陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

嫌いというのはむずかしい(※ちょっとだけ補筆)

2008-07-07 23:00:10 | weblog
昨日、『徒然草』に出てくる芋の好きなお坊さんの話をちょっと書いた。
これは中学の時に大根が助けてくれる話などと一緒に授業で教わって、先生が、小林秀雄はいろいろを格調高げなことを言ったが、結局、吉田兼好はおもしろい話が好きな人だったんじゃないか、と言っていたのを思い出す。

この大根が助けてくれる話というのもおもしろい。
大根が体にいいから、というので、毎朝二本ずつ食べている筑紫の役人がいた。その役所にあるとき敵が攻めてきた。すると、どこからともなくふたりの武士があらわれて、その役人を助けてくれた。追い返したあとに、だれかと尋ねると、毎朝食べてくれている大根である、というのだ。大根にしてみれば、自分を信じて毎日食べてくれる人の危機を放ってはおけずに出てきた……というのも、なんとなくつじつまの合うような、合わないような話である。「大根の神様」みたいな人(?)がいたのだろうか。

それにしても、『徒然草』には栗だの芋だの大根だの、何かを好きな人の話はよく出てくるが、兼好自身であれ、ほかの誰かであれ、何かを嫌う人の話は出てこないように思う。もちろん「わろし」とか「見苦しけれ」などと評されるような行為はいくつか出てくる。けれども『枕草子』のように「憎きもの」というかたちで「これが嫌い」とはっきり言い切ることを兼好は避けている、とまでいうと、言い過ぎになってしまうだろうか。

何かを嫌うというのは、好きになることにくらべてむずかしいような気がする。
『枕草子』で「憎きもの」とされているのは、急ぎの用事があるときに長居をする客だとか、髪の毛が硯に入るときとか、文句のつけようのない、誰でも納得ができるようなものだ。清少納言は歯切れの良い文体と、新鮮な視点でそれを書き表したけれど、日常で誰でも納得ができるような「嫌いなもの」というのは、別にことさら言うほどのものでもないのかもしれない。
「わたし、スーパーで使い終わったかごを、置きっぱなしにしている人、大嫌い」
「駐輪場で自転車をちゃんと留めない人、大嫌い」
「映画館で携帯を開く人、大嫌い」
それはそうだ。誰でもそうだ。そうして、そんなことを言っていったい何になる、という種類の言葉のように思える。

一方、あの作家が嫌い、とか、あのバンドが嫌い、とか、あきらかに好きな人がいるものに対して「嫌い」といいたくなるようなときがある。そういうのは、ほんとうにむずかしい。好きなものが、結局のところ「好きだから好き」としか言えないように、嫌いなものも「嫌いだから嫌い」としか言えないのだ。けれど、多くの場合、「嫌い」と口に出して言う人は、相手に自分の「嫌い」を共感してほしがっているように思う。そうしていくつも嫌いな理由をあげる。何かを好きな人が、その対象とのあいだの絆だけで満足できるのに対して、嫌いな人は、対象を自分の世界から排除するだけでは飽きたらず、周囲にもそれを求めるような気がするのだ。
おそらく何か、誰かを好きになる、というのは、究極的にはそれを自分だけのものにしたい、という願望にいきつくのに対し、嫌いになる、というのは、この世から抹殺したい、という願望にいきつくからなのだろう。

この「嫌い」な理由というのも、なかなかやっかいなもので、「好き」という気持ちがその対象を「好き」ということばですっぽりとくるみこんでいくのに対して、「嫌い」という気持ちは、その対象のある部分を取り上げて、全体に敷衍する。そのとき一種の決めつけが起こってくる。根本にあるのが「嫌いだから嫌い」という非論理的な感情でしかないのに、それで人を説得しようとして論理の衣をまとおうとして、結局はある種の決めつけをすることになってしまうのだ。

しかも、嫌いというのが「その存在をこの世から抹殺したい」というネガティヴな感情だけに、最初から自分と気持ちを同じくする人と運良く(?)巡り会えれば、悪口大会で盛り上がることもできるのだろうが、そうでない人にしてみれば、「かくかくだから嫌い」「しかじかだから嫌い」と延々と言われるうちに、だんだんわずらわしくなってくる。何かを好きな人が、周囲を明るくするのと逆に、「嫌い」「嫌い」と言っている人は周りを暗くする。

以前「Aさんってどうして自分の考えを押しつけるんだろう」とさんざん人をなじっておいて、その舌の根もかわかないうちに「わたし、トマトの皮は口の中に残るから嫌いなのよね。なんでそんなものあなた平気で食べられるの?」と言う人がいて、たったそれだけのことなのに、なんとなく、ひどくいやな気分になったものだった。

誰でも好きなものがあるように、嫌いなものもあるだろう。
だが、自分が嫌いなものを好きな人もいる。「嫌い」と言い切ってしまうことは、自分が嫌いなものと深い絆を結んでいる人を否定することにもなる。

嫌いなものがあるのは仕方がないが、「嫌い」という感情は、「好き」にくらべてずいぶんやっかいな、取り扱いに慎重さを要求される感情なのだろう。

だから、おもしろい話が好きだった兼好法師は、何かが嫌いな人の話は「榎木僧正」ぐらいしかなかったんじゃないだろうか。

公世の二位のせうとに、良覚僧正と聞えしは、極めて腹あしき人なりけり。

坊の傍に、大きなる榎の木のありければ、人、「榎木僧正」とぞ言ひける。この名然るべからずとて、かの木を伐られにけり。その根のありければ、「きりくひの僧正」と言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを堀り捨てたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池僧正」とぞ言ひける。
(「徒然草 第四十五段)

嫌いなものを、仮に目の前から排除しても、かならずその後釜はやってくる。あれが嫌い、これが嫌い、と言っていたら、そのうち世界は嫌いなものだらけになってしまうだろう。嫌いなものをうまく嫌う、それからさらりと身をかわす。好きになることが特に訓練を要求されないのに対して、うまく嫌いになることができるようになるためには、自分のなかでその方法を編み出していかなければならないのかもしれない。