陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

友だちの話

2008-07-12 23:28:10 | weblog
他人の目というのはいい加減なもので、どういうわけか小さい頃から「活発」というレッテルを貼られていた。それも同じ年頃の子ではなく、大人の目からそう見えるらしかった。

実際のわたしは、といえば、自分の興味のある話は周囲の誰も興味がないし、人といるよりはひとりで本を読んでいた方がずっと良かったのだが、学校でも、休憩時間に教室や図書館で本を読んでいると、どうして友だちと遊ばないの、と先生が聞いてくる。下手をすればそんなことぐらいで親が呼び出しを喰らう。そのあと、親からも、友だちがどれほど大切か、延々とお説教まで喰らうことになる。仕方がないから、帰る方向が同じ子や、たまたま同じ班になった子、席が隣になった子と「友だち」になった。自分がしたい話をすると、たいてい相手はあからさまにいやな顔をするので、いつも相手の話を聞いていた。適当に相づちを打って、話を整理してあげると、相手は喜んで「親友」と呼んでくれたりして、それはそれで楽しくないわけではなかった。

それでも、相手に合わせているという感じはぬぐえず、ひとりになるとホッとした。そんなふうに感じる自分が、ひどく欺瞞的で、人前で「良い人間」を演じているような気がして、いやでたまらなかった。だからよけいに、こんなわたしでも受け入れてくれる相手は大切にした。どこかで「友だちはいなくてはならないもの」という固定観念もあった。

自分はだれともちがうという自意識と、自己嫌悪のあいだを行ったり来たりする、おそらくその意味ではむしろ平凡だった十代二十代を過ぎて、学生時代を終えてしまえば、日常的に接する「友だち・知人」の絶対数が一気に減ることになる。ところが、そうなってくると、これまで意識されなかった人びととの関係ができてくるようになった。職場、近所や地域、自分が責任を負ったり、何らかの役目を果たすことが求められたり。その責任や役割に付随して、それぞれの相手と「関係」を築いていかなければならなくなる。

それまで、わたしは「自分」-「他人」という世界に生きてきて、それではよくないから、「他人」のなかに「友だち」というカテゴリーを作って、なんとかそういう人と関係を絶やさないように苦労してきたわけだ。けれども、そういう責任や役割主導の関係は、別にその相手と関係を持ちたいわけではない。それでも、そういう関係を、否応なく築いていかなければならない相手と、責任や役割を媒介としながら関係を続けていくうち、こちらが自然にありがたいと思えるようなこともあったし、感謝されたりすることもあった。世の中には、「他人」と「友だち」だけではなく、さまざまな人がいて、さまざまな関係を自分が築いていかなければ社会生活が営めないのだ、ということを理解するようになったのである。

わたしには、いま、さまざまなレベルで自分が責任を負っている人びとがいる。会って話をすることを楽しみにしている人もいる。その人から学びたいと思う人もいれば、何をおいても元気でいてくれるだけでいい、と思う人もいる。

それが「友だち」なのか、「知人」なのか、相手は自分のことをどう思っているのか、そんなことはどうでもよくなってしまった。
これが成長ということなら、わたしは成長によって、少し、自由になったような気がする。