陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

エリザベス・ボウエン 「悪魔の恋人」その2

2008-07-22 22:18:29 | 翻訳
その2.

 最初に思ったのは、管理人さんがもう戻ってきたんだわ、ということだった。だが家が閉め切ったままなのに、いったい誰が手紙を郵便受けのなかに入れておくというのだろう? チラシや請求書の類ではないのだ。郵便局ではポストに投函された郵便物はすべて、田舎の方へ転送してくれることになっていた。管理人は(たとえ戻ってきていたとしても)今日自分がロンドンに来ていることは知らないはずだし――いきなり戻ってくることにしたのだ――この手紙を埃まみれのなかに放り出したままにしている管理人のおざなりなやりかたに不快感を覚えた。おもしろくない気持ちでその手紙を手に取ると、切手が貼ってない。だがそんなことはたいしたことではないのだろう、そうでなければ何かわかっているのだろう……。手紙を持って急いで二階へ上がり、明かりをつけるまでそれを開いて読もうとはしなかった。その部屋に入ると、庭もよく見下ろすことができた。木々も草ぼうぼうになってしまった芝生も、薄暮につつまれて煙を通して見ているようだ。気が進まないままもういちど手紙に目をやったが、何かしら詮索されているような、しかもそれをしているのは、彼女のいまの生活をさげすんでいる者のような気がした。だが、にわか雨がまた降りだしそうな気配が強まるなかで、手紙を読んでみた。ほんの数行で終わっていた。
 親愛なるキャサリン
  君は今日がぼくたちにとっての記念日、ぼくたちが言い交わした日であることを、忘れてはいないだろうね。歳月が過ぎていくのはゆっくりでもあり、また速くもある。何も変わっていないという事実からかんがみて、君は約束を守ってくれているものと信じているよ。君がロンドンを離れたのは残念だったが、約束に間に合うよう戻ってきてくれて良かった。だからきっと君は約束の時間にぼくを待っていてくれるね。では、そのときまで……
K 
 ミセス・ドローヴァーは日付を確かめてみた。今日だ。剥き出しのベッドに落とした手紙を、また拾い上げてもういちど眺めた――剥げかけた口紅の下のくちびるが、血の気を失っていく。自分の顔がひどく変わってしまっているのを感じて、鏡の方へ歩いていくと、一部をぬぐって、せき立てられるような、そのくせ盗み見るような思いで鏡のなかをのぞき込んだ。正面に四十四歳の女がいる。無造作に目深にかぶった帽子のつばの下から食い入るようなまなざしがこちらを見ている。ひとりきりで店で食事をすませて店をあとにしてから、お白粉をはたくことさえしていない。結婚したとき夫がくれた真珠のネックレスが、V字にカットされたピンクのウールの薄い胸元に、ゆるくかかっているだけだった。このピンクのセーターは、去年の秋、暖炉をみんなで囲んでいるとき、妹が編んでくれたものだ。ミセス・ドローヴァーがいつも浮かべているのは、心配事を抱えてはいても、抑制し、なおかつそれに逆らおうとしない、といった表情である。三番目の男の子を生んだあとで、重い病にかかり、以来、ときおり左の口角のあたりがけいれんすることがあったが、そういう障りがあるにせよ、彼女の物腰にはいつも、活動的でありながら、同時に穏やかな雰囲気があった。

 自分の顔に見入ったときと同様、そそくさとそれから目を背けると、さまざまな物が詰まっている収納箱のところへ行った。鍵を開けてふたを取り払い、ひざまづいてなかをさぐった。だが、たたきつけるような雨音がし始めると、肩越しに、手紙を置いたままの剥き出しのベッドを振り返って見ずにはいられなかった。滝のようにふりしきる雨の向こうに、いまだ破壊されずに建っている教会の時計が、六時を打つ――そのゆっくりとした鐘の音をひとつずつ数えていると、急に不安が高まってきた。

「約束の時間だなんて……ああ、どうしたらいいんだろう」口に出して言った。「何時だったかしら? どうしたらいいんだろう……? あれから二十五年も経ったというのに」

(この項つづく)