陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

金魚的日常番外編 ――キンギョが病気になった!――

2006-06-02 22:31:47 | weblog
ほかの魚を飼ったことがないので単純に比較はできないのだけれど、金魚は病気になりやすい。「キンギョ飼い」になることを運命づけられた人の圧倒的多数は、以下の三段階を必ず経験することになるだろう。これは、金魚の病気に役に立つ情報を伝えることを目的とした文章ではない。あくまで、「キンギョの病気」という厄介な事態に何度も巻き込まれたその道の先達のひとりとして、この災厄がふりかかってきた同士に対して、「キミだけじゃないんだよ」という、何の役にも立たない激励を送ることを目的とする文章なのである。

1.これは病気ではない(否認)

まず、時間が有り余っているキンギョ飼い、あるいは営利目的、もしくはキンギョを「さん」づけで呼ぶ根っからのキンギョ愛好家ではないあなたは、若干の挙動不審のキンギョが目に留まったしても、まずこう考えるだろう。
「なんでもないよ、たぶん」

キンギョが一匹、ほかから離れてじっとしていたとしても、きっとこいつは孤独な気分を味わいたいのだろう、とか、内省するには、群れから離れる必要があるからな、とか、そろそろこの水槽にも飽きてきて、どこかに出かける計画を温めているのだろう、とか、あるいは憂鬱にとりつかれているのかもしれない、とかと、さまざまな可能性に思いを巡らせてみるのだが、実はそれも、不快な想像をなんとしても避けるためなのである。

「なんでもない」というのは、ほかでもない、あなた自身に言い聞かせているのだ。気にするほどのことはない、明日になれば、群れに戻って、元気に泳ぎ始めるさ。それが証拠に着底(※キンギョが水槽の底におなかをつけた状態。たいてい、病気が進行すると、体を支えるのがしんどくなるのか、キンギョはぺたーっと底のじゃりにお腹をつけた状態になる)していないじゃないか。心配する必要なんてない、だいたいこのクソ忙しいときに、キンギョが病気になるわけがないじゃないか……たぶん。

そう、この「たぶん」、英語で言えば "maybe"、ここに実はあなたの不安な気持ちが篭もっているのだ。

2.これは病気だ(受容)

翌朝、あなたは水槽をのぞいてみる。元気に泳いでいる群れとは別に、すみにじっとしている一匹。
ああ、やっぱり。深いため息が出る。
だが、ここであなたはここで決意を固める。
この瞬間にキンギョは晴れて「病気のキンギョ」になるのである。つまり、キンギョが病気の状態に移行するのは、あなたがキンギョの治療を引き受けることを決意したからなのである。そうでなければ、キンギョは「病気」の状態を経ず、数日のうちに腹を上にして水面に浮くことになるだろう。

ここで役割が分担される。
キンギョは病魚の役割を引き受け、あなたはここでキンギョの医者兼看護士兼薬剤師の役割を引き受けることになる。

かくして医者の第一歩は、観察である。
キンギョは、ちょっと胸がもたれたようで、とか、腹のあたりがカユイ、とか、背びれがキモチワルイとか、最近便秘気味で、なんていうことは決して言ってくれない。仕方がないので、問診なしであなたはキンギョの様子を観察する。目は大丈夫か。ウロコははげてないか。血が滲んだような箇所はないか。尾びれや背びれの縁が溶けたようになってはいないか。白点はないか。

あなたが新米のキンギョ飼いであれば、パソコンは非常にありがたい味方になってくれる。
病気、キンギョ、と検索すれば、たいがい山のように有益なサイトがヒットするからである。たまに「金魚的日常」のように、夏目漱石のことは書いてあっても、どうやって松かさ病を治療したかはちっともわからないサイトがヒットすることもあるが、多くは大変実践的で、役に立つ。

あるいはすでに何度かキンギョの病気に遭遇していれば、あなたはすでに体験的治療手段を持っていることだろう。
というのもその水槽の状態によって、病気というのは一定の傾向を持つのである。従って、多くの「キンギョ医者」たちは、自分の好みの治療法を確立している。しかも市販の薬はたいてい一度購入すれば十年ぐらい持ちそうな量の瓶に入っているものなのである。

人間の薬なら、薬のほかに用意するものといえば、コップに汲んだ水ぐらいですむのだが、相手がすでに水の中に住んでいるキンギョとなると、そうはいかない。薬や塩をそのまま水槽にドボドボと入れるわけにはいかないのである。

(明日につづく)