陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

消臭剤が消そうとするもの

2008-07-13 22:57:50 | weblog
買ったことはないのだが、ドラッグストアでは種類も様々な消臭剤が、棚の一角を占めている。よその家の玄関を開けると、最初に気がつくのがその家独特の「におい」なのだが、それが最近では玄関先に置かれた芳香剤のにおいである家も多くなった。それでもそういうにおいだけでなく、やはりその家の奥からくる独自のにおいも混ざっていて、芳香剤が同じでも、家のにおいはそれぞれの家で異なっている。消臭剤を使うというのは、そういうにおいさえ消してしまおうとする意識なのだろうか。

アメリカ人がみんなそうかどうかはよく知らないのだが、わたしの知っているアメリカ人は、男性も女性も、大量のコロンをふりかける。会ってハグでもされたことなら、こちらの服にまでそのにおいが移って、一日中そのにおいが消えないのだ。まるで一日中その相手と一緒にいるようなもので、においがしているというのは、その人間のことをつねに思いだしてしまうということなのだなあ、と思ったものだった。何を使ってるの? と聞いたら、「イヴ・サンローランのクーロスのトワレ」と教えてくれたのだが、未だにクーロスを使っている人とすれちがうたびに彼のことを思いだす。

ただ、こうした香水系のにおいは、そのにおいを知らなければ違和感を覚えるものなのかもしれない。以前、食事に行った先で、ウェイトレスの女性がアラミスのコロンを使っていて、食事をする場で働く人にしてはにおいがきついな、と思っていたら、連れが眉をひそめて「機械油の臭いがする」と言ったのはおかしかった。そのにおいに慣れていなければ、アラミスだろうがなんだろうが「機械油」と同じなのである。以前、夏の満員のエレヴェーターでプワゾンのにおいを嗅いだときには、ひといきれと混じり合って、吐き気すら覚えたものだった。

インド人の近くに行くと、カレーの香辛料のにおいがするし、アラブ系の人の近くでも、あれは何のにおいなのだろう、スパイスによく似た共通のにおいを感じる。同じように日本人も、日本にいる日本人には気がつかないだけで、「日本人のにおい」がするのだろう。

学校はどこの学校へ行っても「学校のにおい」がするし、図書館も、市役所もそうだ。
ふだんは忘れているが、「たとえば盆と春秋の悲願のころに、里にも野山にも充ち渡る線香の煙は、幼い者にまで眼に見えぬあの世を感じさせた」(柳田国男『明治大正史 世相篇』)という文章を読めば、お彼岸に行った墓地に漂う線香のにおいと、お寺の白壁を思いだす。ろうそくのにおいが思いださせるのは教会の内部だ。ミサに参列した経験など数えるほどしかないのに、それも十歳にならないころの記憶なのに、バースディ・ケーキに立てたろうそくに火をつけると思いだすのは、自分の誕生日の記憶ではなく、あの明るい教会の情景だ。

先に引いた柳田の文章はこう続いていく。
休みや人寄せの日の朝の庭を掃き清めた土の香というものは、妙にわれわれの心を晴がましゅうしたものであった。作業の方面においても、碓場・俵場の穀類の軽い埃には、口では現せない数々の慰安があり、厩の戸口で萎れていく朝草のにおいは、甘い昼寝の夢の連想が豊かではあったが、やはり何といっても雄弁なのは火と食物の香であった。冬の林で焚火をして居ると、旅人までが蛾のように寄って来る。
(柳田国男『明治大正史 世相篇』中公クラシックス)

たとえ自分には経験がなくても、なんとなく想像がつくし、自分の経験とも混ざり合い、たとえば夏の朝、ラジオ体操に出かけた神社の境内のにおいや、昼寝から目覚めたときの、庭先のひまわりの太い茎と大きな葉のにおい、夕立のあとの校庭の土のにおい、といったものがよみがえってくるのである。

夕方、家に帰ってくると、各家庭からさまざまな夕餉の支度のにおいがただよってくる。みそ汁のにおい、魚の煮付けのにおい。夏の週末になると、カレーのにおいがあちこちの家の台所から流れてきて、カレーを作ろうかな、と思ったりもする。

さらに柳田の続き。
飲食はこれにくらべるとはるかに外部の人には親しみ難いが、それだけにまたわれわれをして孤独を感ぜしめ、家への路を急がしめる。無始の昔以来、人類をその産土につないでいた力はこれであった。
 鼻は要するにこの力を嗅ぐために具わるといってもよい。

おそらく「におい」というのは、人が生きるということなのだ。そのにおいは消えるものではないし、過去をよみがえらせるだけではなく、おそらく「いま」と「未来」をつなぐものでもあるように思う。