6.「事実」から隔てられる文章、「事実」に基づく虚構
わたしたちは、見たり、聞いたり、体験したり、その体験を通じて考えたことや感じたことをだれかに聞いてほしくて、それを言葉にし、話したり、書いたりする。
話すときでも、「見たこと」「聞いたこと」「感じたこと」のすべてを言葉にするわけではない。無意識のうちに言わずにすますこともあるし、自分でも気がつかないうちにあることがらを隠すこともある。意識的に、隠してしまうこともある。
さらに、それを文章にしようとしたら、もう一段階のプロセスがある。
「書き言葉」は「話し言葉」とはちがう。一定の「文体」というものを持つ。
だからこそ、文体のストックのなかった明治時代に、二葉亭四迷を初め、多くの作家たちが文体を作り出すための、「産みの苦しみ」を経験したのである(自然主義文学もその過程のなかから生まれた)。
つまり、文章は、先行する文章の模倣しかできないのだ。
ためしにわたしたちが小学校に入って「作文」の授業で書くことを学び始めたときのことを思い出してほしい。句読点の位置を初め、語尾の統一や、あるいは感情のあらわしかた、「きょう、わたしががっこうへいったときに…」といった、行動や経験の扱い方、おびただしい約束事を教わったことを。
文章というのは、そうした約束事の組み合わせで成り立っているのだ。
それが「先行する文章の模倣」であるということだ。
文章は二重の意味で「事実」から隔てられている、きわめて人工的なものなのである。
ところで、コミュニケーションを行うときのわたしたちは、無意識のうちに暗黙のルールに従っている。「このコミュニケーションは、わたしたちにとって意味がある」というルールだ。そうして、意味を持つように、お互いに協力しあっている。
「昨日のサッカー、残念だったね」とあなたが言うと、相手が「その話はしたくない」と答えるようなときですら、あなたは「あなたはわたしのコミュニケーション行為を妨害した」と腹を立てるかわりに、(ああ、この人は、負けたのが悔しくてしょうがないんだな)と判断して、話題を変えるだろう。このように、相手がこのルールに従うことを拒んでいるという明白な確証が得られない限り、わたしたちは、相手もルールに従って、同じゲームをしているのだ、と、判断するようにできている。相手の話は「聞くだけの価値がある」と判断するのだ。
本を読むときも同じである。
わたしたちは「この本は読む価値がある」というルールに従って読んでいる。
本のタイトルも、このルールを補強してくれるものだ。『ローマ帝国衰亡史』というタイトルは、おそらくローマ帝国の最盛期からはじまって、週末にいたることが記されているのだろう、と思うし、『時間の比較社会学』は、おそらくさまざまな社会が、それぞれに「時間」をどんなふうにとらえているかが記されているのだろう、と思う。
ところが小説の場合、何にこの「価値」を求めていったら良いのだろうか。
夏目漱石、トルストイ、ドストエフスキー、フォークナー、いわゆる「文豪」の作品なら「間違いはない」。
けれども、フィリップ・ロスの『ポートノイの不満』はどう考えたらいいんだろう?
カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス 5』は?
