同じ組み合わせの人形の組みは戦前の西沢笛畝著の「玩具叢書」?だったかという本に白黒画像に小さく載っていて、解説では「待乳山辺りで作られていた」と書かれています。捻りの人形といっても頭や胴の芯、小さなパーツそれぞれは型抜きして、合成してあります。袖の細部などは当然捻りで調節して作ってあります。全てはじめから手捻りでは規格を合わせて生産できません。

以前、吉徳資料室のHさんとお話していて、この手の人形のことに及んだのですが、昭和40年代くらいの本で「日本の古人形」という藤沢の時計屋さんの旦那さんが自分のコレクションを出版している本に出ていると聞きました。その本わが家にもあったのですが、見落としていました。掲載されているのは吉原の大晦日の「狐舞」のような人形のセットなのですが「人徳」の作であると解説されています。技巧的にも同じ作者だと思います。「人徳」なる名前は他の本で読んだことがなかったので、どういう人かとずーっと考えていました。(わが家には玩具関係の古書はそんなにないのです。)

その後、図書館で明治10年に出版された上野の内国勧業博覧会での受賞者についての記述の「第二類 焼窯術上ノ製品」「二區五類」という項目の中に「花紋 土偶人 淺艸東仲町  小捻徳次郎  教育ノ用ニ適セズ價モ亦不廉ナレドモ全ク土ヲ揑リ製シ出スハ蓋シ其類少ナキ者」というのを目にしました。「人徳」と「小捻 徳次郎」は同一人物ではないかと思うのです。博覧会にどのような作品を出品したかは知る術もないですが、江戸ッ子好みの粋な人形だったのでしょうか?だとすれば、当時の世相でいうところの教育的ではないというコメントがされても仕方ないと思います。値段も高いが土でこうしたものを作りだす技術は大したものだということでしょう。

こんな人形を作れたらすごいと思いますが、私には修業不足でまだまだ無理です。

この作者のもうひとつの作例はHPでも画像を紹介していますのでよかったらご覧ください。→


今戸人形 「狐拳}(江戸時代) 

2012-01-29 19:28:49 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010146ブログで昔の今戸人形をご紹介するのも随分久しぶりです。季節に合ったものを、、と思いつつ、正月に合いそうなものをタイミングを逃してしまった、という感じです。初天神にも遅れてしましました。

今年は初午と節分が重なります。狐そのものではないのですが、狐つながりで「狐拳」をご紹介します。狐拳の今戸人形で有名なのは最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになった狐・庄屋・猟人の三体一組のものだと思います。しかし尾張屋さんの型とは別の狐・庄屋・猟人も存在していますし、画像のように童子姿の拳打ちのものもあります。

この画像の人形は使われている顔料からして今戸人形の一番流行っていた江戸の後期、しかも群青色が使われていないので、配色としてはそれより古いものだと思います。両端の女性の着物は紫土べんがら、襟に鉛丹、狐手の童子の腹懸けや三味線のお福の帯には水緑青(酸化銅)、庄屋の手をする唐子頭の童子の頭部の青剃りや着物部分はベロ藍が使われています。三味線のお福と狐手の童子は都内の近世遺跡からの出土人形と型も同じです。

中央の2人が拳を打っているのは明らかですが、右端のお酌さんは単に襟を合わせて愛嬌を売っているだけのポーズなのか、猟人の手を打っているのかよくわかりません。或いはもう一人拳を打つポーズの童子がいたのかどうか、、しかし出土の人形からそれらしいものを見た憶えがありません。もちろん拳は2人いれば打てるのだから、中央の2人だけでも成立するのではないかと思います。拳をおわかりになる方に教えていただけるとありがたいです。


今戸人形「都鳥のぴいぴい」(明治時代)

2011-06-08 10:44:06 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010326 かつては今戸焼でたくさん作られていたと思われる「ぴいぴい」です。「ぴいぴい」というのは文字どおり笛の音の擬音語です。笛には従来の鳩笛とか単体で音を奏でるものが主流ですが、このようなものもありました。

