陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

狐のようで獅子のようで犬のような人の話

2008-07-09 22:39:42 | weblog
直喩、というとなんだかものものしいが、比喩(たとえ)のうちで最も身近なものである。「ナントカのようだ」という言い方が「直喩」である。

佐藤信夫の『レトリック感覚』のなかには、モンテーニュの『エセー』から、こんな文章が引用されている。
 法王ボニファキオ八世は、狐のようにその地位につき、獅子のようにその職務をおこない、犬のように死んだという。
(『エッセー』II)
 十三世紀から十四世紀初頭にかけて西洋史をにぎわせたこの勇ましいローマ法王(教皇)の生涯を二行ほどに要約しようとすると大変だ。なにぶん派手な活躍をした人物だから、百科事典類もかなりの行数をさいているだろう。その生涯を、このたとえは簡潔に、生き生きと伝えている。科学的に正確というわけではないが、印象的にはきわめて正確だと言ってもいい。くどくど説明しなくても、くだんの法王の登場のしかた、全盛時代の勢い、そして世を去るころの姿が、なんとなくわかってくるからおもしろい。
(佐藤信夫『レトリック感覚』)

さて、わたしはこの部分を読んで、以前からひどく気になっていた。「狐のようにその地位につき」というのはいい。「狐」という言葉が表すのは、「抜け目なさ」とか「ずるがしこさ」といったものだろうから、その地位に就くのに、さぞかし権謀術策を弄してその地位に就いたのだろう。

「獅子のようにその職務をおこない」というのも、なんとなくわかる。獅子といえば「百獣の王」だ。アンソニー・マーカタンテの『空想動物園』には、「百獣の王」にまつわるこんな話が採録されている。
 一頭の獅子が狐やジャッカルや狼と共に狩りに出かけた。一行はとうとう雄鹿を見つけ、襲いかかって殺した。四頭の獣は、息絶えて横たわっている雄鹿を真中に挟んで、雄鹿をどのように分配すべきかについて各自思案した。
「この鹿を四つに切れ」と獅子は吼えた。
 他の獣は、獅子のこの一声に従順に従って雄鹿の皮を剥ぎ、四つに切り分けた。すると獅子は死骸の前に立った。
「四切れのうちの一つは、百獣の王たるわが輩のものだ」と獅子は言った。「もう一つは、鹿を分配する問題をこうして調停したわが輩のものだ」――さらに続けて、「三つめは、この鹿の追跡に加わったわが輩のもの。四つめは、お前たちのうち誰一人として敢えて手をつける奴はおるまい」
この“故事”から、分け前と称しながら全部を一人占めすることを「獅子の分け前」(the lion's share)と言うようになったのである。
(アンソニー・マーカタンテ『空想動物園 ―神話・伝説・寓話の中の動物たち』中村保男訳 法政大学出版局)

この話は『イソップ物語』にも「東洋(オリエント)の物語集」にも収録されている、とあるのだが、おそらくモンテーニュの言う「獅子のようにその職務をおこない」というのにもこの「獅子の分け前」の故事がふまえられているにちがいない。

では、「犬のように死んだという」のはどういうことなのだろう。
わたしが気になるのはこの点なのである。

「犬死に」ということばが日本語にある。おもしろいことに、英語にも" die like a dog "というイディオムがあるのだが、これは「犬死に」=無駄に死んでしまうという意味ではなく、惨めな死に方をする、という意味である(これは「引っかけ問題」としてよく出るので受験生は覚えておこう。ためになるブログだなあ)。
ついでにいうと、dog には、良くないというニュアンスがあって、"go to the dogs" というと「堕落する」という意味だし、"lead a dog's life " というと、「惨めな暮らしをする」ということだ。
だが、こういうイディオムが、モンテーニュの生きていたフランスにあったのかどうか。
マータカンテの本を見ても、犬の死をめぐる逸話は紹介されていないのだ。

かくなる上は、実際のボニファキオ八世を見るしかあるまい。
ボニファキオ八世というのは、ふつう西洋史ではボニファティウス八世と言われる人物である。
「Wikipedia ボニファティウス八世」の項目を見ると、いきなり「フランス王と争い、晩年のアナーニ事件後、憤死する。」とある。
どうやらボニファティウス八世は、ローマ教会が、権力の最盛期だった時期の最後に、教皇の地位についた人物らしい。国王の権力の拡張をもくろむフランス国王と争って破れた。そうして虜囚の辱めを受け、救出されたもののその三週間後に亡くなったのだという。
これはまさに英語のイディオムそのままの状況、惨めな死を迎えたというわけだ。

だが、狐と獅子が日本語で受ける印象とさしてかわらないのに、最後の犬だけがちょっとちがうというのも、おもしろい。マータカンテの本を見ても、「犬」のイメージは、良いものから悪いものまでさまざまにあって、統一したものがない、というのは、それだけ犬が身近な生き物だということなのだろうか。