陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

化けるものたちの話(※一部訂正と補筆)

2008-07-11 22:24:15 | weblog
今日、自転車に乗っていたら、目の前をすごいスピードで横切った生き物がいた。右手の溝から体をのぞかせたかと思うと、タタタッと道を渡って左手の溝に飛び込んだのである。その姿を目にしたのはほんの一瞬だったのだが、どう考えてもそれは猫ではなかった。小さくしなやかな体、全身を淡黄色の長い毛に覆われていて、しっぽが太い。全長はおそらく30センチ前後。おそらくフェレットの類だろう。ペットだったのが逃げ出したかどうかしたのだ。

わたしがいる界隈では野良猫すら見かけなくなった昨今なので、野良フェレット(?)が生きていけるのかどうなのかはよくわからない。野良猫がいないことがかえって幸いするのかもしれないし、あのサイズだったらもしかしたらカラスにだって襲われるかもしれない。野良化してどのくらいになるのか知らないが、がんばって生きていくのだよ、と胸の内で声援を送っておいた。

子供のころ、何度かフェレットではなく、イタチを見たことがある。おそらくペットではなく、それほど遠くないところに住み着いていたのだ。わたしが住んでいたところは古い住宅街だったのだが、少し行ったところに木立に囲まれた神社があった。板塀の下をくぐり抜け走っていくその走り方は、人の方を見向きもしない、飼われている猫とも犬ともちがう野生の生き物だった。イタチを見た、と親に言うと、化かされるんじゃないよ、とからかわれたものだった。

キツネやタヌキ、ムジナばかりでなくイタチやカワウソも人を化かすという昔話はよく読んだが、ヨーロッパでは、動物が人を化かしたりしない。中国ではどうなのだろう。キツネやタヌキに化かされるのは、日本人だけなのかしら。

このあいだのモンテーニュの例にもあるように、ヨーロッパでは伝統的にキツネは「ずるい」ということになっている。
マータカンテの『空想動物園』にはユダヤの民話としてこんな話があげられている。
 神エホバが自分の想像した万物を眺めおろしてすっかり悦に入っていると、死の天使がエホバの王座に近づいて来た。
「エホバよ」と死の天使は言った。「あなたはわたしにまだどの生き物も殺させて下さらない。万物がまだ生きている。どうです、生き物を二匹ずつ殺すことを許して戴けぬものでしょうか」
「よかろう」とエホバは言った。「だが、寿命がつきる前に殺してはならんぞ」

 こうしてエホバの許可を得た死の天使は地上に降り、あらゆる生き物を二匹ずつ殺す仕事にとりかかった。やがて死の天使は二匹の狐と出会ったが、二匹ともさめざめと鳴いていた。
「あんたは俺たちの両親を殺してしまった」と狐は異口同音に叫んだ。
 死の天使は狐は一匹も殺していないと言い張ったが、それでも狐たちは本当に父母が殺されたのだと言って譲らなかった。
「まあ、ついて来てごらん」と狐たちは死の天使に言った。「そうすれば、死んだ両親のむくろを見せてあげる」

 死の天使は狐と一緒に池のほとりまで行った。すると狐たちは水ぎわに身を乗り出して、水に映っている自分たちの姿を指さした。
「あれが親父とおふくろだ! あんた、俺たちには手を出さないでくれよ、だって、あんたはエホバに約束したんだろう――寿命がつきた生き物しか殺さないって」
 死の天使は、ずるい狐たちに騙されてその二匹を殺さずに逃がしてやったという。

 このユダヤの民話は、民話の中に出てくる最も根強いモチーフの一つを例示している。そのモチーフとは、狐が他の生き物の裏をかく狡猾さを有しているということであるが、しかし、この評判は、自然科学的あるいは生態学的な事実にもとづいたものではない。それなのに、もう数千年ものあいだ狐は抜け目なさと欺瞞の象徴となって来たのだ。
(アンソニー・マーカタンテ『空想動物園 ―神話・伝説・寓話の中の動物たち』中村保男訳 法政大学出版局)