2枚の杉板を染料で染めた反古紙でつなぎ、鞴の役目をさせます。内部には菅竹で作った笛を仕込んであるので、鞴の蛇腹を伸縮させることで風を送り、音をさせます。

鞴の上には今戸焼で焼いた土 人形を固定させてあり、この手の人形は底なしに作ってあるので笛の音を内部で共鳴させる役割をします。人形の形はさまざまありますが、ベーシックなところで、画像のような「都鳥」「鶏」など鳥の姿が古いのではないでしょうか?また江戸時代に出版された「江戸二色」には。鞴の上に座った猿の姿が固定しているのが描かれていて、「屁っぴり猿」とか言われていたようです。

鳥以外にも福助、ダルマ、子供、お神楽、軍人、狐、招き猫、鼠などありとあらゆる人形が乗っているのを観ています。その中で面白いと思うのは、人物にしろダルマにしろ、ラッパを吹いているポーズの人形のシリーズがあることです。ラッパを吹いているから、鞴の笛の音とマッチしているという理屈なのでしょう。

画像の都鳥は配色からするとあまり都鳥らしくありません。しかし同じ形でもっとあっさりと塗られたものも存在するので、都鳥でしょう。背中のところに三蓋松のような模様が描かれていて、おそらく御殿玩具からの影響ではないかと思うのですが、、。

このおもちゃは自分で再現してみて、感じたところでは、鞴部分だけで案外手間がかかります。二枚の杉板をつなぐ反古紙を板のサイズに合わせて蛇腹を予め折りたたみ、そのあと板に貼りつけます。笛も固定しなければなりません。

そんな理由から、昔の今戸焼屋さんが自分の家で全ての工程を完成させていたか?という疑問が湧きます。今戸焼の他の際物と同様、窯元では素焼きの木地のみ行い、あとが際物屋さんがそれを仕入れ、鞴や笛の組みたては他所で下請けさせ、最後にパーツを合体させるよう分業体制で作られていたのではないか?だからこそ、色違い、配色違いの製品が存在するのではないかと考えています。P1010327_2


今戸人形「金太郎」(尾張屋春吉翁 作)

2011-05-04 19:18:58 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010324 最後の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。

この人形の型は春吉翁自ら起されたものである、と何かの本で読んだか聞いたかしたように憶えています。

それで想像しているのですが、この型はもしかすると「だるま乗り童子」の型を応用して作られたのではないか、、、??

似ていませんか?

画像の人形の型自体は春吉翁の創作であったにせよ、正面向きに熊に金太郎が跨っているという構図の今戸人形の型はもともとあったようなのです。都内の近世遺跡からの出土品中にありました。堤や相良の人形にある熊乗り金太郎の型に比較的に似ているように思いました。

他に出土品の中にやはり相良系統の人形に見られるような横方向に臥した熊に正面向きに座っている金太郎もありました。

今戸版のこれらの伝世の人形があったら見てみたいものです。


今戸人形「馬加藤」(尾張屋春吉翁 作)

2011-05-04 19:03:34 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010321 画像は最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。

裏面に「尾兼」の刻印があり、御父上の金澤兼吉翁(~大正7年)以来の割型で作られたものです。これは、関東大震災後に春吉翁が人形作りを再興されて以降の作です。

同じ型の明治に作られた人形は観たことがありません。おそらく前掲の明治の「虎加藤」のような調子とタッチだったのでしょうか?

この人形は彫が細かい上、配色も複雑でさぞ色塗りも手間がかかっただろうと思います。

馬に乗った今戸人形の人物は春吉翁作の「馬小姓」や「狐馬」など知られている他、都内の近世遺跡から出土しているものにいろいろな種類がみられます。


今戸人形「虎加藤」(明治時代)

2011-05-04 18:50:25 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010325 明治時代に作られた、今戸焼の土人形です。

裏面には「尾兼」の刻印があり、尾張屋・金澤家の作であることには間違いないのですが、最後の生粋の今戸人形であった、尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお若い頃の作なのか、その父上である金澤兼吉翁(~大正7年)の作であるのかわからずにいます。型自体は「尾兼」の文字のとおり兼吉翁がお使いになっていた割型で作られているのですがどうなのでしょうか?

