3.ノンフィクション・ノヴェル
ノンフィクション・ノヴェルの嚆矢となった『冷血』は、まず冒頭に作者の謝辞が掲げられている。そこでカポーティは協力してくれたさまざまな人々に感謝しながら、「本書の中の材料で私自身の観察によらないものはすべて、公の記録から取ったか、もしくは、直接関係した人々とのインタヴュー、むしろ相当長い期間にわたって行われた無数のインタヴューの結果から生まれたものである」として、この作品が作者のフィクションではないことを明らかにしている。
『冷血』が扱うのは、1959年11月15-16日、アメリカ中西部カンザス州ホルカムという田舎町で起きた一家四人の惨殺事件である。
カポーティは二ヶ月後、『ニューヨーク・タイムズ』紙上で事件のことを知り、調査を開始する。探偵を雇い、ありとあらゆる人に面会した。特に、ふたりの犯人が逮捕されてからは、処刑直前の彼らを独房に訪ねて面談を重ね、さらに処刑にも立ち会う。そうして、六千ページにも及ぶ資料を収集したのである。
その綿密な調査記録をもとに、カポーティは「ルポルタージュ」「ドキュメンタリー」ではなく、自分の作品を「ノンフィクション・ノヴェル」と呼ぶものに仕上げたのである。
新潮文庫版『冷血』の巻末解説には、瀧口直太郎によって「ノンフィクション・ノヴェル」の特徴が三点にまとめられている。
「1.作者は作品の中に登場すべきでない。」
実際にこの作品の中には、インタヴューという形式をうかがわせる部分があっても、それは実に控えめで、あたかも自然に語ったかのような印象を受ける。たとえばこのような部分。
おそらくこの「知人」というのが、インタヴューにあたったカポーティ自身のことであろう。だが、「私」という一人称を登場させないことによって、客観性をより高めているのである。
「2.選択によって作者の見解を示す。」
六千ページという膨大な資料を、343ページの作品にまとめあげるにあたって、資料は入念に取捨選択された。その選択は、すべてカポーティによって解釈され、分類され、取捨選択に付せられたのである。
「3.創作的処理を必要とする。」
それは、たとえばこのような部分に見て取ることができる。
これが「創作的処理」と言えるのは、実際にはカポーティはこのクラターには会ったことがなく、というのも、クラターは被害者であって、その生前の様子をカポーティが知っているはずはないからなのである。
おそらくインタヴューや写真によって、カポーティは生きたクラター像を思い描き、それを作家的手腕でもって描写した。それが上記のような記述となってあらわれている。
さらに、事件が起こるまで、この事件の登場人物が、あたかも小説の登場人物のように、事件が起こっていく時間軸に沿って配置され、紹介されていく。そのことによって、倒叙ミステリを読むように、どのように事件が起こっていくのだろう、というサスペンスを持って、読者は作品を読み進めていくことになる。
つまり、文体においても、構造においても、小説とは区別のつけようがないものなのである。
事件は起こった。
事件について語る人々も現実に存在する。
こうした事実にもとづいて創作的に処理された作品は、「事実」と呼ぶべきなのだろうか、それとも「ノンフィクション・ノヴェル」という種類のノヴェル、すなわち「小説」と理解すべきなのだろうか。
(この項つづく)
ノンフィクション・ノヴェルの嚆矢となった『冷血』は、まず冒頭に作者の謝辞が掲げられている。そこでカポーティは協力してくれたさまざまな人々に感謝しながら、「本書の中の材料で私自身の観察によらないものはすべて、公の記録から取ったか、もしくは、直接関係した人々とのインタヴュー、むしろ相当長い期間にわたって行われた無数のインタヴューの結果から生まれたものである」として、この作品が作者のフィクションではないことを明らかにしている。
『冷血』が扱うのは、1959年11月15-16日、アメリカ中西部カンザス州ホルカムという田舎町で起きた一家四人の惨殺事件である。
カポーティは二ヶ月後、『ニューヨーク・タイムズ』紙上で事件のことを知り、調査を開始する。探偵を雇い、ありとあらゆる人に面会した。特に、ふたりの犯人が逮捕されてからは、処刑直前の彼らを独房に訪ねて面談を重ね、さらに処刑にも立ち会う。そうして、六千ページにも及ぶ資料を収集したのである。
その綿密な調査記録をもとに、カポーティは「ルポルタージュ」「ドキュメンタリー」ではなく、自分の作品を「ノンフィクション・ノヴェル」と呼ぶものに仕上げたのである。
新潮文庫版『冷血』の巻末解説には、瀧口直太郎によって「ノンフィクション・ノヴェル」の特徴が三点にまとめられている。
「1.作者は作品の中に登場すべきでない。」
実際にこの作品の中には、インタヴューという形式をうかがわせる部分があっても、それは実に控えめで、あたかも自然に語ったかのような印象を受ける。たとえばこのような部分。
「ときたま、ぼくは一日に六十マイルも運転することがあります」彼はある知人にいった。「そのため、ものを書く時間があまり残らないんですよ。日曜だけは別ですがね。さて、十一月十五日のあの日曜日ですが、ぼくはここの部屋にすわって、新聞に眼を通していたんです。
おそらくこの「知人」というのが、インタヴューにあたったカポーティ自身のことであろう。だが、「私」という一人称を登場させないことによって、客観性をより高めているのである。
「2.選択によって作者の見解を示す。」
六千ページという膨大な資料を、343ページの作品にまとめあげるにあたって、資料は入念に取捨選択された。その選択は、すべてカポーティによって解釈され、分類され、取捨選択に付せられたのである。
「3.創作的処理を必要とする。」
それは、たとえばこのような部分に見て取ることができる。
リヴァー・ヴァレー農場の主人ハーバート・ウィリアム・クラターは四十八歳だったが、生命保険にはいるため最近健康診断をもらった結果、自分がすばらしく健康なのを知った。縁なしの眼鏡をかけ、五フィート十インチをちょっと切れるくらいの、普通の身長にすぎなかったが、男の中の男といった風采をしていた。肩幅は広く、髪の毛は黒ずんだ色を保ち、顎の角張った、自信に満ちた顔は、健康色にあふれた若さを失わず、真っ白な歯は、まだクルミを平気で噛み砕くほど強かった。
これが「創作的処理」と言えるのは、実際にはカポーティはこのクラターには会ったことがなく、というのも、クラターは被害者であって、その生前の様子をカポーティが知っているはずはないからなのである。
おそらくインタヴューや写真によって、カポーティは生きたクラター像を思い描き、それを作家的手腕でもって描写した。それが上記のような記述となってあらわれている。
さらに、事件が起こるまで、この事件の登場人物が、あたかも小説の登場人物のように、事件が起こっていく時間軸に沿って配置され、紹介されていく。そのことによって、倒叙ミステリを読むように、どのように事件が起こっていくのだろう、というサスペンスを持って、読者は作品を読み進めていくことになる。
つまり、文体においても、構造においても、小説とは区別のつけようがないものなのである。
事件は起こった。
事件について語る人々も現実に存在する。
こうした事実にもとづいて創作的に処理された作品は、「事実」と呼ぶべきなのだろうか、それとも「ノンフィクション・ノヴェル」という種類のノヴェル、すなわち「小説」と理解すべきなのだろうか。
(この項つづく)