陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

エリザベス・ボウエン 「悪魔の恋人」その4

2008-07-24 23:06:01 | 翻訳
その4.

このような事情で、手紙の差出人が生きているにせよいないにせよ、この手紙がもたらしたのは恐怖以外の何ものでもなかった。やがて、これ以上、ひざまづいた姿勢のままで、背中を空っぽの部屋にさらしたくないような気がして、ミセス・ドローヴァーは収納箱のある場所を離れ、まっすぐな背もたれが壁にぴったりくっついている椅子に腰かけた。使う人もないこの部屋、かつては自分の寝室だったこの部屋も、ロンドンでの結婚生活のいっさいが、ひび割れたカップのように、心を支えてくれる記憶も、蒸発してしまったか、こぼれだしてしまったかで、危機感をかもしだすばかりだった――その危機感を、手紙の主は十分見越した上でしかけてきたのだ。夕刻の空虚な家のなかには、何年も聞こえていた声も、日常の繰りかえしも、足音も、跡形もなくかき消されてしまっている。閉ざされた窓の向こうから聞こえてくるのは、屋根を打つ雨音だけだった。気を取り直そうとして、わたし、いらいらしてるのよ、と言ってみた。それから二、三秒後ほど目を閉じて、手紙なんて、あんなものありはしなかったんだわ、と自分に言い聞かせてみた。だが、目を開けると、ベッドの上にそれはあった。

 その手紙が玄関にあった、摩訶不思議な理由に関しては、絶対に考えまいとしていた。ロンドンにいる誰が、今日、自分がこの家に来ることを知っているだろうか? にもかかわらず、あきらかに知っているものがいた。管理人なら――休暇から戻ってきたら、の話だが――彼女が来ると考えるはずがない。手紙を受け取っても、そのうち折を見て転送するためにポケットへしまっておくはずだ。だがほかに管理人がやってきたことを示す兆候はなかった――もし管理人でないとしたら? 無人の家の玄関に放り込まれた手紙が、飛んだり歩いたりして玄関ホールのテーブルに載ったとでもいうのか。手紙というものは、かならず見つけてくれると信じて、ほこりまみれのからっぽのテーブルの上に鎮座するようなことはしない。かならず人の手を経ているはずなのだ――だが管理人以外に鍵を持っている者はいない。この状況で、この家は鍵がなくても入ることができる、と考えたくはなかった。もしかしたら誰かがわたしを待ちかまえているのかもしれない……一階で。待っているのかも。でも、いつまで? そう、「約束の時間」までだ。だが、それは少なくとも六時ではなかった。六時の鐘はすでに鳴っていた。

 椅子から立ち上がってドアのところへ行き、鍵をかけた。

 問題はここから出ることだ。いったいどこへ逃げたらいいのだろう。いや、そんなことはできない。予定通り、汽車に乗らなくては。家庭生活のいちばん大切な役割を担う、信頼に足る女として、彼女は夫や小さな息子たちや姉の待つ田舎の家へ、取りに来た物も持たずに戻っていくなどということは、したくはなかった。ふたたび収納箱に戻って、手探りしながら、てきぱきと、思い切りの良い手つきでいくつも包みを作っていった。それだけではなく、買い物包みもいくつもあるし、とてもではないけれど持って帰れそうにない――となると、タクシーだ。タクシーのことを思いついたとたんに、彼女の気持ちは明るくなって、呼吸も平静なものに戻った。電話をかけてタクシーを呼ぼう。早く来すぎるなんてことはないのだから。タクシーのエンジンが近づいてきたら、落ち着いて玄関から出ていけばいいのだから。電話をかけよう。いや、だめだ。電話は止めている……。間違ってくくりつけてしまった結び目を、彼女はぐっと引っ張った。

 逃げだそうと思ったのは……あの人はわたしに対して優しくしてくれたことは、ただの一度もなかったからだ。優しかったことなど、なにひとつ思い出せないのだ。お母さんは言ってたっけ。あの男はおまえのことを考えてやしないよ、と。あの男はおまえを狙ってるだけ、それだけさ――愛してなんかいやしない。愛じゃない、相手を幸せにしようとするようなものじゃないんだ。あの人は何をするつもりだったんだろう、わたしにあんな約束させておいて。思い出せないわ。だが、自分が思い出せるにちがいないと思っていた。

(次回最終回 ミセス・ドローヴァーの運命やいかに)