水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「母のこと・88」

2011-10-21 18:33:48 | Weblog



長兄は地域内で就職したが、家を出ていた。
妹がいたが、おそらく出ていくだろう。
他の兄姉も東京だった。
子供がいなくなるのは、母にとって淋しいだろう。
まして、子供が生きがいのような母だったのだ。

だから、私が地元の歯科医院に勤めるなら大賛成だ。
特にアレコレ口は出さないが、嬉しいようだった。
私も生きていく場所に、特にこだわりはない。
地元でもいい。
だが、家に入るつもりは無かった。
近くても、家から出たい。

昔の家だ。
プライバシーの部屋などない。
そして、この頃は父が帰ってきていた。
父と暮らすのは、とても出来そうにない。
父を憎んでいたのだ。

        
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「母のこと・87」

2011-10-20 18:18:44 | Weblog



歯科技工士。
好きも嫌いもない。
そんな職業がある事すら知らなかった。
返事は即答。
いいよ。

目標がないのだから、何だっていい。
とりあえず、2年間(今は3年間もあり)は学校だ。
受験に受かればだが・・・
一応、当時日本一の技術力の学校を受ける。
倍率は4倍強だった。
落ちても、滑り止めがあった。

今は受験科目が少ないが、当時は一般教養科目があった。
しかも5教科くらいあったような・・・
そして、工作と面接。
結構厳しい受験だったようだ。
だが、私は相変わらずピンときてない。
別に落ちてもかまわない。
なりたい職業でもなかったのだから。

        
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「母のこと・86」

2011-10-19 18:42:06 | Weblog



学校側も迷っていた。
試験的に授業科目のほとんどを選択性にした。
私は体育や音楽などがある時は選択した。
すると5日間で8体育になった。
音楽や研究教科は寝ていた。

大阪の万博が盛り上がっていた。
ハイジャックも流行っていた。
ボーリングも流行っていた。
歌謡曲も盛況だった。
テレビ中継中、三島由紀夫が割腹自殺をした。

秋になり、叔母(母の妹)が話を持ってきた。
昔、叔母が家政婦をしていた子が歯科医になった。
医院を新しく大きくするのに、技工室を自前で作りたい。
そして歯科技工士もスタッフにしたい。
スポンサーになるから、学校に行ってくれないか?

        
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「母のこと・84」

2011-10-17 20:09:38 | Weblog

「母のこと・85」

自分を探す、なんてカッコイイ話じゃない。
自分の不安、決断力の無さ、無知を見る。
否応無く、ダメな自分を見る。
こんなに、自分は頼りないのかぁ・・・
それでも、一人で動くより仕方ないのだ。

このマゾにも似た行為は、その後も続いた。
毎年のように、一人旅をした。
働くようになってからもした。
山登りに魅かれていったのも、同じ理由からだろう。

山は特にだ。
自分の足以外に頼るモノがない。
登ったら降りきるまで、自分以外いない。
どんなに頼りない自分であっても、自分しかいない。
弱音の自分と向き合いながらも、最後まで自分の力しか使えない。
私のようなナマケモノは、そうでないと動かない。

        
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「母のこと・83」

2011-10-16 20:38:32 | Weblog



高校一年生の時は、何とか大学に進学。
そして、一応新聞記者になってみたい・・・
強い目標ではなかったが、そんな思いもあった。
ところが二年生時で、社会と大学(勉強)の矛盾に愛想が尽きた。
大学に行けば、よりロクデナシになるような気がした。

何処を歩いても自分次第なのだが、当時は環境のせいにしていた。
社会が、学校が、先生が、オトナが、政治が・・・・
なんだかんだでも、アンポ紛争というのは影響があったのだ。
山の中から出て、イキナリ社会の裏側(ほどじゃない)に触れたのだ。
先生と名がつけば、エライと思っていたのに・・・

その後の人生で、我が同級生の特徴がある。
何割かは、破滅型になっていた。
どうせ、社会はひっくりかえる。
どうせ、この世はウソの舞台。
どこか、そんな風に思って生活しているフシがある。
その気持ちが私にもあるのは自覚している。

        
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「母のこと・82」

2011-10-15 19:19:20 | Weblog



勉強も部活もやる気なし。
といって、一部の活動学生ほど政治に参加もしない。
成績は悪くなく、体育関係は好きだった。
何事も良くも悪くもなく、友達もそれなりにいた。
特に目立つ事もなく、特に落ち込む事もない。

修学旅行は京都奈良。
仲のいいグループで自主的にまわる。
私は、いつも5~10人くらいの同級生仲間がいた。
面白可笑しく、楽しく過ごしていた。
今思えば、友達の少ない同級生はどうしていたのだろう。
他の人の思いなど、あまり関心がなかったようだ。