春吉翁の懐古談によれば、明治の終わりになると今戸焼の土人形の売れ行きがよくなくなり、人形作りをやめて箱庭細工の製作に転じられたとか、、。割型は自宅の庭を掘って埋めていたそうです。ところが、関東大震災のあと、町の復興工事の折、埋めておいた型が再び掘り起され、愛好家の勧めで往時の人形作りを再興されたそうです。

再興後にお作りになられた人形の中にもこの「虎加藤」も含まれていましたが、画像の人形の配色とは顔料が異なります。

画像のものは明治のものだから、兼吉翁の作であると断定できないように思います。袴部分の紫は明治も半ば以降のものでしょうし、タッチも再興後の春吉翁の筆のものとちょっと違うような気がします。しかし若い頃のものだとすれば、、、。

顔料こそ違いますが、赤い部分には赤っぽい色、紫の部分には紫っぽい色、と言う風に配色のきまりは明治のものと再興後のものときまりがあったのかと思います。画像の「虎加藤」よりももっと大きなサイズの人形もあったようです。

端午の節句に因んでとりあげてみました。


今戸人形「鉄砲狐の異種?」

2011-04-27 22:36:54 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010149 この狐は以前ご紹介した「加野 トク」さん作の柾木稲荷型?の狐と面描きが同じです。

ただし、台座があり、黒く塗られているのがちょっと違う。胡粉地にキラ(雲母粉)を塗っているのも共通します。従来の「鉄砲狐」と構図としては同じですがプロポーションが違います。

これにも擦り込みがあります。

最後の生粋の今戸人形師だった尾張屋春吉翁(明治元年~昭和19年)のところや鈴木 タツのところの鉄砲狐には擦り込みはしていないです。


今戸人形「岩の上の横向きの稲荷の狐」

2011-04-27 22:27:37 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010148ポーズとしては、先にご紹介した「太郎稲荷狐」や「横向きの稲荷の狐」と同じなのですが、更に岩の上に鎮座しているという構図です。

やはり神様のご眷属としての威厳を表現しているのでしょうか。仏像などで岩の上で邪鬼を踏みつけていたり、お不動様が岩の上に鎮座しているのと同じような、、。

今戸焼の土人形の中で、岩の上に鎮座しているものは「恵比寿大黒」など割とポピュラーかと思いますが。お稲荷さんの狐にもこうしたものがあったんですね。岩の彩色など、「恵比寿大黒」のそれと似ています。

それとこの狐の鼻と口の色の置き方が面白いです。今戸焼の古い狐の場合、「鉄砲狐」などは最初から赤一点ポツンと大きく置きます。このやり方は狸にもみられますが、「馬乗り狐」でも一点です。しかし鼻孔2点に口のラインを入れるやり方もあり、画像の狐はその中間といった感じがします。

そして台座部分に赤地に金(真鍮粉)で宝珠を描いたり、顔や体に刷り込みを入れています。

高級感をだすために丁寧に作られたものなんでしょうか。


今戸人形「横向きの狐一対」

2011-04-25 23:12:49 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010146 この狐、以前「加野 トク」さんの狐か?ととりあげた狐と面描きがほぼ同じなので、同じ作者でしょう。

それと構図としては「太郎稲荷狐」と同じ横向きですが、ずっと大きいので、むしろこの狐から「太郎稲荷の狐」が生まれたと考えられなくもないかと思います。

この狐にも朱色の擦り込みがあり、台座の色分けがひと手間かかっています。縁と正面を塗り分けています。灰色は胡粉と墨を混ぜたのでしょうか。そして、その上に砂子(真鍮粉)が振りかけてあるのです。奉納用の狐に砂子を撒くとは、、、やっぱり高級感を出すためでしょうか?

もちろん、今戸焼の中では「口入狐」だの「羽織狐」も奉納品で、羽織や裃の群青に砂子を撒いているのはありますが、、、。それにこれらは色の塗り分けにもっと手間(色数も多い)がかかっているのですが、画像のようなタイプの狐にも手間をかけていたという例ははじめて観ました。


今戸人形「擦り込みのある鉄砲狐」

2011-04-25 22:59:16 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010145 「今戸の狐」(骨の賽)という落語があるくらい、今戸焼の稲荷の狐は大量に作られ、「伊勢屋 稲荷に 犬の、、、」といわれるくらい江戸の市中のお稲荷さんの祠に奉納され、大きな需要と供給があったわけです。

