陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

本を読む話

2008-07-04 23:09:44 | weblog
先日、すぐ近所の人の家にお邪魔した折りに、思わぬところから重要な話を聞いて、ちょっとメモをとっておきたい、と思った。普段から、本とメモ帳とペンと電子辞書だけは、肌身離さず持って歩いているのだが、すぐ近所であったために、財布もカバンも家に置いたまま、手ぶらで行ってしまったのだ。

記憶力の減退をつとに感じている身としては、いくつかの日付だけでも書き留めておきたかった。そこで、そこに家の人に、紙とえんぴつを頼んだのである。
すると、困った、とその人は言う。もう家には長いこと、ペンも鉛筆もないのよ。確か、ここにあったはず、とあちこち探しても出てこない、あんまり探してもらうのも気の毒になって、だいじょうぶです、覚えて帰ります、と、歌でも歌うように、日付を六つほど頭の中でくりかえし、くりかえし、家に帰ってきた。

家に帰って玄関で靴を脱ぐのももどかしく、カレンダーに覚えている限りのことを書き込んだのは言うまでもないのだが、そう言われてみると、わたしの家には、玄関と言わず、台所と言わず、筆記用具はかならず決まった場所においてあるし、机のなかには鉛筆もペンもボールペンも油性マーカーも色鉛筆もあふれているのだった。

いまでこそ、ちょっとした文章を作るときでさえ、パソコンを開いて、TeraPadを起動する。キーボードを打って、ローマ字を変換し、さらに書いて、読み直してはDeleteキーを押し、また書き直し……と繰り返すのが文章を作るということだ。つまり、「文章を書く」というのは、わたしにとってレトリックになってしまった。

ところが人に向けての文章ではない、自分の私的なメモは、やはり紙に鉛筆がいい。
まとまった文章を書く前の、見取り図や、読書ノート。買い物に行く前のメモにしても、おぼろげな計画にしても。パソコンを起動するまでもない、というだけではない。自分で手を動かしながら、頭の中をまとめていく。

とくに、本を読みながら、メモをひろげて、図形や矢印や英単語や断片を書き付けていく。込み入った本、むずかしい本は、メモと鉛筆がなければ読み進むこともできない。一枚のメモ用紙がいっぱいになると、本のページにそれをはさむ。一冊のあいだに、いくつもはさんだメモがひらひらしている。

そんなメモを取っているとき、わたしはいつも幸田文のこんな文章を思い出すのだ。
 その私があるとき、ひょっと「本を読んでものがわかるというのはどういうこと?」と訊いて、ただ一ツだけ父の読書について拾っておいたことばがある。――「氷の張るようなものだ」である。一ツの知識がつっと水の上へ直線の手を伸ばす、その直線の手からは又も一ツの知識の直線が派生する、派生はさらに派生をふやす、そして近い直線の先端と先端とはあるとき急に牽きあい伸びあって結合する。すると直線の環に囲まれた内側の水面には薄氷が行きわたる。それが「わかる」ということだと云う。だから私は一ツおぼえに、知識は伸びる手であり、「わかる」というのは結ぶことだとおもってい、そして又、これが父の「本の読みかた」のある一部だと思っているのである。
(幸田文『ちぎれ雲』講談社文芸文庫)

博識な露伴と自分の「わかる」が同じものだとは、おこがましいにもほどがあるような気もする。それでも、「つっと水の上へ直線の手を伸ばす」という感じを、わたしには実によくわかるように思える。その伸ばした手を、自分の目で確かめるために、わたしはメモをとる。そうして直線と直線が「牽きあい伸びあって結合する」瞬間を待っている。