陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「事実」とはなんだろうか

2006-06-07 22:00:05 | 
1.実話か虚構(フィクション)か

ずいぶん前の話だけれど、『一杯のかけそば』という話がたいそう話題になったことがある。なんであんなものが、と思っているうちに、それが「創作」だとわかり、この間まで「感動した」「わたしも泣きました」と言っていた人が、手のひらをひっくり返したように批判を始め、作者の私生活まであれこれと暴かれたのではなかったか。
ともかく批判していた人の中には「実話だと思っていたのに裏切られた」という反応が少なくなかったような気がする。

似たような話は外国にもあって、これも知っている人も多いと思うけれど、ジャン・ジオノの短編小説『木を植えた男』、これも日本では実話として受け取られたようだ。
ためしにアマゾンで検索してみると、読者レビューが載っている。「事実ではなくても」といった、なんとなく微妙な発言がいくつかあった。

『アメリカ短編小説傑作選』の2000年版の編者ギャリソン・キロワーはこんなことを言っている。

 人は物語が現実的であってほしいと思う。ソローが言ったように、リアリティこそわれわれが切望するものなのである。もし人に物語を聞かせて、相手がそれを気に入れば、彼らは物語のスタイルに世辞など言わず、「それ本当?」と言う。それが作家にとって、あなたは真実を書いていますよという最高の賛辞である。単に感情を表現するためだけに物語を利用しても、人は気に入ってくれない。

わたしたちはなぜ「これは本当にあったことだろうか」と考えてしまうのだろうか。
『一杯のかけそば』にしても、『木を植えた男』にしても、「裏切られた」と感じてしまうのは、「事実だと思ったのに、フィクションだった」と知ったからだ。

このことは、わたしたちにふたつのことを教えてくれる。
1.わたしたちは、「事実」と「フィクション」を対立するものととらえている。
2.わたしたちは、「事実」の方が「フィクション」より価値があると考えている。

本を読むときも、人の話を聞くときも、わたしたちはこの話には読む、あるいは聞く価値があると思って読んだり、耳を傾けたりする。

フィクションは読まない、という人は、おそらくここで振り分けているのだ。
「事実」を扱わないものは読む価値はない、という。

フィクションは読まないけれど、歴史小説や自伝・評伝は読む、という人は、登場人物が「実在」したか「虚構」であるか、という観点から振り分けている。

小説は読むけれど、SFやファンタジーのような「荒唐無稽なもの」は読まない、という人は、「現実に起こりうる」か「現時点では、実際には起こりえない」という観点から振り分けている。

あるいは、作品を読んだ。大変おもしろかった。そういうとき、フィクションとわかっていても、これは事実ではないか、作者の実体験が反映されているのではないか、と考える。

どこまでいっても「事実」かそうでないか、という価値判断はついてまわる。

なら、「事実」というのはなんだろう。
それを考えてみましょう、というのが、このコラムの趣旨である。
しばらくおつきあいください。

(この項つづく)