陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

何かを書いてみたい人のために その1.

2006-06-24 22:22:53 | 
わたしたちは、本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を見たり、忘れられないような出来事を経験したりしたようなときには、忘れたくないと思うし、それだけでなく、記録に留めておきたい、そうすることで、繰りかえし味わってみたい、と思う。

おもしろい本を読んだあと、それに触発されて、自分も何か書いてみたい、と思ったり。
何かを読んで、それはちがう、自分はそうは思わない、と思ったり。

特に記録しておかなければならないようなことがあったわけではないのだけれど、単に、何かを書いてみたい、と思うこともある。

ただ、うまく書けない。
どんなふうに書いたらいいかわからない。
何を書いたらいいのかわからない。
書きたい気持ちはあるのだけれど……。
こんなことはだれかほかの人が言ったことの焼き直しじゃないのか。

そういう人のために、さまざまな書くための指南書がある。
感じたままを書く。
5W1Hをはっきりさせる。
天声人語を(あるいは名文とされている文章を)書き写す。
いくつかのきまりを身につける。
ボキャブラリを増やす。

書いてあることは、どれもみな似たようなことだ。

けれども、そんなことをしたって、ちっとも書けるようにはならない。
あたりまえだ。
そんなもので書けたら、苦労はいらない。

わたしはプロフェッショナルの書き手ではないし、文章がたいしてうまいわけでもない、というか、どういうのが「うまい」と言われる文章なのか、「名文」とはどんなものなのか、よくわからない。
自分が書く文章はしょっちゅうねじれるし、意味不明のことも書くし、自分が書いたことなのに、あとになって読み返して、ああ、そういうことだったのか、と発見することさえある。

それでも、書くことによって、逆にさまざまな本を少しでも深く読もうとしてきたし、書くことによって逆に考えを深めていった。わたしにとって、「読む-書く-考える」はひとつながりのことだし、読むことについて考えてきたように、書くことについても考えてきた。

そういうなかで感じるのは、一般に言われる「文章の指南書」なんて、くそくらえ、ということだ。

ならば「好きなように」書いて良いのだろうか。
「自由に」書いて良いのだろうか。

もちろん好きなように書いて書けるのなら、かまわない。
自由に書いて、いくらでも書けるのなら、それでいい。

ここではとりあえず、
・何か書きたい、という気持ちはあるのだけれど。
・既存の「文章指南」はいまひとつピンと来ないのだけれど。
・どういうふうに書いたらいいのかわからない。
という人をおもな対象としようと思う。

おもに依拠することになるのは、梅田卓夫『文章表現 四00字からのレッスン』(ちくま学芸文庫)なので、そっちを読んだ方がてっとりばやい、と思われる方は、どうぞそうしてください。

1.めざすもの

まず、梅田卓夫は前掲書で「よい文章」の定義をこう定める。

よい文章とは
①自分にしか書けないことを
②だれにもわかるように書く
ということを実現している文章。


なんだ、あたりまえじゃん、って思うでしょ。
だけど、これはそんなに当たり前でも、簡単なことでもない。

では、つぎの四つのなかで、一番良いものと、一番悪いものを選び出してみてください。

①だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章。
②自分にしか書けないことをだれにもわかるように書いている文章。
③自分にしか書けないことを自分だけにわかるように書いている文章。
④だれでも書くようなことを自分だけにわかるように書いている文章。

もちろん、目指しているのは②だから、一番良いものは②だ。
じゃ、つぎに良いのは?

一般的に「良い」とされるのは、①だろう。
けれども梅田は「真に問題なのは」①である、という。

これはほかのふたつに比べると、比較的マシなように思える。いわゆる「文章指南」にある「5W1H」なんていうのは、こうした文章を奨励しているようにさえ思えるかもしれない。とりあえず、この①ぐらいの要件を満たすような文章を書きたい、と思っている人もいるかもしれない。

梅田は「このような文章ばかり書いて(書かされて)いると、文章を書くことが嫌いになってくる。楽しくなくなってくる」としか書いていないのだけれど、ここではその理由を考えてみたい。

どうして「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」が駄目なのか。

一番ありがちなのが、新聞の投書欄にあるような文章だろう。

「電車の中でさわぐ子供がいた。親は注意しようともしない。最近の親というのはまったく。」

こういう文章をあなたは読みたいですか?
やだよね。
なんで読みたくない?
それは、読まなきゃいけない理由がないからです。

③の「自分にしか書けないことを自分だけにわかるように書いている文章」、ときには④の「だれでも書くようなことを自分だけにわかるように書いている文章」、これはわたしもよく書いてしまうのだけれど、考えながら書くことをやっていくプロセスでは、不可避的に出てくるものなのだ。こうした試行錯誤は、むしろ大切なことだ。

たとえば、この文章を見てほしい。

文学に於て、最も大事なものは、「心づくし」というものである。「心づくし」といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、「親切」といってしまえば、身もふたも無い。心趣(こころばえ)。心意気。心遣い。そう言っても、まだぴったりしない。つまり、「心づくし」なのである。作者のその「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、或いは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う。
(太宰治 『如是我聞』)

これはおそらく、文章にする前に、あらかじめ太宰の頭の中にあったことがらではない。おそらくこれは口述筆記によるものだと思うのだけれど、ともかく、文学とはどういうものか、語ろうとするうちに、太宰がいきついたのが「心づくし」という言葉なのだ。

文学を「ありがたさ」「うれしさ」という角度から、普通はだれも見たりしない。「心づくし」が「最も大事」というのも、太宰だけだ。
この部分だけとりあげると、、確かに「誰にでもわかる」文章ではない。
それでも、「自分にしか書けないことを自分だけにわかるように書いている文章」として、あっちへいったり、こっちへいったりしながら進んでいるうちに、やがて「自分にしか書けないことをだれにもわかるように書いている文章」という地点へと続いていく。

それにたいして「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」は、一見、この太宰の言う「心づくし」があるかのような気がするのだけれど、その実、書き手ができあいの考えを右から左へ移しているだけの、「心づくし」のまったくない文章なのだ。「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」は、書き手の顔も見えなければ、読み手である自分のことも、書き手の眼中には入っていない。

「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」の最たるものが、電化製品の取扱説明書だろう。
どうしてあれがおもしろくないのか。
さらに、もう少し言ってしまえば、読んでもよくわからないのか。
それは書き手の顔も見えなければ、書き手の目に、読み手である自分の姿が映っていないからなのだ。

「自分にしか書けないことをだれにもわかるように書く」
目標は、そこだ。
そこに向けて、しばらく書いていくので、良かったらおつきあいください。

(この項つづく)