『徒然草』の話はまだ続く(しつこく引っ張るのである。なぜかというと、いま半年前に書いたログを「鶏的思考」にまとめるために書き直しているからなのである。明日ぐらいにはアップしたいものだ)。
一昨日書いた芋の好きなお坊さんの話というのは第六十段に出てくるのだが、この芋好きなお坊さんは、芋好きといって侮ってはいけないのである。「みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠・辯舌、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども」というのだから、芋を大量に食べるスーパーマンのお坊さんバージョンというところだろうか(どうもイメージがひとつにまとまらないが)。
その芋を主食とするスーパーマンの盛親僧都、別のお坊さんに「しろうるり」というあだなをつけた。
「それはいったい何だ?」と聞かれて「自分もそんなものは知らないが、もしあったらあいつの顔そっくりにちがいない」と答えたという。
「そんなものは知らない」ようなあだなを人につけるなよ、とも言いたくなってくるのだが、それでも「しろうるり」といことばを聞くだけで、色白でつるりとしたお坊さんの顔が浮かんでくる。
文学作品に出てくるあだなというと、なんといっても『坊っちゃん』だろうが、わたしは「うらなり」ということばを『坊っちゃん』で覚えた。「うらなり」がいったい何なのか、見たことがなくても、「大概顔の蒼い人は瘠せてるもんだがこの男は蒼くふくれている」という描写だけでなく、「うらなり」という語感で、古賀先生のイメージはありありと思い描くことができたのだ。
ここで「「タコ」という文字や音ではなく」とあるのだが、あだなというのは、この「しろうるり」や「うらなり」の例にもあるように、映像的な要素だけでなく、音の要素が少なくないのではないか、と思うのである。
その昔「タコ」というあだなの女の子がいたが、その子はタコに似ていたわけではなく、名前がタカコだったから「タコ」と呼ばれていた。けれどもこの「タコ」という音の持つ、軽くて明るくて屈託のない響きは、その子に実にぴったりとくるものだったのである。
名前というのは、音として聞くだけでなく、字面で目にすることも少なくない。ところがあだなはほとんど音で聞くものだ。だから名前よりも音との結びつきは深いはずだ。
そう考えていくと、音の響きに類似性を聞き取ってもいいような気がする。
だが、もしその子がカヨコという名前で、「カコ」と呼ばれていたとしたら、やはりその子にぴったりだと思うだろう。
こう考えていくと、わたしたちの感じる「結びつき」というのは、事後的にわたしたちの頭の中で、最初からそこにあったかのように誤認されていくものなのかもしれない。
「寅さん」に出てくる「タコ社長」は、生き物のタコから来ていることは、タコ社長を演じている太宰久雄の姿形から来ているものだろう。わたしたちは「タコ社長」の本名(役名)が「桂梅太郎」だとは知らなくても、「タコ社長」というだけで、誰のことを言っているかわかってしまう。
ところがタカコちゃんの「タコ」の方は、彼女の名前を知らず「タコ」とだけ聞いていても、誰のことかはわからない。ところが両方を知っていると、わたしたちは「ぴったり」と思ってしまうのである。そうして会わなくなって何年も経って、「あの子、だれだっけ、タコってみんな呼んでた子……」として、本名は忘れてしまっても、あだなだけは記憶されていく。
音から来る「ぴったり」という印象は、姿形から来る「ぴったり」よりは結びつきが弱いのだろう。だが、わたしたちの側がその結びつきを見つけだすことによって、あだなと現物は、結びついていく。「しろうるり」のように、いったい何と結びついているのか判然としなくても、音だけで結びつく「あだな」というものがあるのだ。
