陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「事実」とは何だろうか その5.

2006-06-12 22:23:48 | 
5.私小説の元祖を読んでみる

後藤明生の『小説――いかに読み、いかに書くか』(講談社現代新書)では、一章を割いて「事実かフィクションか」というタイトルで、田山花袋の『蒲団』が、従来考えられていたように、必ずしも「事実の告白」ではなかったことが論考されている。

これまで日本の自然主義文学=私小説は、田山花袋の『蒲団』をもって始まると考えられてきた。私小説とは、ここでは「作者=主人公であり、作品は作者の経験のありのままの告白である」ような文学であるとおおざっぱにとらえることにする。

まず、『風俗小説論』のなかで、中村光夫は田山花袋が『蒲団』を書くに至った背景事情を述べた『東京の三十年』から引用しながら、その作品の背景にあった花袋の思想をあきらかにしている。

「丁度其の頃私の頭と体とを深く動かしていたのは、ゲルハルト・ハウプトマンの "Einsame Menschen" であった。フォケラァトの孤独は私の孤独のような気がしていた。それに、家庭に対しても、事業に対しても、今までの型を破壊して、何か新しい路を開かなければならなかった。幸いにして私は外国――殊に欧州の新思想を歪みなりにも多い読書から得ていた。…私も苦しい道を歩きたいと思った。世間に対して戦うと共に自己に対しても勇敢に戦おうと思った。かくして置いたもの、壅蔽して置いたもの、それを打ち明けては自己の精神も破壊されるかと思はれるやうなもの、さういふものをも開いて出して見ようと思った」(「東京の三十年」)
…中略…
「蒲団」を読んで見ても、また右に引いた彼の言葉からも、まず明かなのは、花袋が感動し、模倣したのは、戯曲にかかれたヨハンネスであり、この戯曲を書いたハウプトマンではない、ということです。
「フォケラァトの孤独は私の孤独のような気がしていた」というところから、花袋はこの作中人物を操る作者の手付には眼をとめず、いきなりヨハンネスを実演してしまったのです。その実演がそのまま芝居になると思いこんでしまったのです。

 作者みずから作中人物と化して躍ることで、小説をつくりあげ、併せてそこに作品の真実性の保証をみることに、花袋から田中英光まで一貫した、我国の私小説の背景をなす思想があると思われます。

確かに主人公の年齢、家族構成、勤め先など、発表当時の花袋と重なる部分も多い。
現実に、花袋は岡田ミチヨという内弟子を取っていた、ということもある。
そうして、当時の多くの人々は、作者=主人公時雄と理解し、花袋の勇気ある告白に喝采を送ったのである。

中村は外国文学を誤って理解し、「事実」を「告白」しさえすれば小説になるという「私小説」の源流となった、と批判するのである。

けれども、後藤は『蒲団』の以下のような特徴を指摘する。

(1)新旧世代の分離、断絶を捉えた小説である。
(2)これは、そういう時代背景の上に巧みに仕組まれた三角関係の小説である。
(3)ハウプトマンの『寂しき人々』を、なかなかうまく下敷きにして、「近代化の曙期」明治時代の日本に当てはめた小説である。
(4)中村(※光夫)説では、作者=ヨハンネス(『寂しき人々』)=竹中時雄であり、したがって作者と作中人物との距離が皆無であり、作品全体が作者の「主観的感慨の吐露」ないし、モノローグに終始している、というが、必ずしもそうではない。
(5)この小説における「自然主義」は、二つの意味に解釈できる。一つは、叙事、叙景が、人間の内部(意識)とまったく無関係におこなわれる、という意味での自然描写、および人事の記述である。
(6)もう一つは、「人間獣」のホンネという意味での「自然」である。ただし、このホンネは必ずしも経験された「事実」とは限らない。いわば「可能性」としてのホンネである。したがたがってこれは、素材そのものが事実か否かとは無関係に、「私小説」とはいえない。

とくに、三角関係、つまり、作中の芳子には「同志社大学神学部の学生」である田中秀夫という恋人が、作品の中には登場する。だがしかし、この「田中秀夫」がモデルとなったような実在の人間がいたかどうか、これまで問題となってこなかったことを後藤は指摘するのである。

花袋は「かくして置いたもの、壅蔽して置いたもの、それを打ち明けては自己の精神も破壊されるかと思はれるやうなもの、さういふものをも開いて出して見よう」と言って、『蒲団』を著した。
けれども、この「かくして置いたもの、壅蔽して置いたもの」が、そのまま花袋の「事実」であったとはいえないのだ。

