陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

エリザベス・ボウエン 「悪魔の恋人」その1

2008-07-21 23:26:20 | 翻訳
今日から5日くらいをめどに、エリザベス・ボウエンの怪談「悪魔の恋人」を訳していきます。もう暑いのであまり面倒なことは考えたくない。ありきたりの怪談です(笑)。
まとめて読みたい人はそのくらいに来てみてください。
舞台は第二次世界大戦中のイギリスです。

原文はhttp://members.lycos.co.uk/shortstories/bowendemon.htmlで読むことができます。


The Demon Lover
(悪魔の恋人)

by エリザベス・ボウエン


 ロンドンでの一日も暮れ方になって、ミセス・ドローヴァーは閉めておいた家へ立ち寄って、必要なものをいくつか取ってこようとした。自分のものもあれば、家族のものもある。家族はいまでは田舎での生活にすっかり慣れていた。八月も終わりが近い。にわか雨の降ったりやんだりする、むしむしとした一日だった。

折りしも、舗道に沿った並木は、雲間からのぞく潤んだような黄色い夕陽にきらきらと輝いている。すでにうずたかく積み上がった墨で染めたような雲を背に、崩れかけた煙突や欄干が浮かび上がっていた。歩き慣れたはずの通りだったが、まるで誰も通ったことのない道にいるようで、なんだかおかしな気配に充ち満ちているような気がする。一ぴきの猫が柵を出たり入ったりしていたが、戻ってきたミセス・ドローヴァーを見ている人の目はなかった。小脇に抱えたいくつかの包みを持ち替えて、固い掛けがねに鍵を押し込んでそろそろと回し、ゆがんだ扉を膝で押して開けた。足を踏み入れると、よどんだ空気が鼻を突く。

 階段の踊り場の窓には板を打ち付けておいたので、光の入らない玄関は暗かった。だが、ドアがひとつ開いているのが見えたので、いそいでその部屋に入り、大きな窓の鎧戸を開けた。もはやロマンティックな気分も枯れ果てた彼女だったが、自分の周りを見回しているうちに、これまでなじんできたものひとつひとつが、以前の長い生活習慣の痕跡となって、思いがけないほど心を乱すのだった。黄色い煙が白い大理石の暖炉を染めていたし、書き物机の上には、丸い花瓶の跡が残っていた。壁紙の傷は、勢いよくドアをあけるたびに、陶器製のドアノブがぶつかるからだった。ピアノは、いまは別のところで保管しているのだが、床の寄せ木細工には爪痕のような傷が残っている。埃はそれほど積もってはいなかったが、埃とはちがう、何か覆いのようなものがあらゆるものをすっぽりと包み込んでいた。唯一の換気は煙突を通じるしかないために、客間全体が冷えた灰のようなにおいがした。ミセス・ドローヴァーは包みを書き物机の上に置き、部屋を出て階段を上っていった。必要なものは寝室のタンスのなかにある。

 家がどうなっているか、ずっと気になっていた。近所の人たちと共同で依頼したパートタイムの管理人は、今週は休暇で出かけてしまって、まだ戻ってこないことはわかっていた。どんなによく見積もったところで、管理人がそんなにしょっちゅう見回りに来てくれるはずもない。だから彼女もそれほど管理人をあてにしていたわけではなかった。内側には亀裂がいくつも走っているが、これはこの前の空爆の名残だ。彼女は気遣わしげな目でそれを眺めた。何もできはしないことはわかっていたが。

 玄関に屈折した日の光が差し込んでいる。玄関のテーブルに目を留めた彼女は、ぎょっとして立ちすくんだ――そこに彼女あての手紙が載っていた。

(この項つづく)