陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

それ以外が読む『悪女入門』

2008-07-15 22:53:02 | weblog
以前「愛されてお金持ち?」というログで、本を読むときは、「タイトルに注意する」ことがきわめて重要であることを書いた。ただ、そのなかで『モモレンジャー@秋葉原』(鹿島茂 文藝春秋社)という本のように、どれほどタイトルに注意を払っても、内容の想像が困難な本もあることは、一応ふれておいた。

M.J.アドラーとC.V.ドーレンは『本を読む本』のなかで、「表題をよく読めば、読みはじめる前にその本の基本的な情報を得ることもできるはずだ。」と言っているのだが、このたび、タイトルと内容が合っていないのではないか、というより、表題を読むことによって、まちがった情報を得てしまうような本を読んでしまったのである。著者は上でもふれた鹿島茂である。

鹿島茂は従来『馬車が買いたい!』『明日は舞踏会』『デパートを発明した夫婦』『子供より古書が大事と思いたい』…といった具合に、「表題をよく読むことによって、その本の基本的な情報を得ることができる」タイトルをつけていた。ところが『パリ五段活用』『文学は別解でいこう』あたりから、なんとなくよくわからなくなってきて、『モモレンジャー@秋葉原』あたりになると、いったい何のことやら……と首をひねりたくなってしまった。そうして今回の『悪女入門』である。

これは「悪女」を志す女性が読むための書物であろう、と、悪女を別に志していないわたしは、久しく敬遠していたのである。
表には「男を破滅させずにはおかない運命の女 femme fatale ――魔性の魅力の秘密は何か。宿命の恋の条件とは。フランス文学から読み解く恋愛の本質、小説の悦楽」と紹介文が書いてある。ううむ、魔性の魅力の秘密も、宿命の恋の条件も、恋愛の本質(わたしはあまり「本質」ということばが好きではないのである)も、あまり興味があるとは言い難かったが、「フランス文学から読み解く」に引かれたのである。

読んでみると大変おもしろいばかりでなく、得るところの多い本だった。エミール・ゾラの『ナナ』においては、主人公ナナが作品の進行とともに、近代資本主義のメカニズムそのものと化していく、という指摘があって、ここを読んだわたしは、おお、と思わず膝を打ってしまったのである。もっと早く読んでおくべきだった、と後悔しきりだった。

だが、一読後、首をひねったのである。
いったいどこが「悪女入門」?
図書館でこの本の背表紙をながめながらいままで手を出さなかったのは、ひとえにこのタイトルだったのだ。確かに「悪女」はたくさん出てくる。さまざまな作品におけるさまざまなタイプの「悪女」をとりあげ、彼女たちが作品の中で果たす役割が考察されている。ところがそれを読んだところで、悪女道、みたいなものが仮にあるとして、入門できるとも思えないのである。

ところで、鹿島茂の本にはときどきモモレンジャー対ウッフン、という対立の図式がでてくる。

モモレンジャーというのは、「秘密戦隊ゴレンジャー」を嚆矢とする戦隊もののなかで、紅一点の「モモレンジャー」を男の子に混ざってやりたがる女の子のことである。
彼女らは子供時代、一緒に遊ぶ男の子たちから、とにかくモテる。ところが彼女たちのモテ期のピークはその時期で終わり。思春期を過ぎたあたりから、男の子たちは、先天的に男を蠱惑する術を備えた、百パーセント女である女の子(鹿島茂は「ウッフン」と命名している)のほうに吸い寄せられていく、というのである。
 私はこうした状況を観察していて(…)、ゴレンジャー・ガールたちに、なんとかスーパー・ウッフンの高度な誘惑技術を学ばせる方法はないかと考えました。なぜなら、シモーヌ・ド・ボーヴォワールが『第二の性』でいみじくも言っているように、「女は女として生まれるのではなく、女になる」のですから、ただ肉体的に女として生まれてきたというだけでは、誘惑術は身につかないからです。どこかで、それを後天的に学習することが必要となります。とりわけ、先天的にそれを欠いているゴレンジャー・ガールには学習が不可欠です。人間としての魅力という点からミルと、ウッフンよりもゴレンジャー・ガールのほうが魅力のあるケースが多いのに、結婚までこぎつけないどころか、恋人もできないとは、あまりにもかわいそうです。なんとか、彼女たちが誘惑術を無理なく学べる方法はないものでしょうか?……

フランス文学を勉強するといったのでは、欠伸をしてしまう女子学生も、ファム・ファタルの誘惑術ということなら身を乗り出すにちがいありません。なにしろ、それを学びさえすれば、ゴレンジャー・ガールもスーパー・ウッフンに変身できるのですから。
(鹿島茂『悪女入門』あとがき 講談社現代新書)

その意図のもと、書かれたのが『悪女入門』である、と書いてある。

なるほど。

だが、モモレンジャーというのは、五人のなかの「紅一点」なのである。残りの四人は男、ということは、男女の人数がほぼ同数であるとすると、女の子の五分の四はモモレンジャーではないのである。わたしもそうだった。わたしのころはもちろん戦隊などというのはいなかったが(じゃないんだろうか?)、「ウルトラマン」の科学特捜隊(だっけ?)にだって、紅一点はいた。おそらくその紅一点をやりたがる女の子だっていたのだろう。だがわたしは全然そういうのとは無関係だった。

もちろんその五分の四が「ウッフン」のはずがない。つらつら考えてみるに、「ウッフン」に該当するような女の子など、これまでわたしの知る限りで、ほんの数人しかいない。わたしの知り合いのなかで、男の子にやたらもてていた女の子は、「ウッフン」というより「わんわん」と言いそうな女の子(なんだか子犬に似ていたのである)だった。さらに小さい頃、自分の家族を除いて男の子が身近にいなかったわたしは、「ゴレンジャー・ガール」にあたる女の子さえ知らないのである。

どうやらこの本は、対象読者を「元モモレンジャー」に置いているようだが、大多数の女性は「元モモレンジャー」でも「ウッフン」でもないのである。まずこの本は対象読者の選定を誤っているように思われる。

二点目。
「それ(※スーパー・ウッフンの誘惑術)を学びさえすれば、ゴレンジャー・ガールもスーパー・ウッフンに変身できるのですから」と書いてあるが、「スーパー・ウッフン」も「場」と「相手」と「本人」の三つの要素が複雑に絡み合って生まれることが、一冊の本を通して、十一の作品と十一人の「スーパー・ウッフン」を通して書いてある。ということは、仮に「誘惑術」を実行したところで、「場」も「相手」も「本人」もまったく無関係にそれを繰り出しては、小学校の騎馬戦に出場した象に乗ったハンニバル将軍のようなことにもなりかねないではないか。

やはりこの本を「ゴレンジャー・ガール」向けの「誘惑術」の本とするのは無理があるように思われる。ここは「フランス文学に見るファム・ファタル」というタイトルにすべきだったのではあるまいか。売り上げには貢献しないかもしれないが、M.J.アドラーとC.V.ドーレンは喜んでくれるように思う。

ところで、わたしがこの本を図書館で読んでいたら、向かいにすわっていたおじさんに、まじまじとタイトルとわたし本人を見比べられてしまったのである。そのおじさんの顔には「無駄なことはやめておいたほうが」という表情が浮かんでいたように思ったのは、かならずしもわたしの被害妄想とは呼べないような気がする。

いや、わたしは別に入門しようとしているわけではありませんから。