一昨日書いた芋の好きなお坊さんの話というのは第六十段に出てくるのだが、この芋好きなお坊さんは、芋好きといって侮ってはいけないのである。「みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠・辯舌、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども」というのだから、芋を大量に食べるスーパーマンのお坊さんバージョンというところだろうか(どうもイメージがひとつにまとまらないが)。
その芋を主食とするスーパーマンの盛親僧都、別のお坊さんに「しろうるり」というあだなをつけた。
「それはいったい何だ?」と聞かれて「自分もそんなものは知らないが、もしあったらあいつの顔そっくりにちがいない」と答えたという。
「そんなものは知らない」ようなあだなを人につけるなよ、とも言いたくなってくるのだが、それでも「しろうるり」といことばを聞くだけで、色白でつるりとしたお坊さんの顔が浮かんでくる。
文学作品に出てくるあだなというと、なんといっても『坊っちゃん』だろうが、わたしは「うらなり」ということばを『坊っちゃん』で覚えた。「うらなり」がいったい何なのか、見たことがなくても、「大概顔の蒼い人は瘠せてるもんだがこの男は蒼くふくれている」という描写だけでなく、「うらなり」という語感で、古賀先生のイメージはありありと思い描くことができたのだ。
「善男」とか「正」などという名前をもった悪党もいるだろうし、「美子」という名前の不美人もいるかもしれない。それゆえ、思いを込めてわが子に名前をつけたときの親心とは別に、私たちは、ふだん、人名の意味など無視して暮らしているし、人名が人物に似ている、似ていない、というような意識をいだくこともほとんどない。
ところが、不思議なことに、あだ名は人物に似ていることが多い。「タコ」さんはタコに、たしかに似ている。
もちろん、「タコ」という文字や音ではなく、その意味しているものがその人物に似ているのだ。言いかえれば、隠喩は、名前と現物とを(直接的にではないが)間接的に類似させてしまう手法である。(佐藤信夫『レトリックの記号論』講談社学術文庫)
ここで「「タコ」という文字や音ではなく」とあるのだが、あだなというのは、この「しろうるり」や「うらなり」の例にもあるように、映像的な要素だけでなく、音の要素が少なくないのではないか、と思うのである。
その昔「タコ」というあだなの女の子がいたが、その子はタコに似ていたわけではなく、名前がタカコだったから「タコ」と呼ばれていた。けれどもこの「タコ」という音の持つ、軽くて明るくて屈託のない響きは、その子に実にぴったりとくるものだったのである。
名前というのは、音として聞くだけでなく、字面で目にすることも少なくない。ところがあだなはほとんど音で聞くものだ。だから名前よりも音との結びつきは深いはずだ。
そう考えていくと、音の響きに類似性を聞き取ってもいいような気がする。
だが、もしその子がカヨコという名前で、「カコ」と呼ばれていたとしたら、やはりその子にぴったりだと思うだろう。
こう考えていくと、わたしたちの感じる「結びつき」というのは、事後的にわたしたちの頭の中で、最初からそこにあったかのように誤認されていくものなのかもしれない。
「寅さん」に出てくる「タコ社長」は、生き物のタコから来ていることは、タコ社長を演じている太宰久雄の姿形から来ているものだろう。わたしたちは「タコ社長」の本名(役名)が「桂梅太郎」だとは知らなくても、「タコ社長」というだけで、誰のことを言っているかわかってしまう。
ところがタカコちゃんの「タコ」の方は、彼女の名前を知らず「タコ」とだけ聞いていても、誰のことかはわからない。ところが両方を知っていると、わたしたちは「ぴったり」と思ってしまうのである。そうして会わなくなって何年も経って、「あの子、だれだっけ、タコってみんな呼んでた子……」として、本名は忘れてしまっても、あだなだけは記憶されていく。
音から来る「ぴったり」という印象は、姿形から来る「ぴったり」よりは結びつきが弱いのだろう。だが、わたしたちの側がその結びつきを見つけだすことによって、あだなと現物は、結びついていく。「しろうるり」のように、いったい何と結びついているのか判然としなくても、音だけで結びつく「あだな」というものがあるのだ。