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 陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

エリザベス・ボウエン 「悪魔の恋人」最終回

2008-07-26 07:10:18 | 翻訳
最終回


二十五年間が煙のように消えてしまうほどのぞっとするほど生々しい感じがよみがえってきて、半ば無意識のうちにボタンをてのひらに押しつけたときに残ったみみず腫れの痕を探した。彼が言ったことや、その動作ばかりでなく、あの八月の一週間の、まるっきり宙に浮いていた自分をありありと思いだしてしまったのだ。わたし、どうかしてたんだわ――あのころ、みんなそう言っていたっけ。何もかもがよみがえったが、ひとつだけ空白は埋まらなかった。まるで写真に酸を垂らしたところが白く焼けてしまったように。どんな状況であっても、彼の顔は思い出せないのだった。

 だから、どこであの人が待っているにせよ、わたしにはわからないのだわ。顔がわからなくては逃げ出そうにもその時間がない。

 まず、しなければならないのはタクシーをつかまえることだ。それも約束の時間とやらが来ないうちに。こっそりと家を出て通りを行き、広場の角を曲がって、その向こうの表通りに出たらいい。タクシーで玄関のところまで来てもらえれば安心だし、しっかりした運転手に中までついてきてもらって、あちこちの部屋をまわって荷物を運び出そう。タクシーの運転手に来てもらう、という思いつきのおかげで、勇気がでてきたし、大胆にもなった。ドアの鍵を開け、階段のてっぺんに立つと、階下の物音に耳をすませた。

 何も聞こえない――静けさに耳をそばだてていると、階段のかびくさい空気が流れてきて鼻を突いた。地下室から吹き上げられたのだ。下で誰かがたったいま、ドアか窓を開けて、家を出ていったのだ。

 雨はやんでいた。ミセス・ドローヴァーがひとけのない通りへ一歩足を踏み出してみると、舗道は濡れて光っていた。廃墟と化した家並みは、傷ついたまなざしで彼女の顔をじっと見つめている。大通りに出てタクシー乗り場にたどりつくまで、絶対に背後を振り返るまいとした。あたりは静まりかえっていたので――ロンドンの路地はこの夏の空襲のあと、物音ひとつしなかった――どんな足音であれ、耳に入らないはずがなかった。人々がいまでも暮らしている界隈に来ると、自分の不自然な歩調に気がついて、足取りをゆるめた。広場の出口で、二台のバスが無愛想にすれちがう。女たち、乳母車、自転車に乗った人びと、交差点のところで二輪車を押す男、ふたたびありきたりの生活の流れのなかに戻ってきたのだ。広場で一番人の多い一画に、おそらくタクシーを待つ短い人の列があるにちがいないと予想していたのだが、実際にそのとおりだった。

今夜止まっているのは一台だけ――だが、こちらに背を向けた車は、ぽかんと穴の開いたような後部ランプがついていたが、ずっと彼女のことを待っていたような感じがした。それだけではない、彼女が後ろからやってきて、ドアに手をかけるや、運転手は振り向きもせずにエンジンをかけたのだった。彼女が手をかけたとき、時計が七時を打った。タクシーは幹線道路の方に向いていた。家に戻ろうと思えば、車の向きを変えてもらわなければならない――後部シートに乗り込むと、タクシーは何も言わないうちから方向転換した。その動きに気がついて、ぎょっとした。わたしはまだ「どこへ行って」とも言っていないのに。身を乗り出して、運転席と彼女がいる場所を隔てているガラス戸を叩いた。

 運転手はブレーキをかけて急停止した。くるりと振り返り、背後のガラス戸を横に開いた――不意の衝撃に、ミセス・ドローヴァーは前につんのめり、危うくガラス戸にぶつかりそうになった。運転手と客は15センチほどの距離をはさんで、永遠にも思えるほど目と目を見つめ合わせた。ミセス・ドローヴァーの力を失って開いた口から、最初の悲鳴がほとばしるまで、何秒かかかった。それから悲鳴はあとからあとから続き、手袋をはめた両手で、容赦なく加速していくタクシーの窓という窓を叩いた。タクシーは彼女を乗せて、ひっそりした通りを、奥へ、奥へと走っていった。


The End


(※手を入れて近日中にサイトにアップします)

おまけ:昨夜、一応最後まで訳したんですが、ちっとも怖くなかったんで、一晩寝かせました。続けて読むと、ちょっとは涼しくなりましたか?
だけど、これタクシー怪談の元祖ですね。
あっ、最初に「舞台は第一次世界大戦中」と書いたんですが、訂正です。第一次世界大戦から第二次世界大戦にまたがった物語、作品の舞台は、第二次世界大戦中のロンドン空襲のあとでした。でも、こうやってみると、ヨーロッパ人のなかで、第一次世界大戦と第二次世界大戦は、ひとつづきのものと感じられているのがよくわかります。

月曜、ちょっと出かけなきゃならないので、更新は休みます。それまでにサイトに全文掲載したいと思います。今夜は元気があれば(笑)更新します。


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2 コメント

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くわいだん (きの。)
2008-08-01 20:31:42
 こんばんは。きの。です。『悪魔の恋人』読了しました。
 ほー…なんだか日本の怪談のような雰囲気ですね、これは。なかなか面白いです。
 彼女の行動が具体的に語られて、最後は結局捕まってしまう瞬間までの流れは倒叙の推理小説のような雰囲気さえ感じますね。
 この後どうなったのか、それを想像させる部分は特に怪談ぽくていいですね。
 世界大戦という時代が特に暗い雰囲気を醸し出していますし、戦争という「おおっぴらな死」が前面に出ている舞台背景の陰鬱さは不気味です。異形・異界の何者かがいてもおかしくないというかんじですよね。
 僕は不気味さとか後味の悪さがどうも好みのようです(笑)
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日本の夏、怪談の夏 (陰陽師)
2008-08-02 09:41:26
きの。さん、こんにちは。

> ほー…なんだか日本の怪談のような雰囲気ですね、これは。

そうなんです。欧米の怪談って、ちょっと日本人の感覚ではあまりピンと来ないものが少なくないんです。特に、宗教が絡んだりするとね。《エクソシスト3》を見たときにも思ったんですが、これ、きっと欧米の人には怖い映画なんだろうなあ、っていう気がしました。キリスト教が身近ではない日本人にとっては、この映画の、たとえばキリスト教に対する冒涜的な場面を見ても、ひりひりするほどの恐怖感というのは感じようがない。そんなふうに思ったことを覚えています。

そういうのに比べて、このボウエンの作品は、宗教色が出ていない分、日本人にも「怖さ」が伝わりやすいように思います。季節も夏ですしね。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/wallpaper.html
で訳した「黄色い壁紙」も怖いですが、これは後味が悪い。

ボウエンは、後口のすっきりした(笑)怖さです。
気に入っていただけて良かったです。

怖い話はわたしも好きでねえ(笑)。
サイトで訳した「猿の手」も「くじ」も「ミリアム」も好きな作品ですし、ほかにもフィリップ・K・ディックの「変種第二号」とか、ブラッドベリの「骨」とか、できるものなら紹介してみたいと思っているんですけど、さすがにネットで原文が読めるところがなくて。

また、何か見つけたらやってみます。
そのときはよろしく。
最近、シャーリー・ジャクスンを見つけたので、そのうち訳してみようと思っていますが、これはそこまで怖くない。彼女らしい(「くじ」よりも)よくわからない、霧に包まれたみたいな雰囲気はあるんですが。

感想を聞かせてくださってありがとうございました。
また遊びに来てくださいね。
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