このとき、「実際にあったこと」「事実に基づいた」という惹句は、まったくのフィクションには持ち得ない魅力になっていく。
けれども、その反面、「事実にもとづかない」フィクションというのも存在しないのである。
カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』はこんな書き出しで始まる。
「わたし」が捕虜としてドレスデンに抑留されたこと、そこで連合国による1945年の大空襲に出くわしたこと。そうしてこのような文に続いていく。
このビリー・ピルグリムが巡礼するのは時間、つまり彼は時間旅行者なのだ。
たとえそれがSFの枠組みを用いていようが、あらゆる作品は人間の行動を描いている。現実の人間の行動を模倣している。その意味で、たとえ「ビリー・ピルグリムという時間旅行者」が虚構の産物でも、『スローターハウス5』は「事実に基づく」作品なのである。
(この項つづく:明日最終回、かもしれない)
わたしたちは、見たり、聞いたり、体験したり、その体験を通じて考えたことや感じたことをだれかに聞いてほしくて、それを言葉にし、話したり、書いたりする。
話すときでも、「見たこと」「聞いたこと」「感じたこと」のすべてを言葉にするわけではない。無意識のうちに言わずにすますこともあるし、自分でも気がつかないうちにあることがらを隠すこともある。意識的に、隠してしまうこともある。
さらに、それを文章にしようとしたら、もう一段階のプロセスがある。
「書き言葉」は「話し言葉」とはちがう。一定の「文体」というものを持つ。
だからこそ、文体のストックのなかった明治時代に、二葉亭四迷を初め、多くの作家たちが文体を作り出すための、「産みの苦しみ」を経験したのである(自然主義文学もその過程のなかから生まれた)。
つまり、文章は、先行する文章の模倣しかできないのだ。
ためしにわたしたちが小学校に入って「作文」の授業で書くことを学び始めたときのことを思い出してほしい。句読点の位置を初め、語尾の統一や、あるいは感情のあらわしかた、「きょう、わたしががっこうへいったときに…」といった、行動や経験の扱い方、おびただしい約束事を教わったことを。
文章というのは、そうした約束事の組み合わせで成り立っているのだ。
それが「先行する文章の模倣」であるということだ。
文章は二重の意味で「事実」から隔てられている、きわめて人工的なものなのである。
ところで、コミュニケーションを行うときのわたしたちは、無意識のうちに暗黙のルールに従っている。「このコミュニケーションは、わたしたちにとって意味がある」というルールだ。そうして、意味を持つように、お互いに協力しあっている。
「昨日のサッカー、残念だったね」とあなたが言うと、相手が「その話はしたくない」と答えるようなときですら、あなたは「あなたはわたしのコミュニケーション行為を妨害した」と腹を立てるかわりに、(ああ、この人は、負けたのが悔しくてしょうがないんだな)と判断して、話題を変えるだろう。このように、相手がこのルールに従うことを拒んでいるという明白な確証が得られない限り、わたしたちは、相手もルールに従って、同じゲームをしているのだ、と、判断するようにできている。相手の話は「聞くだけの価値がある」と判断するのだ。
本を読むときも同じである。
わたしたちは「この本は読む価値がある」というルールに従って読んでいる。
本のタイトルも、このルールを補強してくれるものだ。『ローマ帝国衰亡史』というタイトルは、おそらくローマ帝国の最盛期からはじまって、週末にいたることが記されているのだろう、と思うし、『時間の比較社会学』は、おそらくさまざまな社会が、それぞれに「時間」をどんなふうにとらえているかが記されているのだろう、と思う。
ところが小説の場合、何にこの「価値」を求めていったら良いのだろうか。
夏目漱石、トルストイ、ドストエフスキー、フォークナー、いわゆる「文豪」の作品なら「間違いはない」。
けれども、フィリップ・ロスの『ポートノイの不満』はどう考えたらいいんだろう?
カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス 5』は?
このとき、「実際にあったこと」「事実に基づいた」という惹句は、まったくのフィクションには持ち得ない魅力になっていく。
けれども、その反面、「事実にもとづかない」フィクションというのも存在しないのである。
カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』はこんな書き出しで始まる。
ここにあることは、まあ、大体そのとおり起こった。とにかく戦争の部分はかなりのところまで事実である。当時知りあいだった男のひとりは、自分のものではないティーポットを持っていたかどで実際に銃殺されている。またひとりは、戦争が終ったら殺し屋を雇って怨みのある連中をみんな消してやると実際にいきまいた。その他もろもろ。ここではすべて仮名を用いた。(伊藤典夫訳 ハヤカワ文庫)
「わたし」が捕虜としてドレスデンに抑留されたこと、そこで連合国による1945年の大空襲に出くわしたこと。そうしてこのような文に続いていく。
人はふりかえってはいけないとされている。わたしも、二度とふりかえらないつもりだ。
とにかく、わたしはこの戦争小説を書きあげた。つぎは楽しい小説を書こう。
これは失敗作である。そうなることは最初からわかっていたのだ。なぜなら作者は塩の柱なのだから。それは、こう始まる――
聞きたまえ――
ビリー・ピルグリムは時間のなかに解き放たれた。
そしてこう終わる――
プーティーウィッ?
このビリー・ピルグリムが巡礼するのは時間、つまり彼は時間旅行者なのだ。
たとえそれがSFの枠組みを用いていようが、あらゆる作品は人間の行動を描いている。現実の人間の行動を模倣している。その意味で、たとえ「ビリー・ピルグリムという時間旅行者」が虚構の産物でも、『スローターハウス5』は「事実に基づく」作品なのである。
(この項つづく:明日最終回、かもしれない)