だが、「だます」というのと、「化かす」というのはちがう。お化粧の上手なお姉さんは、二倍ほど目が大きく見えるようにアイメイクをする。それは「化ける」であって、「だます」ではない(そんなことを言ったらお姉さんに怒られてしまう)。「だます」というのは、その目の大きくなったお姉さんが「父は早くに亡くなり、母は病弱で、弟は医学部めざして勉強している」と言って、鼻の下を長くしたおじさんから「母においしいものを食べさせてあげたいの」といってお金を巻き上げることだ。もちろんその話は嘘で、それでホストクラブに行ってしまうのだ(そこでそのお姉さんはやっぱりホストに「だまされる」)。

西洋の狐は「だます」が「化かさない」。
日本の狐は「だます」こともあれば「化かす」こともあるし、神様の使いにもなれば、人間にこっそり栗や松茸を届けもするし、手袋を買いに行ったり、人間に化けて人間とのあいだに子供を作ることもある。

日本ではキツネやタヌキやムジナばかりではない、鶴だってタニシだって人間になる。ところが西洋では、人間が月を見てオオカミに変身したり、悪い魔女にカエルやろばや野獣や魚や蛇や白鳥、ありとあらゆるものに変えられる。動物が人間に変身するのではなくて、もともと人間だったものがそうした異類に変身させられ、また善なる存在の手によって、人間に戻される。

おそらく人間と動物の位置づけが、西洋と日本ではちがうのだろう。

わたしは小学時代をカトリック系の学校で過ごしたのだが、週に一回ある宗教の時間に、小さい魚は大きい魚に食べられるためにいるのだし、大きい魚はもっと大きい魚に食べられるためにいるのだし、その大きい魚は人間に食べられるためにいるのだ、と教わって、これはきっと神様が葉っぱ一枚一枚をお作りになった、という話同様、おとぎ話だと思って聞いていた。それがやがて、「人間は万物の霊長」であり、卓越した存在であって、あらゆる生物は人間の支配下にある、というのが、おとぎ話でもなんでもなく、西洋の思想の根本にあることをしって、ものすごくびっくりしたのだった。

どちらがいいとか悪いとかいうことが言いたいのではない。ただ、わたしたちはどこかで「ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きているんだ友だちなんだ」(「手のひらを太陽に」)と思っているが、これは日本の伝統的な動物観からくるものなのだろう(この歌詞のもともとは「アメンボ」ではなく「ナメクジ」だったらしい。それを「ナメクジは気持ち悪いから」という抗議を受けて、まどみちおが同じ四つの音からなる「アメンボ」に変更した、と竹内敏晴が書いていた。こぎれいな「アメンボ」ではなく、ミミズやオケラやナメクジという人からいやがられるような生き物「だって」ともだちなんだ、という歌だったのである)。

折口信夫の「信太妻の話」のなかで、浄瑠璃や歌舞伎の演目である「葛の葉」(白狐を助けてやった主人公のもとに、お礼ということで、白狐が「葛の葉」という若い女性に化けてやってくる。ふたりは子供までもうけるが、子の童子丸が五歳のときに「葛の葉」の正体がばれてしまい、葛の葉は「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という歌を残して信太の森に帰る)はずっと実話と信じられていたと言っている。
尠くとも、徳川末期の人々からは、極(ごく)の最近に起つた実話と信じられて居たのである。其実録の方では、常陸稲敷郡の或村の百姓忠七が、江戸からの帰り途、女化原を通つて、一人の女に逢うた。其女を家に連れ戻つて、妻とした処、男二人、女一人の子を産んだ。ある時、添へ乳して寝た中に、尻尾が出た。子供が騒ぐので、為方なく、一首の歌を残して逃げ去つた。
人間に近い生活をしたものとして、最後の抒情詩を記念に止めさすのも、吾々の民族心理の現れだなどゝ、簡単な心理説明では説明はつかない。人間でない性質のある者まで、歌を読み残して居るのである。
(折口信夫「信太妻の話」

悪い魔女が人間を動物に変えてしまい、変えられることばかりでなく、変えられたと見なされる動物をも恐れていたヨーロッパ人たちと、動物たちが自分の意志で人間に変身し、さらには歌を詠んでそこから去っていく、と考えた日本人は、自然に対するものの見方、動物に対するものの見方というものが、根本的にずいぶんちがっていたのだなあ、と思うのである。そうして、おそらくそのちがい、というのは、いまなおわたしたちの内に残っているように思う。

イタチならいざしらず、あのフェレットにはどう考えても化かされそうにないのだが。


(※「しのだ」で変換すると出てくる「信田」でずっとそのまま書いていました。正しくは「信太」でした。訂正しておきます)