5.自分が宿る文章
ちょっと前に、「「事実」とは何だろうか」という文章を書いたのだけれど、そのなかでわたしは「事実」とは決してひとつではないこと、そうして、コミュニケーションの根本にあるのは、自分にとっての「事実」が、ほかの人にとっても「事実」であるということを確かめたいという欲望なのだ、ということを書こうと思ったのだった(ああ、そういうことだったのか! と思った人は手を挙げて)。
わたしたちが何かを読むということもこの確認作業だし、文章を書こうとするのも、自分が見たり経験したりしたことを、文字に書きつけて、まず自分が確認したい、そうして、それをもとに、コンセンサスを得たい、という欲望だ。
文字に書き表す。
ことばが世界に出現する。
わたしたちは、それを見て、確かめることができる。
紙の上に出現させた「わたしの考え」。
シモーヌ・ヴェーユは『哲学講義』のなかで「人はそれぞれことばを用いることによって、条件反射をこうむりもし(犬のように)、また同時に条件反射を生みだしもします(パブロフのように)」と書いている。
書きつけたことばに、自分自身が条件反射を受けることもある。
好きな人ができて、日記を書く。一日の出来事を思い出しながら、相手のちょっとした仕草を思い出し、ことばに書きつける。
それが楽しいのは、その出来事を、紙の上に、あるいはパソコンの画面に、ことばとしてもう一度出現させることができるからだ。そうして書きつけたことばは、ヨダレを垂らす犬にとってのベルの音、紙の上の文字でしかないのに、相手を思い出させるものとなる。
あるいは、今日食べたカレーがすごくおいしかったので、「おいしかった」と書く。「シーフードカレーでイカとアサリの味がカレースープになんともいえないコクを出していて、全体にサラッとしているのだけれど、スープを飲み終わったときに後口に残る風味が辛いだけじゃなくて余韻があって、どうしてももう一口飲みたくなる」と書いてみる。
これを読んだ人は条件反射のように、ヨダレが口のなかに溜まってくる(でもないか)。
ことばなのに。
実体などどこにもない、ことばでしかないのに。
自分が紙の上に出現させたことばが、自分の外に存在し始める。そのことばが逆に自分や他人に影響を及ぼしていく。
出現させたことばを目で見ながら、このことばでいいんだろうか、これはちょっとちがうな、と手直しする。
そうすることで、自分の考えは、よりはっきりしたものになっていく。深くもなっていく。
だからこそ、できあいのことばを、文章を、連れてきてはいけないのだ。
世に言う「名文」を崇拝してはいけないのは、この点にある。
「名文を書き写して自分のものにする」? 冗談言っちゃいけない。
これは、文章があくまでも脱ぎ着できる衣裳で、自分の考えはしっかりと別にある、という誤解から生まれた妄言でしかない。
自分の考えは、この書いては直し、また読んで書き直す、のプロセスのうちにしか生まれてくるものではない。
自分のことばを見つける。自分の組み合わせを見つける。手直しする。別の角度から見る。また書き直す。そのプロセスのうちにしか、自分の文章は生まれないし、自分の考えも生まれないのだ。
(この項つづく)
ちょっと前に、「「事実」とは何だろうか」という文章を書いたのだけれど、そのなかでわたしは「事実」とは決してひとつではないこと、そうして、コミュニケーションの根本にあるのは、自分にとっての「事実」が、ほかの人にとっても「事実」であるということを確かめたいという欲望なのだ、ということを書こうと思ったのだった(ああ、そういうことだったのか! と思った人は手を挙げて)。
わたしたちが何かを読むということもこの確認作業だし、文章を書こうとするのも、自分が見たり経験したりしたことを、文字に書きつけて、まず自分が確認したい、そうして、それをもとに、コンセンサスを得たい、という欲望だ。
文字に書き表す。
ことばが世界に出現する。
わたしたちは、それを見て、確かめることができる。
紙の上に出現させた「わたしの考え」。
シモーヌ・ヴェーユは『哲学講義』のなかで「人はそれぞれことばを用いることによって、条件反射をこうむりもし(犬のように)、また同時に条件反射を生みだしもします(パブロフのように)」と書いている。
書きつけたことばに、自分自身が条件反射を受けることもある。
好きな人ができて、日記を書く。一日の出来事を思い出しながら、相手のちょっとした仕草を思い出し、ことばに書きつける。
それが楽しいのは、その出来事を、紙の上に、あるいはパソコンの画面に、ことばとしてもう一度出現させることができるからだ。そうして書きつけたことばは、ヨダレを垂らす犬にとってのベルの音、紙の上の文字でしかないのに、相手を思い出させるものとなる。
あるいは、今日食べたカレーがすごくおいしかったので、「おいしかった」と書く。「シーフードカレーでイカとアサリの味がカレースープになんともいえないコクを出していて、全体にサラッとしているのだけれど、スープを飲み終わったときに後口に残る風味が辛いだけじゃなくて余韻があって、どうしてももう一口飲みたくなる」と書いてみる。
これを読んだ人は条件反射のように、ヨダレが口のなかに溜まってくる(でもないか)。
ことばなのに。
実体などどこにもない、ことばでしかないのに。
自分が紙の上に出現させたことばが、自分の外に存在し始める。そのことばが逆に自分や他人に影響を及ぼしていく。
出現させたことばを目で見ながら、このことばでいいんだろうか、これはちょっとちがうな、と手直しする。
そうすることで、自分の考えは、よりはっきりしたものになっていく。深くもなっていく。
だからこそ、できあいのことばを、文章を、連れてきてはいけないのだ。
世に言う「名文」を崇拝してはいけないのは、この点にある。
「名文を書き写して自分のものにする」? 冗談言っちゃいけない。
これは、文章があくまでも脱ぎ着できる衣裳で、自分の考えはしっかりと別にある、という誤解から生まれた妄言でしかない。
自分の考えは、この書いては直し、また読んで書き直す、のプロセスのうちにしか生まれてくるものではない。
「世の中には“名文”と呼ばれるものがある。練達の書き手が残した“奇跡的な”文章である。このような文章は初心者にはとうてい無理だけれども、せめてそれを模範にして、それなりの文章が書けるようになろう」というのが名文崇拝主義です。「ついてはここに、ある人の書いた(と匿名がきます)ダメな文章がある。どこを直したら“名文”に近づけるか考えてみよう」ということばが続くでしょう。
このような文章指導は、明治以降現在にいたるまで行われてきました。学者や詩人・小説家の文章を“名文”として神格化することによって、初心者や一般人の文章を、無言のうちにおとしめるのです。神格化のために並み並みならぬ努力が強調されます。高名な作家が文章作法修得のためにはらった努力が伝説化されます。「文は人なり」とか「文章に全人格を賭ける」「全身全霊をかたむける」などという大げさなことばが使われるようになります。
文章と作者その人の混同がおこり、すぐれた文章を書くためには立派な人にならなければならない、人格を研いて初めて立派な文章が書けるといいふらされます。文章を学ぶことが、「文章修行」とか「文章道」とか「修練」などという、まるで仏道修行のようなことばで表されてきました。
こうして、多くの初心者が脱落していき、それでも残った少数者がやがて“名文”の書き手として君臨するようになるわけです。永年、このような図式が支配してきました。
でも現在は少しずつ崩れはじめています。文章はもう選ばれた少数者のものではないからです。梅田卓夫『文章表現四〇〇字からのレッスン』
自分のことばを見つける。自分の組み合わせを見つける。手直しする。別の角度から見る。また書き直す。そのプロセスのうちにしか、自分の文章は生まれないし、自分の考えも生まれないのだ。
(この項つづく)
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