後から考えてみた。
叔母が姉である母の思いをくんで、半分仕組んでいたのかも。
能天気な私なら、御し易いと。
事実、私は言うなりになった。
試験まで2ヶ月程の切羽詰まった時期だ。
歯科医の先生は、兄が某歯科大の教授だった。
落ちても付属の技工専門校に手を打っていた。
どう転んでも、私は技工士になるようにしてあった。
そして、1971年になった。
受験し、どういうわけか合格した。
学校に附随している寮に入る事になった。
手続きしていると、学校長から呼ばれた。
私は、特別に入学されたらしい。
微妙な色を扱う専門職でもある。
程度の強い色盲はもちろん不可。
私のような色弱も不可だった。
だが、時代は諸々の開放を求めていた。
学校も、特別な試しとして私を入れた。
学校側も、使えるのか判らないのだ。
長い歴史の中で、私は初ケースだった。
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