後藤の主張は、「『蒲団』は必ずしも経験された事実そのままに描いたものではない」ということである。

『蒲団』にはこのような部分がある。

 中根坂を上って、士官学校の裏門から佐内坂の上まで来た頃は、日はもうとっぷりと暮れた。白地の浴衣がぞろぞろと通る。煙草屋の前に若い細君が出ている。氷屋の暖簾が涼しそうに夕風に靡く。時雄はこの夏の夜景を朧げに眼には見ながら、電信柱に突当って倒れそうにしたり、浅い溝に落ちて膝頭をついたり、職工体の男に、「酔漢奴! しっかり歩け!」と罵られたりした。急に自ら思いついたらしく、坂の上から右に折れて、市ヶ谷八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく寂寞としていた。大きい古い欅の樹と松の樹とが蔽い冠さって、左の隅に珊瑚樹の大きいのが繁っていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦しいので、突如その珊瑚樹の蔭に身を躱して、その根本の地上に身を横えた。興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬の念に駆られながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。

 初めて恋するような熱烈な情は無論なかった。盲目にその運命に従うと謂うよりは、寧ろ冷かにその運命を批判した。熱い主観の情と冷めたい客観の批判とが絡り合せた糸のように固く結び着けられて、一種異様の心の状態を呈した。

 悲しい、実に痛切に悲しい。この悲哀は華やかな青春の悲哀でもなく、単に男女の恋の上の悲哀でもなく、人生の最奥に秘んでいるある大きな悲哀だ。行く水の流、咲く花の凋落、この自然の底に蟠れる抵抗すべからざる力に触れては、人間ほど儚い情ないものはない。
 汪然として涙は時雄の鬚面を伝った。

中村光夫はこの場面をこのように指摘する。

 おそらく『蒲団』のなかの一番見事な描写は、愛弟子の恋人の情況を知つた時雄が泥酔して芳子の仮寓を訪ねるあたりですが、その途中の神社で泥まみれに寝転んで泣く場面にたつた一行、「汪然として涙は時雄の鬚面を伝つた。」といふ、作者が主人公の滑稽をいしきしかけたかと思はれるやうな章句があります。
 しかしこの元来他人の登場しない独白小説で、「髭面を伝ふ涙」は作者自身の笑ひすらよびさまさず、逆にこの言葉の象徴する時雄の甘えた自意識は、そのまま誰の手も触れられずに終わります。
 この主人公が実生活に演じた事件の滑稽さがまつたく作者の眼を逃れて、喜劇の材料が無理押しに悲劇的独白で表現されたところに、我国の私小説が誕生したのです。

だが、もういちど『蒲団』を読み返してみると、「実生活に演じた事件の滑稽さがまつたく作者の眼を逃れて」いるとまで言い切れるのだろうか。

現実に花袋がこのように泥酔して愛弟子の仮寓を訪ねたかどうかはここではひとまず置く。
わたしが指摘したいのは、たとえば「電信柱に突当って倒れそうにしたり、浅い溝に落ちて膝頭をついたり、職工体の男に、「酔漢奴! しっかり歩け!」と罵られたり」している主人公を見ている外部の視点がなければ、このような描写はできない。
あるいは「汪然として涙は時雄の鬚面を伝った。」の一文にしても、「髭面」という一語によって、そこはかとないおかしみを感じてしまう。

ここでわたしが指摘したいのは、「自分のことを自分で書くくらい間違いのないことはない。事実である以上、嘘があるわけはないという考え方です」と中村は言うのだけれど、「自分のことを自分で書く」時点で、すでに「他者の視点」は入ってきてしまう、ということなのである。

少なくとも、文章は、話し言葉とはちがう。
「あのね、つまりね、え、と、だからね」
書き言葉をどれだけ話し言葉に近づけようとしても、そこで完全な再現をすることはできない。

さらに、出来事を「言葉」にして再現しようと思えば、話し言葉を書き言葉に変換するより、さらに編集されることが必要なのである。

ためしに自分の感情を書いてみよう。
胸がもやもやする。この状態に、まず「もやもや」という言葉をあてはめる。
この「もやもや」はどこからくるのだろう。いったいなぜなんだろう。記憶をひもとく。この胸の内にある感情が「不安」なのだ、ということにたどりつくまで、わたしたちは自分がこれまでに見たり聞いたり体験したりしたことを頭の中で再現しなければならない。自分以外の登場人物がいれば、その人間の行動の背景を推理することもやってみる。そうか。こういうことがあったから、自分はあの人からこんなふうに思われているのではないか、と思って、いまこんなふうに気持ちが「もやもや」しているのだ、ああ、わたしは不安なのだ。そうしたのちに、初めて「わたしは不安だ」という文章が書ける。

こう考えると、「事実」というのがどこまで「事実」であるといえるのか、いよいよわからなくなってくるのだ。

「作者に起こったありのまま」を「告白」したはずの私小説でさえ、情景描写があり、他者の眼が導入されている。そんなものは、本来の「私」の経験ではありえない。一種の「虚構化」がおこなわれているのだ。そうして、この「虚構化」は、書くこと本来が不可避的に持っていることなのではないのだろうか。

(この項つづく)