4.「自分だけ」はどこにある?
「自分にしか書けないことをだれにもわかるように書く」
それを目指して、何を書こうかと考える。
ところが、たいていのことは、すでにだれかが考えてしまっている。何かを言っている。
もはや「自分にしか書けない」ネタなんて、この世に存在しないんじゃないか。
あ、そうか、自分に起こったことを書けばいいんだ。世界に一人しかいない自分に起こったことは、どう考えたって、自分にしか書けないもんな。
そう考えて書いていく。
あれ、おかしいぞ。自分に起こったことのはずなのに、なんでこんなありきたりの展開になるんだろう?
この方法が間違っているのは、「自分にしか書けない」をネタに求めた点にある。
ほとんどの小説は「人が生まれました。生きて死にました」という物語だ。それでも、あれほどさまざまなヴァリエーションがあるのはどうしてだろう? ラブ・コメディものの映画は、ほとんどすべてがボーイ・ミーツ・ガール(男の子が女の子に会う物語)だ。それでもだれも飽きずに見るのはどうしてだろう?
それは、語り方が千差万別だからだ。
「自分にしか書けない」もそういうことだ。
内容が「自分にしか書けない」ものではない。多くの場合、それはすでにだれかが考えてしまっていることだ。
そうではなくて、それを「どのように語るか」なのだ。
ありふれたことばを組み合わせる。その組み合わせには、無限の可能性がある。
現代音楽家のジョン・ケージは、対談のなかでこんなことを言っている。
わたしたちが書こうとするのも、これと同じだ。わたしたちはどこかで、書こうとするものが頭の中に存在すると思っている。紙の上に書きつけられて、自分が目で読む以前に、それを知ることができると思っている。
けれども、ほんとうはケージが言うように、あらかじめ頭の中などにはないのではないだろうか。
書きつけた文章を読みなおし、さらに「自分」の気持ちに沿うように、手直しする。そうやってもう一度読む。さらに手直しする。
さらに、ケージのことばはこのように考えることもできる。
わたしたちは、どこかに「確固とした揺るぎのない真実の自分」がいるような気がしている。「自我」と言ってもいいかもしれない。わたしたちの行動は、この自我の思考によって定まっている。
あるいは、「自分探し」ということばにしてもそうだ。どこかに「ほんものの自分」がいると思い、それを探そうとしているのだ。
けれども、「わたし」は孤立して生きているわけではない。
同じ「わたし」が、相手によって、場によって、めまぐるしく変わっていく。言うこともちがえば、言葉遣いだって、動作だってちがう。
それをすべてひっくるめての「わたし」なのだ。
そうした「わたし」を定義づけようと思えば、「○○さんではない」「△△さんでもない」「××さんとはちがう」という形でしか言うことができない。
あらかじめ存在しているわけではない「自分の考え」を、紙の上に書きつけることで、とりあえず世界に出現させる。そこから、「これはちょっとちがう」「これもちょっとちがう」と書き直しつつ、作り上げていく。
そうすることによって、その文章は、しだいに「自分にしか書けないこと」に近づいていく。
(この項つづく)
「自分にしか書けないことをだれにもわかるように書く」
それを目指して、何を書こうかと考える。
ところが、たいていのことは、すでにだれかが考えてしまっている。何かを言っている。
もはや「自分にしか書けない」ネタなんて、この世に存在しないんじゃないか。
あ、そうか、自分に起こったことを書けばいいんだ。世界に一人しかいない自分に起こったことは、どう考えたって、自分にしか書けないもんな。
そう考えて書いていく。
あれ、おかしいぞ。自分に起こったことのはずなのに、なんでこんなありきたりの展開になるんだろう?
この方法が間違っているのは、「自分にしか書けない」をネタに求めた点にある。
ほとんどの小説は「人が生まれました。生きて死にました」という物語だ。それでも、あれほどさまざまなヴァリエーションがあるのはどうしてだろう? ラブ・コメディものの映画は、ほとんどすべてがボーイ・ミーツ・ガール(男の子が女の子に会う物語)だ。それでもだれも飽きずに見るのはどうしてだろう?
それは、語り方が千差万別だからだ。
「自分にしか書けない」もそういうことだ。
内容が「自分にしか書けない」ものではない。多くの場合、それはすでにだれかが考えてしまっていることだ。
そうではなくて、それを「どのように語るか」なのだ。
ありふれたことばを組み合わせる。その組み合わせには、無限の可能性がある。
現代音楽家のジョン・ケージは、対談のなかでこんなことを言っている。
かつて音楽は、まず人々の――特に作曲家の頭の中に存在すると考えられていた。音楽を書けば、聴覚を通して知覚される以前にそれを聞くことができると考えられていたんです。私は反対に、音が発せられる以前にはなにも聞こえないと考えています。(ジョン・ケージ『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』青山マミ訳 青土社)
わたしたちが書こうとするのも、これと同じだ。わたしたちはどこかで、書こうとするものが頭の中に存在すると思っている。紙の上に書きつけられて、自分が目で読む以前に、それを知ることができると思っている。
けれども、ほんとうはケージが言うように、あらかじめ頭の中などにはないのではないだろうか。
書きつけた文章を読みなおし、さらに「自分」の気持ちに沿うように、手直しする。そうやってもう一度読む。さらに手直しする。
さらに、ケージのことばはこのように考えることもできる。
わたしたちは、どこかに「確固とした揺るぎのない真実の自分」がいるような気がしている。「自我」と言ってもいいかもしれない。わたしたちの行動は、この自我の思考によって定まっている。
あるいは、「自分探し」ということばにしてもそうだ。どこかに「ほんものの自分」がいると思い、それを探そうとしているのだ。
けれども、「わたし」は孤立して生きているわけではない。
同じ「わたし」が、相手によって、場によって、めまぐるしく変わっていく。言うこともちがえば、言葉遣いだって、動作だってちがう。
それをすべてひっくるめての「わたし」なのだ。
そうした「わたし」を定義づけようと思えば、「○○さんではない」「△△さんでもない」「××さんとはちがう」という形でしか言うことができない。
あらかじめ存在しているわけではない「自分の考え」を、紙の上に書きつけることで、とりあえず世界に出現させる。そこから、「これはちょっとちがう」「これもちょっとちがう」と書き直しつつ、作り上げていく。
そうすることによって、その文章は、しだいに「自分にしか書けないこと」に近づいていく。
(この項つづく)