3.「自分」って何だろう
わたしたちが誠実な書き手であろうとすればするほど、この問題がのしかかってくる。
誠実でない書き手というのは、「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」だ。
これは、新聞や雑誌や本で繰りかえし書かれていることを、そのままになぞっているにすぎない。こんな文章は借り物だから、いくらでも書ける。
借り物の文章は、借り物の思想を連れてくる。そうして、いつの間にか、自分の考えであるように錯覚してしまう。「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」の怖ろしさは、そんなところにもある。
わたしたちは、具体的な、顔の見えるだれかにそんなことが書けるだろうか?
この世にたったひとりしかいない相手に、自分を知ってほしい。
できることなら、この自分を好きになってほしい。
そういうときに、わたしたちは「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」は書かない。自分が知ってほしいのは、世界にたったひとりしかいない自分に起こった、そのとき一回限りの出来事だ。
書きたいことはある。そのように感じているのは、この自分だけだ。
それでも、それをことばにしようとするとき、どうしてもその間に「ずれ」が起こる。それはあたりまえだ。どんなに個人的に起こった事件であっても、私的な感情も、わたしたちは辞書に載っている「一般的な」ことばを使うしかないからだ。
けれども、それを文章にするときは、ことばを無限のパターンをもって恣意的に組み合わせることができる。
ありきたりの辞書に載っている一般的なことばが、恣意的な組み合わせによって、命を吹きこまれる。「自分にしか書けない」というのは、この組み合わせを見つける、ということなのだ。
書いているうちに、だんだんわからなくなってくる。
「ほんとうの自分」はどこにいるんだろう?
そんなものは、ことばにはつなぎ止められない。ことばにならないから、自分でもよくわからない。
だから、文章にしてみるのだ。
ちょっとちがうな。手直し。もう少しちがうふうに書いてみよう。やっぱりちがう。手直し。
そうするなかで文章は徐々に「自分にしか書けない」ものに近づいていく。
読み手を決めるというのは、そういうことだ。
読み手のことを意識すればするほど、どうでもいいことは書けなくなる。「自分にしか書けないことを、あなたにだけはわかるように」書こうと思う。
ここで、「書いたもの」は、書き手からはなれ、独立した作品になる。
それがどんな文章であれ、読み手に宛てて書いたものは、作品なのである。
そうして、作品は作品である限り、評価を受ける。
実は、自分が意識していないだけで、日常生活でもわたしたちは評価を受けているのだ。
自分が言ったことに対して、相手が腹を立てた。それは、自分のことばが、「怒り」という評価を引き出したからだ。
自分が相手によかれとやったことに対して、相手は困ったような顔をした。それは、自分の行為が「困った顔」という評価を引き出した、ということだ。
そうして、その評価は、つぎの評価につながっていく。あの人とまた会ってみたい。あの人とはもう話したくない。それはすべて、自分に対する評価ということになっていく。
それは、あいつが勝手にやったことじゃないか。
そう思うかもしれない。けれども、評価というのは、どこまでいってもそういうことなのだ。相手はかならずしも自分に寄り添ってはくれない。相手は、相手の都合で、恣意的に評価する。
そうして、わたしたちも同じことを、相手に対してやっている。
わたしたちのコミュニケーションというのは、つねにこの評価の積み重ねでもあるのだ。
文章もまったく同じだ。
自分が書いた文章は評価を受ける。そうして、読み手は必ずしも自分の意図を正確には読みとってくれないかもしれない。けれども、それを覚悟すること。引き受けること。評価する-される、の関係に身を置くこと。せんじつめれば、それが「文章を人に向けて書く」ということなのだ。
(この項つづく)
わたしたちが誠実な書き手であろうとすればするほど、この問題がのしかかってくる。
誠実でない書き手というのは、「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」だ。
これは、新聞や雑誌や本で繰りかえし書かれていることを、そのままになぞっているにすぎない。こんな文章は借り物だから、いくらでも書ける。
借り物の文章は、借り物の思想を連れてくる。そうして、いつの間にか、自分の考えであるように錯覚してしまう。「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」の怖ろしさは、そんなところにもある。
わたしたちは、具体的な、顔の見えるだれかにそんなことが書けるだろうか?
この世にたったひとりしかいない相手に、自分を知ってほしい。
できることなら、この自分を好きになってほしい。
そういうときに、わたしたちは「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」は書かない。自分が知ってほしいのは、世界にたったひとりしかいない自分に起こった、そのとき一回限りの出来事だ。
書きたいことはある。そのように感じているのは、この自分だけだ。
それでも、それをことばにしようとするとき、どうしてもその間に「ずれ」が起こる。それはあたりまえだ。どんなに個人的に起こった事件であっても、私的な感情も、わたしたちは辞書に載っている「一般的な」ことばを使うしかないからだ。
けれども、それを文章にするときは、ことばを無限のパターンをもって恣意的に組み合わせることができる。
ありきたりの辞書に載っている一般的なことばが、恣意的な組み合わせによって、命を吹きこまれる。「自分にしか書けない」というのは、この組み合わせを見つける、ということなのだ。
書いているうちに、だんだんわからなくなってくる。
「ほんとうの自分」はどこにいるんだろう?
そんなものは、ことばにはつなぎ止められない。ことばにならないから、自分でもよくわからない。
だから、文章にしてみるのだ。
ちょっとちがうな。手直し。もう少しちがうふうに書いてみよう。やっぱりちがう。手直し。
そうするなかで文章は徐々に「自分にしか書けない」ものに近づいていく。
読み手を決めるというのは、そういうことだ。
読み手のことを意識すればするほど、どうでもいいことは書けなくなる。「自分にしか書けないことを、あなたにだけはわかるように」書こうと思う。
ここで、「書いたもの」は、書き手からはなれ、独立した作品になる。
それがどんな文章であれ、読み手に宛てて書いたものは、作品なのである。
そうして、作品は作品である限り、評価を受ける。
実は、自分が意識していないだけで、日常生活でもわたしたちは評価を受けているのだ。
自分が言ったことに対して、相手が腹を立てた。それは、自分のことばが、「怒り」という評価を引き出したからだ。
自分が相手によかれとやったことに対して、相手は困ったような顔をした。それは、自分の行為が「困った顔」という評価を引き出した、ということだ。
そうして、その評価は、つぎの評価につながっていく。あの人とまた会ってみたい。あの人とはもう話したくない。それはすべて、自分に対する評価ということになっていく。
それは、あいつが勝手にやったことじゃないか。
そう思うかもしれない。けれども、評価というのは、どこまでいってもそういうことなのだ。相手はかならずしも自分に寄り添ってはくれない。相手は、相手の都合で、恣意的に評価する。
そうして、わたしたちも同じことを、相手に対してやっている。
わたしたちのコミュニケーションというのは、つねにこの評価の積み重ねでもあるのだ。
文章もまったく同じだ。
自分が書いた文章は評価を受ける。そうして、読み手は必ずしも自分の意図を正確には読みとってくれないかもしれない。けれども、それを覚悟すること。引き受けること。評価する-される、の関係に身を置くこと。せんじつめれば、それが「文章を人に向けて書く」ということなのだ。
(この項つづく)