最近ある方からショッキングな話を聞いたのですが、まずは我が眼で確かめてから、、と思っています。

これまでも稲荷の狐について何度か記事にとりあげました。その中で最もポピュラーな「鉄砲狐」(一説に形が鉄砲の弾の形に似ているから、、とも)も何度か登場してもらっているのですが、鉛丹(または朱?)の擦り込みのあるものを見つけたのでとりあげます。

鉄砲狐の配色は浅草橋の「人形の吉徳」さんに伝わっている天保年間の人形玩具の配色手本にも描かれており、画像のものとほぼ同じです。台座の上面に入れる黄色が石黄だったり黄土色だったり、金色だったりしますが、だいたい同じ。台座正面に赤(スカーレット染料だったり朱色だったり)と群青とのストライプもだいたい決まり物のようです。

ただ、画像の鉄砲狐には胸から両脚の間にかけて朱色の擦り込みがあるのです。ちなみに上記の配色手本の鉄砲狐にはその指定はありません。

落語の「今戸の狐」の会話に出てくる「金貼り」「銀貼り」という言葉から、同じ狐でも仕上げにランクがあるのかな?と想像しつつ、この朱色の擦り込みなんかも、ひと手間かかる訳で、そのひと手間が絵付けの職人さんの高級感の差別化をはかる一手だったのかな?とも考えたりしています。どうでしょうか?

ちなみに配色手本に登場する他の動物、、猫、馬なんかには擦り込みの指定がありました。実際観たことのある伝世の猫や馬には擦り込みがあったりなかったりしています。

画像の狐の面描きも手慣れたタッチでいいですね。


今戸人形「桜模様のおいらん」(明治時代)

2011-04-11 19:09:48 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010071 東京では桜の盛りなのでとりあげてみました。

桜の花模様の土人形といえば、相良人形とか花巻人形、堤人形をはじめ、全国各地の人形にみられるものなのですが、今戸でもこうした模様があったのですね。

最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形の中にもちょこっと桜の花を描いたもの(例えば、裃雛やおかめの火入れなど)もありますし、浅草雛にも描かれていますが、画像のようにびっしりと描かれたものはあまり見たことがありません。

顔も丁寧に描かれていて、腕のある人が絵付けしたものではないかと思います。目のまわりにぼかしがしてあり、眉は薄墨で描かれています。表情に何とも仇っぽい色気を感じられませんか?手にした懐紙が金(真鍮粉)で塗られているのが不思議です。全く同じ型の人形でもっと獏連で妖艶な表情のものも存在します。

状態はよくないのですが、私にとっては、昔の今戸の形や色がわかるだけでも幸せです。

昔、ある郷土玩具のマニアの人の目の前で、割れて継ぎの入った人形を選んだことがあるのですが、「あんなものに手を出すのは、あの人くらいしかいない。」と陰口をされたことがありましたっけ。


今戸人形「官女」(明治時代)

2011-03-05 13:56:09 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010005 実物に接するまで、今戸焼の土人形の中にこのような種類があることを知りませんでした。

立ち姿の官女で両手にしているものが従来の三人官女の「長柄銚子」なのか「舞扇」であるのかよくわかりません。

しかし、一人立の人形ではないような気がするのですがどうでしょうか?三人官女でないとすれは、「浦安の舞」のような、「浮世人形」形式で下段に飾るもののような、、、。まさかお三輪をいじめる官女や舞踊「六歌仙」の清元の「文屋」にからむ官女のひとりということはないのかもしれませんが、、。

「田町は昔今戸橋、、、」なんて件がありますね。舞台では文屋康秀と「恋問答」になる件ではこういうポーズで扇で拍子をとっていたとも思います。

組み物の人形であるとすれば、「古今風の雛」に付随しそうなややリアルな姿だと思います。

木地に胡粉の地塗りをした上にキラ(雲母粉)塗りをして、その上から顔料を塗ったか、または顔料にキラを混ぜて塗ったかのひどくメタリックな風合いです。

仮にこの官女のお主となるべき明治の「古今風」の今戸のお雛様は片割れしか手持ちがなく、また植物染料で塗られた江戸時代後期風の「古今風」のお内裏様も片割れで、揃っておらず、ご紹介するのにちょっとためらってしまい、またに機会にでもご紹介できれば、と思います。