陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

意見なんて言えるわけがない

2006-06-20 22:43:19 | weblog
高校生の頃、歩道橋の上でいきなりマイクをつきつけられたことがある。カメラを持った人と、マイクを持った人、それにマイクの機材を抱えた人の三人に取り囲まれて、ぎょっとした。

「あなた、高校生だよね、○○についてなんだけどォ、どう思う?」

わたしはその○○という単語をまったく知らなかったためにちゃんと聞き取ることすらできなかったのだけれど、顔の前にマイクを突き出されたうえに、そんななれなれしい口ぶりをされて、そっちのほうに大変頭に来たのだった。
おそらく「わたしがどうしてそういうことに答えなきゃならないんですか」とかなんとか、そんなふうなことを答えたのだと思う。
加えて、自分が不快である、という意思表示をするために、連中をぎろっとにらもうとしたのだけれど、もう三人組はつぎの目標を見つけて走り出し、わたしは眼光を鋭くさせたまま(笑)、そこに取り残されたのだった。

そのときはっきりと覚えているのは、少し離れたところにいた制服姿の女の子が、同じようにマイクをつきつけられて、「それって××じゃないですか~」と答えていたことだ。どうしてそんなふうにいきなり聞かれて、たちどころに答えることができるのだろうか。
聞く-答えるというのは、最低限の信頼関係のないところでは、そんなことしちゃいけないんじゃないだろうか。
わたしが気むずかしいのかもしれない。もっと単純に考えてもいいのかもしれない。それでも、アンケートと称して、さまざまなことを聞いてきたり、あるいは逆に、聞かれたらなんでも答えてしまう人を目の当たりにしたりして、なんだかなぁ、とちょっと考えてしまうのだ。

「○△の事件に対してどう思うか」という質問もよくあるのだけれど、当事者でもない、詳しい事情を知っているわけでもない、表面に現れたことの概略すらも知らないところで、どうして意見が言えるだろう。
さらには「死刑制度についてどう思うか」とか、「憲法改正についてどう考えるか」とかといった、自分の側にある程度の意見をつくるには、最低限の勉強が必要で、しかもそれを簡単に「賛成」だの「反対」だのと言えないはずのことがらでも、平気で聞いてくる人もいる。それを聞いて、いったいどうしようというんだろう、といつもわたしは考えてしまう。
加えて、自分が意見を言ったところで、それがどうなっていくのだろう。
新聞の投書欄にしてもそうなのだけれど、そこへ投書する人は、いったい誰に対して、どういう効果をねらって書いているのかよくわからないことが少なくない。
「電車の中での化粧は見苦しい」と投書したところで、それを読んで、ああ、わたしは化粧なんて見苦しいことをしていたのね、と思う人が出てくるはずがないし、まして文の最後に「心を飾る人になってほしい」なんてことが書いてあったら、「けっ」というリアクション以外、期待することはむずかしいのではあるまいか。

意見を作ることは、簡単ではない。
さまざまな要素が入り交じったことを、単純化して答えを出すことは、少なくとも多くの要素を切り捨てているのだということを知っておいた方がいい。

簡単に聞かない。
簡単に答えない。

少なくとも、わたしはそういう人の話が聞きたい。

明日には「チャールズ」アップしますね。
ということで、それじゃまた。