そのまま1970年になった。
進学希望者は、本気にならないと大変な年。
我が校は、イマイチのんびりしている進学校だった。
いつの間にか、私も三年生になっていた。
休みはアルバイト・・・
卒業後の予定はなかった。

        
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「母のこと・81」

2011-10-14 18:35:49 | Weblog



目標が見つからないまま流れていく。
そういう生き方を40歳までしていた。
もっとも、目標を見つける人は少ない。
目標は見つけるより、見つかってしまうのかもしれない。
出合ってしまうのかもしれない。
肩の力が抜けないと出会えないかもしれない。

高校二年生で、すでに流されるままになった。
相変わらず、母や他の兄姉も将来に口を出さない。
思い出した。
中学三年時に一度あった。

高専に進んで技術を身につけたらどうか、と長兄が言った。
私は別に異論はなかった。
1月になってから、私は受けられない事が判った。
当時色弱は入学できなかったのだ(今は不明)。
で、急遽、今の高校に入った。
進学するつもりは、無かった。
やりたい職業も無かった。

        
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「母のこと・80」

2011-10-13 19:41:15 | Weblog



この頃の母の思い出はあまりない。
社会の出来事に関心が向き始めた時期だ。
というか、日本全体(世界も)が渦になっていた。
学生が社会に参加して、社会のあり方を議論し主張していた。
大学から、多くの高校へと議論と参加の渦は広がっていた。
そのうねりに多くの国民も巻き込まれていた。
いろいろな意見があるが、学生に好意的な情勢だった。

私には元々たいした目標があったわけではない。
その上で、社会という土台が崩れたと感じていた。
なおさら、将来の目標を見つけられないでいた。
一応進学を目指す普通高校なのだが、私にその気はなかった。
社会の偉い人、というのが、ツマラヌ人にしか思えなかった。
(まぁ、今でも、無条件にそう思うところがあるなぁ・・・)

同じ組でも、しっかりしている同級生はいるものだ。
私などより、ずっと自分の考えを持っていた。
私は誰かの主張をそのまま鵜呑みで話していた。
だが、自分の言葉で話す同級生がいた。
自分の目標に向かう同級生がいた。
社会がどうであれ、真っ直ぐ進む勇気があった。
素朴出身の私は、とても幼かった・・・

        
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「母のこと・79」

2011-10-12 21:11:57 | Weblog



記憶力が良かった時期なのか。
毎日が濃かったからなのか。
1969年は、思い出が感覚的だ。
(さらに数年間も憶えているけど)
安田講堂の映像。
美濃部都知事の顔。
ホンダ1300のスマートなセダン。
月面撮影映像。

例えば歌。
今でも、ほぼ、全ての歌を歌手の姿と共に憶えている。
いしだあゆみのブルーライトヨコハマ。
やたら暗い、カルメンマキの時には母のない子のように。
イロっぽいというか、奥村チヨの恋の奴隷。
自分でも弾いた、千賀かほるの真夜中のギター。
フォーククルセイダーズ出身はしだのりひこの風。
トアエモアのある日突然。
青江三奈、森進一、クールファイブ、東京ロマンチカ。

学生だけじゃなく、国民の生命力が高い時だったのだろう。
映画、テレビドラマ、バラエティ、マンガ、ラジオ深夜番組。
どれも、熱気があり、面白かった。
問題だらけ、混乱だらけだったが、日本中に活気はあった。
反骨という意識が庶民国民にはあったからだろう。
不満なのに政治に追順するようでは、生命力も落ちるさ。

        
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「母のこと・78」

2011-10-11 18:13:06 | Weblog



二年生になった1969年。
我が高校も紛争に入っていった。
団交と称して講堂で先生と生徒の議論となる。
もちろん授業無しで、何時間もしていた。
我が高校は、結構バリバリだったのだ。

勉強はしなかったが、本は読んだ。
多分、私の一生で一番記憶力が良かった年だろう。
速読でも、何ページの何行目、何文字目を憶えていた。
教科書は小説ほどではなく、多少時間がかかった。
それでも、単純な暗記なら三日で何とかなる。

何故一年もかけて授業するのか、と思ったりした。
(すいません・・・かなり生意気でした・・・)
だが、そんなモノは簡単に忘れる。
私は憶える事以上に、忘れる能力が優れていた・・・
ピークは高校二年生で、あとはひたすら下降していった・・・

もちろん今では、今読んでいる本の作家名さえ忘れる。
本妻を忘れ、他の人妻と間違う・・・
あれぇ?いつ、こんなに痩せたのだろう・・・
(相手を気にしないという性格もあるけど)
このように、記憶など誰でも必ず衰える。
時には、時々、頻繁に、常時、ボケる。
勉強で憶えた事など、ほとんどが空しいものなのだ。
あまり懸命にするようなモノじゃない、と思うぞ。

        
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