陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

日付のある歌詞カード #6 "Lazarus"

2006-06-23 22:44:58 | 翻訳
日付のある歌詞カード #6 "Lazarus"
~ポーキュパイン・ツリーの“ラザルス”を聞いて、エピファニーを思う

音楽を聞くことは、一般に、受け身の行為であるように考えられている。

もちろん、人を立ち上がらせ、踊らせるような、あるいは、鼓舞するような、あるいは、拳を突き上げさせるような音楽もある。そういう音楽は、まったく受け身で聞いていても、はっきりとその意味が伝わる。

けれども、対話のような音楽というものも、確かにあるような気がする。

音楽というのも、やはり本を読んだり、絵を見たり、写真を見たりすることと同じで、結局は、聞き手がその音楽を理解したいと願うことだろう。音や、言葉や、色や、像によって、その作品を理解し、同時に理解しようとする自分を理解するものなのだろう。

明確な意味を伝えようとする音楽は、あまり対話の余地がなくて、一方的にその意味が向こうから来る。演奏者はその意味を、あくまでクリアに、説得力を持って伝えることに意識が向けられる。だから聞き手は、結局はその意味を消費するだけに終わってしまう。だから、聞き手は消費しつくしたら、聞くのをやめてしまうのだ。

けれども、対話としての音楽というのは、聞き手がそれを受け取ってから、自分のなかに落とし、自分の内部で意味のある言葉としてもういちど作り上げていくことを要求する。

この〈ラザルス〉は、大声で叫ぶ音楽ではない。低い声で語りかけるように、聞く人に、もっと中に入ることを呼びかける。

* * *

ラザルス


窓の外を影のような街が流れていく
そのとき、急に霧のむこうから洗い清められたような月が見えた
そうして、ぼくの頭の中に聞こえてきた内側のさまざまな声のなかから、ひとつの声が響いてきた
声が語りかける

「谷へおりるわたしのあとについてきなさい。
さあ、月の光はあなたの魂から流れ出しているのですよ」

ねじ曲がった連中の願いにさからって、ぼくは生き延びてきたのだ
そうして、音を失ったぼくの世界を静寂が貫いていく
声が語りかける

「谷へおりるわたしのあとについてきなさい。
さあ、月の光はあなたの魂から流れ出しているのですよ」

「谷へおりるわたしのあとについてきなさい。
さあ、月の光はあなたの魂から流れ出しているのですよ」

「わたしの友よ、あなたは心配しなくてよいのです
この冷たい世界は、あなたにはふさわしくないのだから

だから頭をわたしにあずけなさい
あなたを抱いてゆくことなどわたしにはわけはないのだから」

(二十年代の亡霊があなたを抱えたまま黄金の夏に舞い上がっていく)

「谷へおりるわたしのあとについてきなさい
さあ、月の光はあなたの魂から流れ出しているのですよ
ラザロよ、いらっしゃい
わたしたちと共に発つ時が来たのです」


http://video.google.com/videoplay?docid=-1398726374972805896でライブ映像を見ることができます。

* * *

見慣れた光景が、どうしたはずみか、不意にまったくちがうように、新鮮でありながら、同時に自分に親しく、まるで自分がその光景の一部であるかのように、あるいはその光景が自分の身の延長にあるように感じられた経験はないだろうか。

あんまりこういうことを神秘体験めかして言うのは好きじゃない。
ごく日常的な体験として、それこそ顔を洗ったり、部屋に掃除機をかけたり、図書館へ行って書棚から本を選んだりするように、もちろん頻度としてはずっと少ないけれど、ごくたまに、世界を身近に、自分の一部のように感じる、そんな経験だ。

そんなときの背景には、自分の心を深く揺さぶるような出来事があったり、自分の本質に関わるような決意をしていたり、といったことがある場合もある。自分が大切に思っている人から、思いがけず好意を告げられたり、あるいは、自分がやったことが認められたり。
そんなことばかりでなく、初めて雪が降ったり、きれいな夕日を見たり、木漏れ日を見たり、深く自分の身に響く音楽を聞いたり。

そんなとき、不意に、世界が新鮮なものに、本来の色と光を取り戻した、鮮やかなものに見える。

これがエピファニーだ。これはジェイムズ・ジョイスが始めた文学上の技法で……、みたいなことは、また別の機会に譲るとして、ここではそんなことが言いたいわけじゃない。

この曲が収められた"Deadwing"(デッドウィング)というアルバムは、だれも言ってなくて、世界中でそう思っているのはわたしひとりかもしれないんだけれど、コンセプトアルバムだ。精神的に痛めつけられた現代社会に生きるひとりの人物が、電車に乗っていて、月の光を見る。そうしてそこにエピファニーを見る、というのが、この〈ラザルス〉という曲なのである。

エピファニーということばには、文学的な意味合いだけではなく、宗教的な意味合いもある(というか、本来はこちらの意味だったものをジェイムズ・ジョイスが使ったのだけれど)。赤ちゃんのイエス・キリストを東方の三博士に「見せる」ということだ。

だからこの曲の詞には宗教的なメタファーがあふれているし、もうひとつ、「光」のメタファーもあふれている。そうして、この「光」のイメージを喚起するのがピアノの音なのである(ベートーヴェンの時代から「月光」とピアノの音色は親和性が高い)。

そうして、この曲をi-podで聞いていたわたしは、不意に、いつかはわからないけれど、未来のことを思ったのだった。この曲を聞いていた「いま」を、その「いつか」は、はっきりと思い出すのだろう、と。自分の胸の内にあるさまざまな思いを、自分の眼に映る街路樹や空の色や、頬に触れる風や、そうして耳元で響くスティーヴン・ウィルソンの声のなにもかもをそのままに、はっきりと思い出す「いつか」が必ず来るのだろう、と。