陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ぎっくりきた話

2008-05-19 22:57:19 | weblog
ぎっくり腰という言葉を初めて聞いたのがいつか、わたしははっきり覚えている。
小学校三年の時、隣のクラスの先生が「ぎっくり腰」になったから休む、という話を聞いたときだ。「ぎっくり」という言葉がおかしくて、笑ってしまったことまで覚えている。

「宿題をやるから」と親には言っておいて、部屋で江戸川乱歩とかシャーロック・ホームズとかの本を読んでいる、そこへふすまが開く。そんなとき、ほんとうに体が「ギクリ」と反応する。「ギクリ」というのは、うしろめたいことをやっていて見つかったときの自分の反応そのもの言葉だった。そこへ「ぎっくり腰」という言葉を聞いたのだ。

ぎっくり腰、という言葉から、こっそり何か良からぬことをやっていて、それを誰かに見つかって、ギクリ、そこから腰を痛めてしまった隣のクラスの先生……というイメージが浮かんできたのである。おそらく「ぎっくり腰」がどういうものか、もっと詳しくは家に帰って聞いたのだろうが。とはいえ、その先生は、別によからぬことをやっていたのではなく、植木鉢を持ち上げようとして「ぎっくり腰」になったということだった。いまだにわたしは大きい植木鉢を持ち上げるとき、急に立たないように気をつけてしまうのは、「植木鉢」→「ぎっくり腰」という奇妙な因果関係の図式が、わたしのなかではこのとき以来成立してしまったのかもしれない。

それだけ植木鉢に気をつけていたにもかかわらず、数年前、ぎっくり腰になったことがある。ぎっくり腰を表現する言い回しに「魔女の鉄槌」というのがあるらしいが、わたしの場合、一撃というものではなかった。ちょうど夏休みで、近所の人に頼まれてラジオ体操に出ることになったのである。

だいたい早起きの割に低血圧のわたしは、目は覚めていても体の方はなかなか朝早くには動きにくいのだが、そんなことも忘れて、ふつうにラジオ体操をしてしまった。戻ってきて、何か腰のあたりがおかしい、腰に鉄板が入っているみたいだ……と思っていたら、その鉄板がじわじわと拡がって、腰全体が一枚の板のようになった。あ、これはだめだ、と思ってベッドに横になったら、その体勢のままピクリとも動けなくなってしまったのである。「なんかおかしい」から、動けなくなるまで、二時間ぐらいはあったと思う。ともかくそのあいだは足を引きずりながら、よろよろと歩くことぐらいはできたのだった。

ともかくあの痛みは強烈だったために、以来、植木鉢と並んで、早朝のラジオ体操は避けることにしている。もちろんうっかり中腰にならないようにも気を配っている。避けて避けられるものなら、何としても避けたいのが、このぎっくり腰なのである。

だが、人のぎっくり話は楽しい。数日間安静にしておれば良くなることがわかっているから、気安くおもしろがれるという側面があるのだろうが、それだけでなく、おかしさのいくぶんかは「ぎっくり」という語感のおかしさにあるように思う。

自転車置き場で、自転車が将棋倒しになりそうになって、あわてて変な風に体をのばしたら、その瞬間に「ギクッ」ときたという話。二十代最後の誕生日、ということで、友人がお祝いの予定を組んでくれていたのだが、その当日、ベッドで朝、伸びをしたらその瞬間に「ギクッ」となってしまった、という話。駅で杖をついたおばあさんの荷物を代わりに持ってあげて、階段を上っていたら、途中で「ギクッ」となって、そのおばあさんに救急車を呼んでもらった、という話。どれも聞いていたら笑ってしまうような話だ。

もちろんわたしの「ラジオ体操」も、やっぱりおかしい。
病気やけがで笑えることというのも珍しいことで、そういう意味では得がたいものなのかもしれない。休養ができるということに関していえば、これほどの休養もないだろうし。

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